蟲人の森 -蝶の王-

槇木 五泉(Maki Izumi)

文字の大きさ
上 下
49 / 61

春待つ者.4

しおりを挟む
***

 蝶とは、冬になれば木のうろで眠る生き物。その眠りは春の訪れを察することで陽射しに照らされた氷のように融け落ちて、長い夢の底から意識を呼び覚ます。誰に教えられたものでもなく、身に染み付いた本能というものだ。

 冬の間中、ふんだんな食糧と水、そして雄蜘蛛に雌として扱われ続けることで生じた、不自然に身体を昂らせる発情によって眠ることを許されず、目を覚まし続けていたムラサキにも、近付いて来る春の足音というものは確かに聞こえるものだ。

 シノノメが眠っている昼の間、ムラサキは毎日のように斥候蜂が使っていたあのきざはしを登り、入口を擬態する樹皮を掻き分けて外の様子を確かめた。灰色だった日照は山吹色を帯び、吹雪を交えて身を刺すようだった北風は徐々に鳴りを潜め、柔らかな春風に変わろうとしている。

 今年は格別に長く感じられた冬の終わりと、新たなる再生の春が間もなく訪れようとしていた。その気配は蝶であるムラサキの気も漫ろに浮つかせ、意識していなければ、心がふわふわと浮かぶ雲のように流れていきそうだった。そしてそんなムラサキの変化をつぶさに見詰めている、下瞼の翳る青い瞳がある。
 彼は、着流しに羽織を纏ったムラサキの痩せた長身を腕の中に引き寄せ、鼻の頭に皺を寄せて、不機嫌そうに顔を覗き込んできた。

「ムラサキ。お前、どこを視てやがる。」
「──え…?」

 はっと我に返り、瞬きを繰り返す焦茶の眸を見遣りながら、シノノメはうんざりと溜息を吐く。

「妙にぼんやりして、話し掛けても上の空だ。何考えてる。幾ら年増だからって、まだ耄碌もうろくする歳でもねえだろうが。」
「…あぁ、すまない。」

 故意にではなくとも、うっかり機嫌を損ねてしまった若い雄蜘蛛の頬を取り繕うように掌に包んで撫でてやりながら、ムラサキは薄い皺のある眦を細めて困ったように微笑した。

「春の気配が近付いているんだ、きっと。冬の長い眠りから目覚める時は、いつも頭の奥から呼び声が聞こえるような気がする。…それに似た感覚かな。──君を無視しようと思った訳じゃないんだ。」
「それは、蝶の習性か。…お前にその気があってもなくても、お前がここじゃねえところをてるのに変わりはねえだろ。」
 
 ムラサキの背に回していた腕をするりと解き、シノノメはさも面白くなさそうに鼻を鳴らした。数歩、高らかな靴音を鳴らして、大広間の方に歩いていく。
 あ、と声を上げて伸ばしかけた腕を、しかしムラサキは浅く俯いて睫毛を伏せ、指先を力なく握り締めながら静かに下ろした。


 不意に、背を向けたままのシノノメが乾いた声で呟く。

「…春が来たら、お前はどうするんだ。」
「何を言うんだ──?」

 相変わらず、シノノメは振り向きもしない。困惑と共に問い掛けるムラサキには表情さえ見せず、彼は淡々と続ける。

「俺はお前を、冬の間の暇潰しで交尾の真似事の相手にすると言った。お前は、餌と居場所が必要だった。…春が来たら、お前はここを出て、似合いの雌を探しに行くんだろ?それが蝶の雄の習性ってやつなんだろう。」
「シノノメ…。」

 顔を曇らせ、ゆっくりと首を横に揺らしても、背を向けた若者には伝わらない。
 初めて、この毳々けばけばしい桃色の警戒色を持つ力強い毒蜘蛛の背中に、どうしようもない寂寞が重く貼りついていることに気が付いた。
 毒も力も、この森には彼に適う蟲人はいない。それだけの強さを持ちながら、たった一匹で異郷の地に放り出されたシノノメは、番いの相手を得られずに、ここで暮らし続けるしか手立てがないのだ。

