蟲人の森 -蝶の王-

槇木 五泉(Maki Izumi)

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春待つ者.5

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 狩りに出ていったシノノメが戻って来るまで、ムラサキは一睡も出来ずに寝床の中で待ち続けていた。しかして、彼が戻ってきても掛ける言葉は見当たらず、そのまま眠ったふりをして、彼の温かな身体にいつものようにぴたりと寄り添う。

 己は蝶で、彼は毒蜘蛛だ。蝶は冬には眠り、春に目覚め、日差しの中を翔ぶ生き物。
 対して、この森に棲んでいるはずのない鮮やかな色彩の蜘蛛は、冬も眠らず、その青い瞳は明るい光に弱く、夜の暗闇の中で獲物を捕らえることで生きながらえる。
 それは変えようのない事実であり、どちらも生まれ持った本能には抗えない。故に、ムラサキは思い惑い、葛藤した。この身は蜘蛛にはなれず、蜘蛛は蝶のように生きることは出来ない。どうあっても、春という季節は蝶の心と身体の芯を見えない手で掴み、揺さぶりを掛けてくる。


 目覚めても、シノノメは変わらずにムラサキの傍にいた。だが、平静を装う彼は明らかに口数が少なく、かといって不機嫌を露わにしているということもない。湖底で眠る石さながらに、淡々と思考の深みに沈み込んで過ごしているかのようだった。
 そしていつものように気紛れにムラサキを抱き、ムラサキはそれに応えて身を震わせながら、与えられる快楽を受け止めて熱い喘ぎ声を零す。二本の腕でシノノメの背を抱き、慈しむように唇を重ねる。彼の手で一匹の雌も同然に造り替えられた身体は、深みに熱い杭を穿たれるだけで狂おしい程に感じた。



 幾つもの昼夜が繰り返されるうちに、朽木の宮殿の外を彩る春の気配はいよいよ濃くなってきた。厚く張った氷は溶け、冬の名残の雪は消え去り、暖かな陽気に包まれて梢の小鳥が歌う素晴らしい春が、もう足元まで来ている。
 春という季節は、四十令をとうに過ぎた胡蝶の身にも、抗い難い高揚感をもたらすものだ。何せ、数奇な一冬を過ごした蜜蜂の宮殿は、凍える吹雪の寒さを寄せ付けない程に壁が分厚く、暗く、永劫の夜を思わせる深閑とした場所だ。食の細い一匹の雄蝶が食らい、蜘蛛が羽虫をおびき寄せる餌に使ったところでまだ余りある花の蜜が蓄えられていたとしても、それは、木の枝の間から射し込む陽だまりの中で、咲いたばかりの瑞々しい白詰草の花から味わう蜜の味には到底及ばない。

 この背に、色褪せた二対四枚の翅に、待ち兼ねていた春の暖かな木漏れ日を受けて飛ぶことができたなら、それはどんなに心地の良いことか。

 本能に基づく抗えない想いは、何時しかムラサキを酷く駆り立てた。夜行性の毒蜘蛛がすっかり眠りに落ちる朝、いつものようにそっと枯葉の寝床を立ち上がって、シノノメの、まだ僅かにあどけなさの名残ある整った寝顔を、闇に弱い焦茶の瞳でじっと見詰める。

 意を決し、そっと立ち上がって、自らの翅の裾をそろりと指で辿る。結いつけられている筈の目に見えないほど細い蜘蛛の糸は、幾度探っても指先に当たらなかった。
 は、と軽く息を呑んでシノノメの小指の周りを探っても、ムラサキの行動を探るための糸は見当たらない。この広い宮殿の隅々までは眼が行き届かない、迷い込んでくる不届き物がいないとも限らない。だから、日の高いうちは寝床に居ないムラサキの身に何かが起きればすぐに解るようにと知らぬ間に結びつけられていた糸は、いつの間にか忽然と無くなっていたのだ。

『好きにしろ。』

 あの日耳にした毒蜘蛛のぶっきらぼうな言葉が、胡蝶の胸を撃つ。
 それでは本当に、シノノメはムラサキに正真正銘の自由を与えたということなのだろうか。

 深い眠りの中にいる若い雄蜘蛛を無理矢理に起こしてまで、真意を聞き出す勇気はなかった。第一、指先から紡き出す蜘蛛糸を、翅の隅に結び付けるのをたまたま忘れているだけだという可能性も否めない。

 一歩を踏み出すつま先が、氷の刃を踏み締めているかのように鋭く痛む心地がした。いつものように貯水池で身形を整え、腰の丈まで伸びた葡萄茶色の髪に櫛を入れるために。そして、日課のように登っては外の様子を確かめていた、あのきざはしを登るために。

 所々色褪せた、大きな斑模様の翅を引き摺るように、ムラサキは歩き始める。堅牢な木の洞の中にも、春の暖かな陽気が朝靄あさもやのように染み込んできているのが解った。
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