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新たなる王.1
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朽木の洞の中に刻まれた階は、恐らく、蜜蜂の斥候達が使っていた、枯葉と樹皮で秘匿された出入り口に繋がっている。シノノメが寝入った後、毎日のように僅かな隙間から外の様子を確かめていたその出入口は、春という季節に突き動かされて階を登るムラサキを魅了して止まなかった。
隠し戸の隙間から感じる暖かさは、最早指先で確かめるまでもない。両腕で、入口を隠す緞帳の樹皮を押し開けると、眼を灼く程の強烈な眩しさに照らされ、焦茶の瞳を細めて顔を背ける。
何せ、長い冬の間、月光以上の明るさにはならない月詠茸の光以上に明るいものを見て過ごしてこなかったのだ。闇に慣れた瞳が視力を取り戻すまでには、暫く掛かった。
しかし、緩やかに瞬きをしながら恐る恐る顔を上げると、そこには、夢にまで見た新緑の光景が一面に広がっている。
「──あぁ…。」
歓喜のあまり溜息を零しながら、ムラサキは一歩、草履履きの足を前に踏み出した。
扉の先は、枯れた太い木の枝で、蜜蜂が十匹以上止まっていても揺るぎそうもない道となっている。物見台にも似た枝の上から見下ろす森の大地は、一面の緑に包まれ、小鳥が囀り、小川が流れ、全てを覆い尽くす残酷な灰色と白に覆われた冬の痕跡は跡形もない。枝の先まで歩くと、巨木の枝の間を抜けて射し込んでくる陽光が、越冬に成功した四十五令の胡蝶の全身を柔らかく包んだ。
淡く息を吐きながら、折り畳んでいた大きな二対四枚の翅を思う様に広げる。冬の間は宙を舞うこともなく、鈍っていた翅は、待ち望んでいた太陽の光を受け止めてふるりと大きく震えた。
陽射しの恵みを隅々まで行き渡らせるように、ゆっくりと開閉を繰り返した後、ムラサキは意を決して、目一杯に広げた翅で大きく空を切って羽ばたいた。決して後ろ髪を引かれない訳ではない、しかし、森に満ち溢れる春の陽気に包まれて、見えない無数の手に手招きをされているような心地になって、そうせずにはいられなかったのだ。
色褪せ、裾が破れていたとしても、この翅は未だ痩せた長身を空に舞い上げるだけの力を充分に持っている。それを確信して、力強い羽ばたきと共に佇んでいた木の枝を強く蹴った。顔に感じる春の風は何処までも柔らかく、雄々しい羽音と共に宙を滑るように飛翔する蝶の長い髪を絡めて撫でてくれた。空から見下ろす大地には泉が湧き、新たな生命が萌芽し、既に巣穴を這い出して、のんびりと陽を浴びながら地を歩く蟲人の姿もある。
この広い森の一角に何があるのか、他の蝶より幾分か長く生きているムラサキは、よく深く知り尽くしていた。
羽ばたきを繰り返しながら木々の間を縫って飛行し、毎年、密やかに白百合が咲く地にふわりと足を付ける。辺りに蜘蛛が隠れる場所はなく、存分に翅を振るえる広々とした場所で、力の強い大人の雄蝶に襲い掛かってくる無謀な蟲人はいない。
目立たないように咲いている、ムラサキの背丈より僅かに高い巨大な百合は、今朝がた開花したばかりであるようにまだ瑞々しかった。
軽く伸び上がって百合の花弁を手繰り寄せ、花の中に顔を突っ込むようにして、雌蕊がたっぷりと零す甘い蜜を心行くまで舐め取った。雄蕊が纏う黄色い花粉も、蜜と交じって口に入ると、甘く香ばしい。長い髪を花粉塗れにしながら幾つかの花蜜を味わうことで、百合は他の株から受粉し、種子を残すことが出来る。
蝶や、他の蟲人を引き寄せる甘い匂いの蜜を存分に味わって、ムラサキは年甲斐もなく声を立てて笑った。頭を振って花粉を振るい落としながら、この春にだけ味わうことのできる格別の甘味に酔い痴れる。
もし、越冬に成功していなかったら、この陶酔感にも似た春の味覚を口にすることも出来なかったに違いない。どんな運命の悪戯か、暗い塒の中で生き永らえたこの命を、図らずも救った存在がある。他の蟲人を狩る為にあるその蒼い瞳は、真昼の陽射しに弱く、月の光の下でしか生きられないという。対して、ムラサキは陽射しを浴びて身体を温め、昼に咲く花の蜜を食べて宙を舞いながら生きる。
あの長身の背に貼り付いた寂寞を思い出すと、穏やかな筈の心にはどうしても翳りが差し込んだ。冬を越した蜜蜂の宮殿の中からムラサキを解き放った毒蜘蛛の想いは、胡蝶には解らぬものだ。
そっと睫毛を伏せると、再び大きな翅を羽ばたかせ、中空に向けて飛び立った。
襤褸布のようになった翅では、昔ほど上手く舵を切って翔ぶことはできなかったが、それでもまだ、嘗ての蝶の王としての威厳を留めるほどには雄々しい翅音を立てて、痩せた長身を空へと舞い上げてくれた。
