蟲人の森 -蝶の王-

槇木 五泉(Maki Izumi)

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春待つ者.2

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「そうなのかい。は、色が擦れ落ちても、痛みをほとんど感じないのでね──。」
「お前の翅ならお前以上によく見てるんだよ、俺は。」

 破れ蝶の翅を静かに撫でながら、ぶっきらぼうに言い放って口を噤むシノノメは、この鱗粉が発する発情をそそる馨りをことほかに好んでいた。
 どうあっても愉快そうには見えない若者の額にこつりと己の額を触れ合わせて、聞き分けのない幼い仔に言い含めるように口を開く。

「どんな花でも、いずれは枯れて朽ちるものだ。種子たねを残せば、その役目は終わる。──もう二十年…いや、十五年も若ければ、私の翅はもっと綺麗だったよ。髪にも白いものはなかったし、今よりもっとずっと…美しかった筈だ。なのに今は、こんな姿しか見せることができない。」
「──関係ねぇよ。」

 不機嫌そうに鼻を鳴らして、シノノメは軽くそっぽを向いた。はなの盛りを過ぎたムラサキの上翅をゆっくりと撫でながら、彼は徐に口を開く。

「お前が俺と同じくらいの歳の雄だったとしたら?──お前は、今ここにこうして居ねぇだろうが。違うか?」
「──あぁ。」

 シノノメの淡々とした言葉に、はっと我に返される。
 もし、ムラサキが若く、力強く、血気盛んで輝きに満ち溢れた蝶の王だとしたら、はなから冬の森で路頭に迷うこともなかったに違いない。よしんば蜘蛛の手に落ちたとしても、ただ花の種を継がせる為に、何としてでも不毛な穴倉から飛び立つことを選ぶであろうし、或いは一か八かに掛けて、この森に棲まう蝶の中でも最も力強い翅を叩き付け、並の蟲人を打ちのめす強烈な一撃を浴びせていたかもしれない。何れにせよ、互いに相容れなかったことだけは確かだろうと思えた。

 ムラサキが、若さの盛りを過ぎて最早冬を越す力を持たなくなった色褪せた雄の蝶であったからこそ、諦観と共に己を捕らえた蜘蛛に身体を許すことで苦痛を逃れ、無銘の蜘蛛に名を与えて共に過ごす道を選ぶことができた。
 未だ若い雄であるシノノメは、ムラサキがもう忘れ掛けていた青い若さを持ち合わせているが故に、随分と大人びて聡かった。

 やがて彼は、翅を撫でていた手をムラサキの背に回し、血の通った翅ごと緩やかに抱き締める。

「…言ったろ、あっちの具合がいい年増は嫌いじゃねえんだ。器量が良けりゃ、尚更。だが、この翅には──もう傷を付けるなよ。を引き千切られたら、蝶って奴は死んじまうんだろ?」
「──…。」

 温かく力強い若い腕の中で、ムラサキは物も言わずに薄く眼を伏せた。この寒い冬の中でムラサキを生かし、後を追い、命を奪われる瀬戸際で激しく怒った孤独な毒蜘蛛が何を欲していたのかを、明瞭と悟ったのだ。

 今となっては、仔を残すことも、身籠った雌や仔を護ることも出来なくなった一匹の蝶に過ぎないこの身を、それでも欲する者がある。雄が我が血を継ぐための本能的な衝動に駆られ、異種の雄を手籠てごめにしようと思い立った異郷の毒蜘蛛は、果たして初めからこうなることを想い描いていたのだろうか。
 その頭の中まで見通すことは叶わなかったし、聞き出そうとしてみたところで、素っ気ない物言いで本心を隠すシノノメが正直に答えるとはとても思えなかった。

 蝶の雄とは、我が仔の蛹の殻が破れ、翅が乾いて生え揃い、乳離れする頃には母親である雌と仔を残して去るのがならい。そして成長した雄の仔は、父親である雄と、雌や越冬場所を巡って争う対等な立場になる。故にムラサキは、蝶として当然の如く、手を離れた我が仔というものを意識したことがない。
 初仔ほどの若さの雄蜘蛛は、己の命運を悟って聡くも見えたし、その抱えた欲求はまだ幼く、青く、愛らしくも思えるものだ。

 親の庇護など必要としない、強大な力を持つ桃色の毒蜘蛛は、ムラサキにまもられたいとは露ほども思ってもいないだろう。逆に、毒牙を持たない年嵩のムラサキの方が彼に護られる立場にある。
 それでも、己なりの方法で彼を護りたいと願うのは、雄の蟲人の本能の成せることなのかもしれない。蝶の王として、何匹もの番いや仔を護り抜き、闘いを勝ち抜いて襤褸のように色褪せた羽根を伏せ、下敷きにしたシノノメの身体をそっと押し包む。

「…抱いて、シノノメ。」

 身体を摺り寄せながら、銀の輪が無数に嵌まった彼の耳許に囁き掛けた。こうすることで、その身を苛む途方もない淋しさを慰め、想いを伝えることが出来るなら。ひとときの快楽を共にすることが出来るのなら。蝶に備わった本能ではないにしろ、それは間違いなくムラサキの本望だ。

「君と、身体を重ねたい。何も纏わないで──その温かさを知りたいんだ。私の、この全身で。」

 きっと彼は、否とは言わないだろう。口許に柔らかな笑みを浮かべながら、答えを待たず、若者の唇にそっとくちづけを重ねていった。
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