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春待つ者.4
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蝶とは、冬になれば木の洞で眠る生き物。その眠りは春の訪れを察することで陽射しに照らされた氷のように融け落ちて、長い夢の底から意識を呼び覚ます。誰に教えられたものでもなく、身に染み付いた本能というものだ。
冬の間中、ふんだんな食糧と水、そして雄蜘蛛に雌として扱われ続けることで生じた、不自然に身体を昂らせる発情によって眠ることを許されず、目を覚まし続けていたムラサキにも、近付いて来る春の足音というものは確かに聞こえるものだ。
シノノメが眠っている昼の間、ムラサキは毎日のように斥候蜂が使っていたあの階を登り、入口を擬態する樹皮を掻き分けて外の様子を確かめた。灰色だった日照は山吹色を帯び、吹雪を交えて身を刺すようだった北風は徐々に鳴りを潜め、柔らかな春風に変わろうとしている。
今年は格別に長く感じられた冬の終わりと、新たなる再生の春が間もなく訪れようとしていた。その気配は蝶であるムラサキの気も漫ろに浮つかせ、意識していなければ、心がふわふわと浮かぶ雲のように流れていきそうだった。そしてそんなムラサキの変化を具に見詰めている、下瞼の翳る青い瞳がある。
彼は、着流しに羽織を纏ったムラサキの痩せた長身を腕の中に引き寄せ、鼻の頭に皺を寄せて、不機嫌そうに顔を覗き込んできた。
「ムラサキ。お前、どこを視てやがる。」
「──え…?」
はっと我に返り、瞬きを繰り返す焦茶の眸を見遣りながら、シノノメはうんざりと溜息を吐く。
「妙にぼんやりして、話し掛けても上の空だ。何考えてる。幾ら年増だからって、まだ耄碌する歳でもねえだろうが。」
「…あぁ、すまない。」
故意にではなくとも、うっかり機嫌を損ねてしまった若い雄蜘蛛の頬を取り繕うように掌に包んで撫でてやりながら、ムラサキは薄い皺のある眦を細めて困ったように微笑した。
「春の気配が近付いているんだ、きっと。冬の長い眠りから目覚める時は、いつも頭の奥から呼び声が聞こえるような気がする。…それに似た感覚かな。──君を無視しようと思った訳じゃないんだ。」
「それは、蝶の習性か。…お前にその気があってもなくても、お前がここじゃねえところを視てるのに変わりはねえだろ。」
ムラサキの背に回していた腕をするりと解き、シノノメはさも面白くなさそうに鼻を鳴らした。数歩、高らかな靴音を鳴らして、大広間の方に歩いていく。
あ、と声を上げて伸ばしかけた腕を、しかしムラサキは浅く俯いて睫毛を伏せ、指先を力なく握り締めながら静かに下ろした。
不意に、背を向けたままのシノノメが乾いた声で呟く。
「…春が来たら、お前はどうするんだ。」
「何を言うんだ──?」
相変わらず、シノノメは振り向きもしない。困惑と共に問い掛けるムラサキには表情さえ見せず、彼は淡々と続ける。
「俺はお前を、冬の間の暇潰しで交尾の真似事の相手にすると言った。お前は、餌と居場所が必要だった。…春が来たら、お前はここを出て、似合いの雌を探しに行くんだろ?それが蝶の雄の習性ってやつなんだろう。」
「シノノメ…。」
顔を曇らせ、ゆっくりと首を横に揺らしても、背を向けた若者には伝わらない。
初めて、この毳々しい桃色の警戒色を持つ力強い毒蜘蛛の背中に、どうしようもない寂寞が重く貼りついていることに気が付いた。
毒も力も、この森には彼に適う蟲人はいない。それだけの強さを持ちながら、たった一匹で異郷の地に放り出されたシノノメは、番いの相手を得られずに、ここで暮らし続けるしか手立てがないのだ。
ムラサキとは一切目を合わせずに、シノノメはぽつりと呟いた。
「──違う、とは言わねえんだな。」
「それは…!」
「勝手にしろよ。好きにしろ。…俺は、罠に掛かった獲物の様子を見てくる。」
「シノノメ…!」
背後から、半ば叫ぶように呼び止めようとする声には構うこともなく、シノノメは足音も高く広間に向けて歩き去っていった。月光のように暗がりを照らす茸の灯りの中、その黒い衣服と桃色の髪は、暗がりに紛れてじきに見えなくなった。