 ムラサキとは一切目を合わせずに、シノノメはぽつりと呟いた。

「──違う、とは言わねえんだな。」
「それは…!」
「勝手にしろよ。好きにしろ。…俺は、罠に掛かった獲物の様子を見てくる。」
「シノノメ…!」

 背後から、半ば叫ぶように呼び止めようとする声には構うこともなく、シノノメは足音も高く広間に向けて歩き去っていった。月光のように暗がりを照らす茸の灯りの中、その黒い衣服と桃色の髪は、暗がりに紛れてじきに見えなくなった。
しおりを挟む
感想 1

あなたにおすすめの小説

【連載再開】絶対支配×快楽耐性ゼロすぎる受けの短編集

あかさたな!
BL
※全話おとな向けな内容です。 こちらの短編集は 絶対支配な攻めが、 快楽耐性ゼロな受けと楽しい一晩を過ごす 1話完結のハッピーエンドなお話の詰め合わせです。 不定期更新ですが、 1話ごと読切なので、サクッと楽しめるように作っていくつもりです。 ーーーーーーーーーーーーーーーーーー 書きかけの長編が止まってますが、 短編集から久々に、肩慣らししていく予定です。 よろしくお願いします!

サンタクロースが寝ている間にやってくる、本当の理由

フルーツパフェ
大衆娯楽
 クリスマスイブの聖夜、子供達が寝静まった頃。  トナカイに牽かせたそりと共に、サンタクロースは町中の子供達の家を訪れる。  いかなる家庭の子供も平等に、そしてプレゼントを無償で渡すこの老人はしかしなぜ、子供達が寝静まった頃に現れるのだろうか。  考えてみれば、サンタクロースが何者かを説明できる大人はどれだけいるだろう。  赤い服に白髭、トナカイのそり――知っていることと言えば、せいぜいその程度の外見的特徴だろう。  言い換えればそれに当てはまる存在は全て、サンタクロースということになる。  たとえ、その心の奥底に邪心を孕んでいたとしても。

極悪家庭教師の溺愛レッスン~悪魔な彼はお隣さん~

恵喜 どうこ
恋愛
「高校合格のお礼をくれない?」 そう言っておねだりしてきたのはお隣の家庭教師のお兄ちゃん。 私よりも10歳上のお兄ちゃんはずっと憧れの人だったんだけど、好きだという告白もないままに男女の関係に発展してしまった私は苦しくて、どうしようもなくて、彼の一挙手一投足にただ振り回されてしまっていた。 葵は私のことを本当はどう思ってるの? 私は葵のことをどう思ってるの? 意地悪なカテキョに翻弄されっぱなし。 こうなったら確かめなくちゃ! 葵の気持ちも、自分の気持ちも! だけど甘い誘惑が多すぎて―― ちょっぴりスパイスをきかせた大人の男と女子高生のラブストーリーです。

仕事ができる子は騎乗位も上手い

冲令子
BL
うっかりマッチングしてしまった会社の先輩後輩が、付き合うまでの話です。 後輩×先輩。

美しき父親の誘惑に、今宵も息子は抗えない

すいかちゃん
BL
大学生の数馬には、人には言えない秘密があった。それは、実の父親から身体の関係を強いられている事だ。次第に心まで父親に取り込まれそうになった数馬は、彼女を作り父親との関係にピリオドを打とうとする。だが、父の誘惑は止まる事はなかった。 実の親子による禁断の関係です。

BL団地妻-恥じらい新妻、絶頂淫具の罠-

おととななな
BL
タイトル通りです。 楽しんでいただけたら幸いです。

ウブな政略妻は、ケダモノ御曹司の執愛に堕とされる

Adria
恋愛
旧題:紳士だと思っていた初恋の人は私への恋心を拗らせた執着系ドSなケダモノでした ある日、父から持ちかけられた政略結婚の相手は、学生時代からずっと好きだった初恋の人だった。 でも彼は来る縁談の全てを断っている。初恋を実らせたい私は副社長である彼の秘書として働くことを決めた。けれど、何の進展もない日々が過ぎていく。だが、ある日会社に忘れ物をして、それを取りに会社に戻ったことから私たちの関係は急速に変わっていった。 彼を知れば知るほどに、彼が私への恋心を拗らせていることを知って戸惑う反面嬉しさもあり、私への執着を隠さない彼のペースに翻弄されていく……。

敗戦国の姫は、敵国将軍に掠奪される

clayclay
恋愛
架空の国アルバ国は、ブリタニア国に侵略され、国は壊滅状態となる。 状況を打破するため、アルバ国王は娘のソフィアに、ブリタニア国使者への「接待」を命じたが……。

処理中です...