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新たなる王.2
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澄んだ泉で手足を洗い、口を漱いで、次にムラサキが向かったのは、豊富な樹液を湛える古木の一群だった。分厚い樹皮の所々から滲み出す樹液は、時間が経てば深い甘みのある酒として醸され、口に含むと軽い酔い心地をもたらすものだ。
既に、朝早いうちにこの自然の恩恵に与かった者が多いのだろう。或いは、餌とするには酒精を含み過ぎているため、大木の周りにはさほど他の蟲人の姿は見えず、樹上で酔いくつろいでいた黄金虫は、ムラサキの大きな斑模様の翅を見るや、場所を空けてそそくさと飛び立っていってしまった。故に、枝の上を独り占めして、草の葉を丸めて作った一度きりの柄杓で、湧き出す樹液を掬って口に運ぶ。程よく熟成が進み、甘味の他に酒精を含むようになった飴色の樹液を、ムラサキは昔から大層好んでいた。
さらりとした甘味を心行くまで味わうが、それをあまりに嗜み過ぎると、酩酊して前後不覚の境地に陥るということをよく心得ている。森の自然が生んだこの樹液の酒を、確実に老境を踏むこの身はあと幾度味わえることだろう。
腹を満たし、心を夢心地にする樹液を草の柄杓で汲み上げて二杯飲み干したところで、ムラサキの耳に、低く唸るような小刻みな翅音が届いた。
「──やあ、誰かと思えば、ムラサキ殿じゃないか。今年の冬も、無事に過ごせたのだね。息災で何よりだ。」
「あぁ、花嵐殿か…。」
琥珀色の、薄い二対四枚の翅を震わせて滑るように羽ばたき、ひらりと舞い降りてきたのは、濃茶色に黄色の細い縦縞のある洒落た洋装に身を包んだ、花嵐という名の雄の雀蜂だ。淡い茶色の波打つ短髪に、気障な二重の垂れ目をした彼は、ムラサキより少々年上の、四十五令を超えた雄蜂で、気の荒い雌蜂とは違って毒槍や剣を身に着けていない。
まだ互いに若い頃、餌場を巡って争うこともあった花嵐とは、気付けば同じ森に生きて冬を越した数だけ、顔馴染みとして言葉を交わすようになっていった。
襟元と袖口から白い麗糸の飾りを覗かせる花嵐は、長く群れの女王に沿う王蜂として振る舞っている。王蜂とはいえ決して居丈高にせず、気性が穏やかで、常に女王を立てる人たらしの色男の花嵐は、今年も無事に巣の中で番兵蜂に護られながら一冬を過ごしていたらしい。ムラサキはもう使わない草の柄杓を花嵐に手渡すと、彼は、酒精を含んだ樹液を掬って一杯、二杯と飲み干し、口許を拭いながら、ゆったりとした足取りで近付いてきた。今となっては、種は違っても長い顔見知りの、数少ない同じ年頃の蟲人である。
「蝶の王は、お独りかな?今年の越冬は、番いの女王を見つけられなかったのか──?」
「止してくれ。その呼び名は、今の私には重過ぎる。…この翅も色褪せて、雌と仔を守るには力不足だ。だが、それでも恙無く今年の冬を乗り切ることが出来たのですよ。」
「ふむ…。徐々に顔見知りが減っていくのは、寂しいことだよ。ムラサキ殿はまだ男振りもいい、今年の冬までには、王に相応しい妻を伴えるといいねぇ…。」
役割を果たした草の器を投げ捨てながら、花嵐は、皺の刻まれた下がり気味の目尻を細めて笑った。他意のない花嵐の言葉に、微笑しながら曖昧な頷きを返す。まさか、外つ国の異種の毒蜘蛛と共に越冬を果たしたということなど、口にする訳にはいかない。蜜蜂の巣をただの一匹で滅ぼしてのけた存在がこの森に居ることを知らせれば、徒に他の蟲人達の不安を煽るだけだろう。まして、大勢の働き蜂の父でもある王蜂、花嵐の耳には、殊更に入れたくない。長い睫毛を伏せて足元を見詰め、自虐のように溜息を零して見せる。
「私も、何事もなければ、もう四十六令になる。…蝶の身には過ぎた寿命だ、だが、同胞が一人また一人と見えなくなっていくのは、確かに寂しいものです。」
「何の、ムラサキ殿は、まだまだ力強く翔ぶことができるだろうに。──それに、歳を重ねた数で行くと、我々より更に年長の御仁がいらっしゃったようだ…。」
「おや…。」
花嵐の黒い瞳が見詰める方角を見上げれば、力強い羽音と共に、更に一匹の蟲人が飛翔してくる。二匹が止まった木の枝を揺らさんばかりの勢いで降り立ったのは、黒い鎧兜に身を固め、灰色の立派な口髭を生やした身体の大きな鍬形虫だった。
丁度その折、樹液の甘味に惹き付けられてきた若い小さな黄金虫と鉢合わせになると、鎧武者は太い眉を吊り上げて、低く空気を震わせるような声で一喝する。
「小童め、尽きて無くなる訳ではあるまいに、ここは年嵩の者へ先を譲らんか!」
驚き、竦み上がって物陰に隠れる黄金虫をいいことに、鍬形虫はのしのしと歩いて湧き出でる樹液の中に豪快に手を差し込むと、掌を器代わりにしてごくごくと呷り始めた。実に大胆なその様子に、鬱々としていたムラサキの目尻が自然と緩む。
「やあ、角斗殿もおいでなすったか。無事に冬を越せて、互いに何よりでした。」