蝶とは、冬になれば木の洞で眠る生き物。その眠りは春の訪れを察することで陽射しに照らされた氷のように融け落ちて、長い夢の底から意識を呼び覚ます。誰に教えられたものでもなく、身に染み付いた本能というものだ。
冬の間中、ふんだんな食糧と水、そして雄蜘蛛に雌として扱われ続けることで生じた、不自然に身体を昂らせる発情によって眠ることを許されず、目を覚まし続けていたムラサキにも、近付いて来る春の足音というものは確かに聞こえるものだ。
シノノメが眠っている昼の間、ムラサキは毎日のように斥候蜂が使っていたあの階を登り、入口を擬態する樹皮を掻き分けて外の様子を確かめた。灰色だった日照は山吹色を帯び、吹雪を交えて身を刺すようだった北風は徐々に鳴りを潜め、柔らかな春風に変わろうとしている。
今年は格別に長く感じられた冬の終わりと、新たなる再生の春が間もなく訪れようとしていた。その気配は蝶であるムラサキの気も漫ろに浮つかせ、意識していなければ、心がふわふわと浮かぶ雲のように流れていきそうだった。そしてそんなムラサキの変化を具に見詰めている、下瞼の翳る青い瞳がある。
彼は、着流しに羽織を纏ったムラサキの痩せた長身を腕の中に引き寄せ、鼻の頭に皺を寄せて、不機嫌そうに顔を覗き込んできた。
「ムラサキ。お前、どこを視てやがる。」
「──え…?」
はっと我に返り、瞬きを繰り返す焦茶の眸を見遣りながら、シノノメはうんざりと溜息を吐く。
「妙にぼんやりして、話し掛けても上の空だ。何考えてる。幾ら年増だからって、まだ耄碌する歳でもねえだろうが。」
「…あぁ、すまない。」
故意にではなくとも、うっかり機嫌を損ねてしまった若い雄蜘蛛の頬を取り繕うように掌に包んで撫でてやりながら、ムラサキは薄い皺のある眦を細めて困ったように微笑した。
「春の気配が近付いているんだ、きっと。冬の長い眠りから目覚める時は、いつも頭の奥から呼び声が聞こえるような気がする。…それに似た感覚かな。──君を無視しようと思った訳じゃないんだ。」
「それは、蝶の習性か。…お前にその気があってもなくても、お前がここじゃねえところを視てるのに変わりはねえだろ。」
ムラサキの背に回していた腕をするりと解き、シノノメはさも面白くなさそうに鼻を鳴らした。数歩、高らかな靴音を鳴らして、大広間の方に歩いていく。
あ、と声を上げて伸ばしかけた腕を、しかしムラサキは浅く俯いて睫毛を伏せ、指先を力なく握り締めながら静かに下ろした。
不意に、背を向けたままのシノノメが乾いた声で呟く。
「…春が来たら、お前はどうするんだ。」
「何を言うんだ──?」
相変わらず、シノノメは振り向きもしない。困惑と共に問い掛けるムラサキには表情さえ見せず、彼は淡々と続ける。
「俺はお前を、冬の間の暇潰しで交尾の真似事の相手にすると言った。お前は、餌と居場所が必要だった。…春が来たら、お前はここを出て、似合いの雌を探しに行くんだろ?それが蝶の雄の習性ってやつなんだろう。」
「シノノメ…。」
顔を曇らせ、ゆっくりと首を横に揺らしても、背を向けた若者には伝わらない。
初めて、この毳々しい桃色の警戒色を持つ力強い毒蜘蛛の背中に、どうしようもない寂寞が重く貼りついていることに気が付いた。
毒も力も、この森には彼に適う蟲人はいない。それだけの強さを持ちながら、たった一匹で異郷の地に放り出されたシノノメは、番いの相手を得られずに、ここで暮らし続けるしか手立てがないのだ。
ムラサキとは一切目を合わせずに、シノノメはぽつりと呟いた。
「──違う、とは言わねえんだな。」
「それは…!」
「勝手にしろよ。好きにしろ。…俺は、罠に掛かった獲物の様子を見てくる。」
「シノノメ…!」
背後から、半ば叫ぶように呼び止めようとする声には構うこともなく、シノノメは足音も高く広間に向けて歩き去っていった。月光のように暗がりを照らす茸の灯りの中、その黒い衣服と桃色の髪は、暗がりに紛れてじきに見えなくなった。
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