朽木の洞の中に刻まれた階は、恐らく、蜜蜂の斥候達が使っていた、枯葉と樹皮で秘匿された出入り口に繋がっている。シノノメが寝入った後、毎日のように僅かな隙間から外の様子を確かめていたその出入口は、春という季節に突き動かされて階を登るムラサキを魅了して止まなかった。
隠し戸の隙間から感じる暖かさは、最早指先で確かめるまでもない。両腕で、入口を隠す緞帳の樹皮を押し開けると、眼を灼く程の強烈な眩しさに照らされ、焦茶の瞳を細めて顔を背ける。
何せ、長い冬の間、月光以上の明るさにはならない月詠茸の光以上に明るいものを見て過ごしてこなかったのだ。闇に慣れた瞳が視力を取り戻すまでには、暫く掛かった。
しかし、緩やかに瞬きをしながら恐る恐る顔を上げると、そこには、夢にまで見た新緑の光景が一面に広がっている。
「──あぁ…。」
歓喜のあまり溜息を零しながら、ムラサキは一歩、草履履きの足を前に踏み出した。
扉の先は、枯れた太い木の枝で、蜜蜂が十匹以上止まっていても揺るぎそうもない道となっている。物見台にも似た枝の上から見下ろす森の大地は、一面の緑に包まれ、小鳥が囀り、小川が流れ、全てを覆い尽くす残酷な灰色と白に覆われた冬の痕跡は跡形もない。枝の先まで歩くと、巨木の枝の間を抜けて射し込んでくる陽光が、越冬に成功した四十五令の胡蝶の全身を柔らかく包んだ。
淡く息を吐きながら、折り畳んでいた大きな二対四枚の翅を思う様に広げる。冬の間は宙を舞うこともなく、鈍っていた翅は、待ち望んでいた太陽の光を受け止めてふるりと大きく震えた。
陽射しの恵みを隅々まで行き渡らせるように、ゆっくりと開閉を繰り返した後、ムラサキは意を決して、目一杯に広げた翅で大きく空を切って羽ばたいた。決して後ろ髪を引かれない訳ではない、しかし、森に満ち溢れる春の陽気に包まれて、見えない無数の手に手招きをされているような心地になって、そうせずにはいられなかったのだ。
色褪せ、裾が破れていたとしても、この翅は未だ痩せた長身を空に舞い上げるだけの力を充分に持っている。それを確信して、力強い羽ばたきと共に佇んでいた木の枝を強く蹴った。顔に感じる春の風は何処までも柔らかく、雄々しい羽音と共に宙を滑るように飛翔する蝶の長い髪を絡めて撫でてくれた。空から見下ろす大地には泉が湧き、新たな生命が萌芽し、既に巣穴を這い出して、のんびりと陽を浴びながら地を歩く蟲人の姿もある。
この広い森の一角に何があるのか、他の蝶より幾分か長く生きているムラサキは、よく深く知り尽くしていた。
羽ばたきを繰り返しながら木々の間を縫って飛行し、毎年、密やかに白百合が咲く地にふわりと足を付ける。辺りに蜘蛛が隠れる場所はなく、存分に翅を振るえる広々とした場所で、力の強い大人の雄蝶に襲い掛かってくる無謀な蟲人はいない。
目立たないように咲いている、ムラサキの背丈より僅かに高い巨大な百合は、今朝がた開花したばかりであるようにまだ瑞々しかった。
軽く伸び上がって百合の花弁を手繰り寄せ、花の中に顔を突っ込むようにして、雌蕊がたっぷりと零す甘い蜜を心行くまで舐め取った。雄蕊が纏う黄色い花粉も、蜜と交じって口に入ると、甘く香ばしい。長い髪を花粉塗れにしながら幾つかの花蜜を味わうことで、百合は他の株から受粉し、種子を残すことが出来る。
蝶や、他の蟲人を引き寄せる甘い匂いの蜜を存分に味わって、ムラサキは年甲斐もなく声を立てて笑った。頭を振って花粉を振るい落としながら、この春にだけ味わうことのできる格別の甘味に酔い痴れる。
もし、越冬に成功していなかったら、この陶酔感にも似た春の味覚を口にすることも出来なかったに違いない。どんな運命の悪戯か、暗い塒の中で生き永らえたこの命を、図らずも救った存在がある。他の蟲人を狩る為にあるその蒼い瞳は、真昼の陽射しに弱く、月の光の下でしか生きられないという。対して、ムラサキは陽射しを浴びて身体を温め、昼に咲く花の蜜を食べて宙を舞いながら生きる。
あの長身の背に貼り付いた寂寞を思い出すと、穏やかな筈の心にはどうしても翳りが差し込んだ。冬を越した蜜蜂の宮殿の中からムラサキを解き放った毒蜘蛛の想いは、胡蝶には解らぬものだ。
そっと睫毛を伏せると、再び大きな翅を羽ばたかせ、中空に向けて飛び立った。
襤褸布のようになった翅では、昔ほど上手く舵を切って翔ぶことはできなかったが、それでもまだ、嘗ての蝶の王としての威厳を留めるほどには雄々しい翅音を立てて、痩せた長身を空へと舞い上げてくれた。
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