蟲人の森 -蝶の王-

槇木 五泉(Maki Izumi)

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埋葬蟲.9

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 どのくらいの時が過ぎ去ったのか、定かではない。この巨大な蜜蜂の宮殿には太陽の光が差し込まず、その傾きで時間の経過を推し測ることができなかったからだ。枯葉と乾いた苔が厚く敷き詰められた寝床の隅に腰を降ろし、ムラサキは、茫漠と俯きながら無為な時を過ごしていた。

 何せ、他の蟲人むしびとの手に掛かってあと少しで命を落とすところだったのだ。思い起こせば、心臓が不穏に波打つのを感じる。
 昼間は寝入っている筈のシノノメが、何故寝床から最も遠い場所で起こった出来事を察知できたのかは解らない。が、如何にムラサキを殺めようとした卑劣な蟲人とて、目の前でゆっくりと息絶えていく様子を見せられては、内心穏やかではなかった。
 そして今、毒蜘蛛は正に、荒ぶる激情に任せて哀れな甲虫の骨肉を食い荒らしているのだろう。その様子をムラサキに見せるまいとしたシノノメの意図は、彼なりの精一杯の心遣いなのだろうか。
 そも、あの日シノノメが気紛れを起こさなければ、ムラサキの末路とて埋葬蟲しでむしに近しいものであったに違いない。幾度か、貯水池の冷たい雨水で手や首筋を洗ってはみたものの、腐肉と弔いの草の香を混ぜたような甘く饐えた匂いが幻のように纏わり付き、鼻について仕方がないように思える。


 どれ程、鬱々とした気持ちで待ち続けたことだろうか。大広間の方から、高らかな足音が聞こえる。シノノメが履いている頑丈な革の長い靴が床を刻む音。
 近付く音と共に暗がりに浮かび上がる派手な桃色の警戒色を見上げ、酷く気が立っていた彼が随分と落ち着いていることを悟って、ムラサキは、不安とも安堵ともつかない複雑な溜息を小さく吐き出した。


「──埋葬蟲って奴は駄目だな、不味くて喰えたもんじゃねえ。血も肉も、骨の髄まで腐った匂いが染み付いてやがる。余程腹が減っていなけりゃ、あんなもんは御免だ。手っ取り早く止めを刺して、食べ残しを捨てる穴に投げ落としてやった。」

 よく見れば、シノノメの手も、口の周りも、びっしょりと水に濡れている。ここに来るまでに、彼もまた貯水池の冷たい水で口や体に染み付いた腐肉の匂いを丹念に洗い流したに違いない。
 彼の言葉を聞けば、あの黒い甲虫が、せめてさほど苦しまずに生涯を終えたのであろうということだけは解った。恐らく、蜘蛛の食い残した残骸が堆積した穴の匂いに釣られて毒蜘蛛の縄張りに迷い込んだのであろう埋葬蟲の肉体は、この森の習わしに従って、また他のしかばねらいの腹を満たすために使われるのだろう。

 毒蜘蛛は、不快げに顔をしかめて上着と靴を脱ぎ捨て、かつては働き蜂が身を寄せ合って眠っていたのだろう広い寝床に、ごろりと横たわる。ムラサキは少し迷った末、草履を脱ぎ捨てて、さっさと眠りに就こうとしているシノノメの傍に膝でにじり寄っていった。

「…ねえ、シノノメ。…君はどうして、私があそこに居ることが解ったんだい──?」
「あぁ、そんなことか。」

 眼下に黒い隈のある目を閉ざしていたシノノメは、片目だけを開けて、左手の小指を立てて見せる。そこに何があるのか解らずに眉根を寄せて首を傾げるムラサキを眺め、青い両眼が笑みを浮かべて薄く眇められた。

「触ってみろよ。」
「──うん。……あぁ、これは。」

 シノノメの、ムラサキの指より一回りは大きな小指に恐る恐る触れてみると、そこには、蝶の眼には見えないごく細い糸が巻き付いている。指先と腰にある出糸管から紡がれるという細く強靭な糸は、触れてみれば粘りがあって、何処まで細く伸ばしても切れることがない。それでは、その反対側が何処に繋がっているのか。それを確かめる前に、シノノメがクックッとさも可笑しげに咽喉を鳴らして笑う。

「寝る前に、お前の破れた翅の裾に結わえるんだ…。何処へ行こうが、お前が翅を使って派手に藻掻けば、俺には解るようにしてある。」
「──参ったな、ちっとも気が付かなかった…。まあ、そのお陰で、君にはまた命を救われたのだがね…。」

 驚いて翅を開いてみれば、確かに、解れて穴の開いた下翅の裾に糸の手応えがある。
 それでは、シノノメが眠っている間はこの身を自由に出歩かせていたのは、その手を逃れんとして羽ばたいたとしても、彼に解るようにしていたからだということか。
 ムラサキは再び溜息を吐くと、寝そべるシノノメの脚を跨いで身体を重ねた。彼を相手にここまで大胆なことが出来た理由は、ムラサキにも解らない。顔を寄せ、軽く驚愕に見開かれる青い眼を近くで見据え、片手で上体を支えながら、もう片手で慈しむようにその頬をそっと包み込む。

「こんなことをしなくても、私は何処へも行かないというのに。──君は、もう解っていると思っていたよ。」
「…だが、現にお前、殺されかけただろ。──ここはただっ広いからな、さっきの奴みたいな間抜けが一匹二匹と紛れ込んだとしても、俺はすぐに気付けないかもしれない。…この縄張りで俺のものに手を出す奴は、どんな理由であれ絶対に許さねえ。何処の雄が、つがいの雌に手を出されて正気でいられる?…そういうことだ。」
「シノノメ…。」

 ムラサキには、シノノメの青い眸に一瞬浮かび上がった怒気の炎の所以ゆえんが理解できる。何故ならば、雄の蝶とは、つがいの雌と翅が生え揃わぬ我が子の為ならば、己の命を賭けて侵入者と戦う生き物だからだ。

 だからこそ、ムラサキには解せなかった。シノノメの、まだ若々しく張りのある頬をゆっくりと撫でながら、眉尻を下げて低く穏やかな声で問い掛ける。それは、初めて彼に肉の隘路あいろを穿たれ、雌としての快楽を知らしめられた日から延々と心の隅にあり、しかし聞き出す機会も勇気もなかった疑問である。
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