蟲人の森 -蝶の王-

槇木 五泉(Maki Izumi)

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埋葬蟲.8

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 気配を殺し、物陰から忍び寄ることに長けた肉食の狩人であるシノノメが、首に思い切り白い牙を食い込ませていたのは、ほんの一瞬のこと。それだけで、せせら笑いを口許に留めたまま驚愕に凍り付いた雄蟲は、雷に撃たれた細い枯れ木のようにその場にどうと倒れ込む。
 ただの一咬みで、この森の誰もが持ち得ない強力な麻痺毒が、決して小さくはない雄の甲虫の全身を巡り、瞬きする間に獲物は最早、指先を動かすことさえ出来なくなっていた。


「──クソが。薄汚い手でそいつに触るんじゃねえ…!それにテメェ、誰に断って俺の巣に入り込んだ…?あぁ…?」

 黒装束の蟲人が藻掻くこともできずにただ壮絶に苦しむのを見下ろし、凍ったまま燃える青い炎のような双眸が尖って歪む。震える低い声で、吐き捨てるように彼は言った。

「俺はな、死骸を喰う奴だろうが花を喰う奴だろうが、羽虫って奴が目障りで大嫌いなんだ。気持ちよく寝てるとこを邪魔されるのも、同じくらい大嫌いだ。…だが、それより何より一番嫌いなのはな…、俺の知らないところで、好き勝手に縄張りを荒らされることだ…!」
「──蜘……蛛…が、……な…ん……で──。」

 倒れた甲虫が、絶え絶えの息の下辛うじて吐き出したのは、この森には居るはずのない強大な力を持つ蟲人に対する疑問と怖れである。だが、恐れても既に遅い。酷く気が立ったシノノメの、怒りと侮蔑の混じった視線を浴びる甲虫の顔は、見る間に尚も青黒く不気味な色に変わり果てていた。外つ国の蜘蛛の毒は、ほんの僅かな量でも、獲物の動きのみならず呼吸まで麻痺させて、徐々に死に至らしめるものであるらしい。

 一気に空気を得て激しく咳き込みながら、頭の中に掛かった白い靄を振り切るように頭を振って、ムラサキは手をついて寄り掛かりながら身体を支えていた壁際からそろりと這い出す。一撃で甲虫を咬み倒したシノノメは、今までに見たことがない険しい顔付きで、肩を震わせながら明瞭と激昂していた。白く尖った毒牙を覗かせて顔を引き攣らせる毒蜘蛛の激しい怒りの形相は、彼の顔を見慣れたムラサキでさえ恐怖を禁じ得ない。縄張りを侵された雄の蜘蛛が見せる怒気は、ムラサキの目には少々不自然なものに映った。

 よしんば縄張りから追い払いたいだけならば、派手な警戒色と大きな体躯を持つシノノメが姿を表して威嚇して見せただけで、この埋葬蟲はたちまち恐れを為して逃げ去っていただろう。逃げる間も、命乞いの機会すら与えずに致死量の毒を流し入れるという残虐な所業は、ただ住処を荒らされたという理由にしては不釣り合いであるように思えた。それが外つ国の蜘蛛の残虐な習性であると言われればそれまでだが、彼の怒りの色は、縄張りのみならず己のつがいと仔に危害を加えられた雄が示す、無条件の爆発的な激昂に似ている。


 惑うムラサキの視界の中で、シノノメがゆっくりと膝をついて、たった今し方たおしたばかりの獲物を軽々と掴み上げた。麻痺毒の影響で、全身の動きはおろか、呼吸すら叶わない甲虫の『死』は避けられない事実として目の前に横たわっている。愚かにも、否、運悪く外来の毒蜘蛛の領域を侵してしまった者に課される末期を目の前に、埋葬蟲の運命はここで尽き果てたのだ。
 尚も、猛り狂いながら怒るシノノメは、その蒼い瞳で、呆然と成り行きを見守るムラサキを低く唸りながら一瞥した。

「──ムラサキ。お前は、寝床に戻れ。」
「…シノノメ。」
「蝶の癖に、蜘蛛の食事の様子を見たいか?なら止めねえ。──いいから、戻れ。」
「……解った。」

 それは、肉食の毒蜘蛛が、捕らえた蝶にだけ見せた慈悲なのだとムラサキは思った。生き餌を好む蜘蛛は、遅かれ早かれ死ぬ運命を迎える甲虫の息の根が止まる前に、骨を砕いて肉を噛み切り、咀嚼して、己の血肉とするつもりなのだ。

 もし、この翅が彼を誘引する香気を放っていなければ。その香気を彼が殊更に好まなければ。ムラサキの運命とて、この哀れな埋葬蟲と同じであったのだろうと思える。
 迂闊にも捕食者の前に姿を晒してしまった被捕食者の行く末など、この森ではとうに決まっている。故に、ムラサキは、行き倒れる前にこの身を屍に変えて喰らおうとした甲虫から眼を逸らした。荒い激怒の呼吸を繰り返すシノノメと、その生き餌である黒衣の甲虫に背を向けて、走るように歩き出す。

 それは、この地に生きる者として当然の摂理を、せめてムラサキの眼に入れるまいとした毒蜘蛛の慈愛なのだろう。その慈悲に縋り、今しも背後で繰り広げられようとしている残虐な光景から目を背けて、静謐に包まれた大広間へと、大きな翅を引き摺りながら駆け出していた。
 今更になって、強く掴まれていた手首と首筋が、怨念に掴まれたかのようにじくじくと痛んだ。
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