「おう、ムラサキに、花嵐か。…馴染みの顔が揃いも揃っておるとはのう。貴殿らも厳しい冬を乗り越えてきた訳だな。まあ、生き延びたからには、この一夏を共に謳歌しようではないか…。」
既に、朝早いうちにこの自然の恩恵に与かった者が多いのだろう。或いは、餌とするには酒精を含み過ぎているため、大木の周りにはさほど他の蟲人の姿は見えず、樹上で酔いくつろいでいた黄金虫は、ムラサキの大きな斑模様の翅を見るや、場所を空けてそそくさと飛び立っていってしまった。故に、枝の上を独り占めして、草の葉を丸めて作った一度きりの柄杓で、湧き出す樹液を掬って口に運ぶ。程よく熟成が進み、甘味の他に酒精を含むようになった飴色の樹液を、ムラサキは昔から大層好んでいた。
さらりとした甘味を心行くまで味わうが、それをあまりに嗜み過ぎると、酩酊して前後不覚の境地に陥るということをよく心得ている。森の自然が生んだこの樹液の酒を、確実に老境を踏むこの身はあと幾度味わえることだろう。
腹を満たし、心を夢心地にする樹液を草の柄杓で汲み上げて二杯飲み干したところで、ムラサキの耳に、低く唸るような小刻みな翅音が届いた。
「──やあ、誰かと思えば、ムラサキ殿じゃないか。今年の冬も、無事に過ごせたのだね。息災で何よりだ。」
「あぁ、花嵐殿か…。」
琥珀色の、薄い二対四枚の翅を震わせて滑るように羽ばたき、ひらりと舞い降りてきたのは、濃茶色に黄色の細い縦縞のある洒落た洋装に身を包んだ、花嵐という名の雄の雀蜂だ。淡い茶色の波打つ短髪に、気障な二重の垂れ目をした彼は、ムラサキより少々年上の、四十五令を超えた雄蜂で、気の荒い雌蜂とは違って毒槍や剣を身に着けていない。
まだ互いに若い頃、餌場を巡って争うこともあった花嵐とは、気付けば同じ森に生きて冬を越した数だけ、顔馴染みとして言葉を交わすようになっていった。
襟元と袖口から白い麗糸の飾りを覗かせる花嵐は、長く群れの女王に沿う王蜂として振る舞っている。王蜂とはいえ決して居丈高にせず、気性が穏やかで、常に女王を立てる人たらしの色男の花嵐は、今年も無事に巣の中で番兵蜂に護られながら一冬を過ごしていたらしい。ムラサキはもう使わない草の柄杓を花嵐に手渡すと、彼は、酒精を含んだ樹液を掬って一杯、二杯と飲み干し、口許を拭いながら、ゆったりとした足取りで近付いてきた。今となっては、種は違っても長い顔見知りの、数少ない同じ年頃の蟲人である。
「蝶の王は、お独りかな?今年の越冬は、番いの女王を見つけられなかったのか──?」
「止してくれ。その呼び名は、今の私には重過ぎる。…この翅も色褪せて、雌と仔を守るには力不足だ。だが、それでも恙無く今年の冬を乗り切ることが出来たのですよ。」
「ふむ…。徐々に顔見知りが減っていくのは、寂しいことだよ。ムラサキ殿はまだ男振りもいい、今年の冬までには、王に相応しい妻を伴えるといいねぇ…。」
役割を果たした草の器を投げ捨てながら、花嵐は、皺の刻まれた下がり気味の目尻を細めて笑った。他意のない花嵐の言葉に、微笑しながら曖昧な頷きを返す。まさか、外つ国の異種の毒蜘蛛と共に越冬を果たしたということなど、口にする訳にはいかない。蜜蜂の巣をただの一匹で滅ぼしてのけた存在がこの森に居ることを知らせれば、徒に他の蟲人達の不安を煽るだけだろう。まして、大勢の働き蜂の父でもある王蜂、花嵐の耳には、殊更に入れたくない。長い睫毛を伏せて足元を見詰め、自虐のように溜息を零して見せる。
「私も、何事もなければ、もう四十六令になる。…蝶の身には過ぎた寿命だ、だが、同胞が一人また一人と見えなくなっていくのは、確かに寂しいものです。」
「何の、ムラサキ殿は、まだまだ力強く翔ぶことができるだろうに。──それに、歳を重ねた数で行くと、我々より更に年長の御仁がいらっしゃったようだ…。」
「おや…。」
花嵐の黒い瞳が見詰める方角を見上げれば、力強い羽音と共に、更に一匹の蟲人が飛翔してくる。二匹が止まった木の枝を揺らさんばかりの勢いで降り立ったのは、黒い鎧兜に身を固め、灰色の立派な口髭を生やした身体の大きな鍬形虫だった。
丁度その折、樹液の甘味に惹き付けられてきた若い小さな黄金虫と鉢合わせになると、鎧武者は太い眉を吊り上げて、低く空気を震わせるような声で一喝する。
「小童め、尽きて無くなる訳ではあるまいに、ここは年嵩の者へ先を譲らんか!」
驚き、竦み上がって物陰に隠れる黄金虫をいいことに、鍬形虫はのしのしと歩いて湧き出でる樹液の中に豪快に手を差し込むと、掌を器代わりにしてごくごくと呷り始めた。実に大胆なその様子に、鬱々としていたムラサキの目尻が自然と緩む。
「やあ、角斗殿もおいでなすったか。無事に冬を越せて、互いに何よりでした。」
「おう、ムラサキに、花嵐か。…馴染みの顔が揃いも揃っておるとはのう。貴殿らも厳しい冬を乗り越えてきた訳だな。まあ、生き延びたからには、この一夏を共に謳歌しようではないか…。」
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