蟲人の森 -蝶の王-

槇木 五泉(Maki Izumi)

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胡蝶の想い.1

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***

 長く待ち焦がれていた春の一日を全身で堪能したムラサキは、やがて一本の朽ちかけた大木の枝まで翔び上がって、そこに止まる。
 今朝方出てきた隠し戸は、一見するとごつごつした樹皮と見分けがつかない、見事な擬態が施されていた。しかし、樹皮を掻き分けると、そこには旧い宮殿の内側に続く入口がある。
 暗がりの中、足を踏み外さないように気を払いながら、長い翅の裾を引きずって、壁に刻まれたきざはしを一段ずつ降りていった。

 
 たった半日離れていただけなのに、随分長く戻っていないような気になった。相変わらず、月詠茸は木の洞に出来た大広間の中を静かに照らし続けていたし、貯水池の雨樋に滴り落ちる雫は、規則的に清廉な水音を響かせている。


 果たして、真っ直ぐに向かった先の寝床の縁に腰を降ろし、シノノメは深々と項垂うなだれていた。
 しかし、ムラサキがゆっくりと近づいてくる気配を察し、驚愕に満ち溢れた顔が跳ね上がってムラサキを見詰める。

「ムラサキ、お前、何で戻ってきた──?」
「何でと言われてもね…。ここが私のねぐらだからかな。すまなかったね、黙って出ていって。私も、外で新鮮な食事をしたかったんだ。寝ている君を起こすのは、忍びなかった。」
「──お前は…逃げようと思えば何処にでも行けたんだぞ?俺は、蝶のお前を喰おうとした毒蜘蛛なんだぞ?気でも狂ってるのか?なぁ!」
「そうかもしれない。」

 大きく見開かれた青い眸は、暗がりの中でもムラサキの微笑する面輪が明瞭と見えているに違いない。心なしか、シノノメの激した語尾は微かに震えていた。
 寝床の縁に腰掛けて、茫然とムラサキを見詰める若者の肩に、ムラサキはそっと両手を載せる。そして、静かに唇を開いた。

御覧ごらん、シノノメ。」

 彼の前で、ゆっくりと、二対四枚の大きな翅を広げて見せる。焦茶に紫に黄色、白と赤の斑が乗った、昔はこの森で一番美しいと賞賛された、所々擦り切れて襤褸ぼろになった翅だ。
 傷付き、破れたこんな翅でも、シノノメは両腕で抱き締めてくれた。温かい、と口にして撫でながら、手触りや香気を愛でてくれた。
 今となっては誰一人護ることのできなくなった古びた翅の隅々まで見せるように目一杯に広げ、我が仔に言い含めるように、ムラサキは静かに語り聞かせる。

「君は、羽虫が嫌いだと言った。蜘蛛を傲慢に見下して、我が物顔で頭の上を飛んでいく羽虫が嫌いだと…そう言っていたね。でも、空は決して君が思うほど自由じゃない。非力な翅では海なんかとても渡れないし、そらという場所は、羽虫にとっては戦場いくさばなんだ。血を残すため、雌を巡って争い、我が仔を護るための戦場いくさば。──私は、もうそんな戦には勝てない。翔べなくなれば、羽虫の生涯は終わる。この身は誰を護ることも出来ずに、冬の森で独り虚しく野垂れ死ぬはずだった。」
「──…。」

 シノノメは何も言わない。まだ幼さの片鱗が残る顔に目一杯の驚愕を浮かべ、ムラサキを凝と見詰めている。掌を載せ置いた肩先は、僅かに震えていた。
 彼の青い瞳の中で、ムラサキは柔らかな笑顔を浮かべる。異種の毒蜘蛛に、慈しみと愛おしさを込めた視線を向け、尚も穏やかに言葉を続けた。

「そんな命を、二度も繋いだのは君だ。つがいを護れなくなった蝶の雄に、蝶として生きる意味はない。けれど、ただそこに居るだけで構わないならば、『蝶の王』でなくなった今の私にだって出来る。──君が救った、元々無かった筈の命なんだ。だから、残る全てを君にあげようと思った。食べられたって、殺されたって構わない。シノノメという名前と私の命は、全部君のもの。…好きにして構わないよ。」
「ムラサキ──!」

 昼を翔ぶ胡蝶の眼は、生憎と闇の中を見通すようには造られていない。それでも、確かに視えたものがある。恐ろしい毒蜘蛛の眼から溢れ、頬に伝い落ちる雫の、何と清廉で愛おしいものか。
 無言で涙を流し続けるシノノメの肩から、頬へと掌を移し、濡れそぼつそこをしっとりと包み込む。広げていた翅をゆるりと畳みながら、自嘲交じりにふっと眉尻を下げて見せた。

「どう足掻いても、私は君より先に死んでしまう。それが時の道理だし、老いた雄の蝶なんか喰らったところで、筋張って不味いだけなんだろう?それでも…君が、こんな私でも良いと言ってくれるのならば、ね…。」
「──クソっ…!俺は、こんなモンを…こんな自分を見せたい訳じゃねえんだ…!なのに──お前が…!…お前のせいで…!」
「…うん。そうだろうね…。」

 刹那、腰の上を強く抱き締められ、息が止まるかと錯覚した。
 ムラサキの手を振り払うように着流しの胸に顔を埋めるシノノメは、きっと、泣き顔をムラサキに見られたくはないのだろう。ムラサキに生き写しの若い雄蝶がそうであったように、今が盛りの二十令の凛々しい雄ならば、番いの雌を得て幸福に暮らしているのがごく当たり前。なのに蟲人として当然得て然るべき栄華から切り離され、たった一匹で生涯を終える外つ国の毒蜘蛛が、あまりに不憫でならなかった。

 この森に、自分自身が生きた痕跡を確かに見届け、自分の血を残すという役目を終えた蝶の胸の中には、本来ならば湧く筈のない情というものが確かに宿っていた。

 引き寄せられるまま若い腕に身を預け、その背をそっと抱き締めた。この上、あの埋葬蟲しでむしのように酷い苦痛を与えられながら貪り喰われたとしても、ムラサキの肉を胃の腑の中に落とすということがシノノメの望みならば、喜んで叶えてやりたいとさえ想っていた。
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