蟲人の森 -蝶の王-

槇木 五泉(Maki Izumi)

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埋葬蟲.7

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「──へえ。あんた、しかばねになれない死に損ないの癖に、随分と血色がいいじゃあないか。それに、顔を見りゃあ滅法な別嬪べっぴんだ。昔は、そこいらの雌共が捨てて置かなかったんじゃないかい?それが今じゃあ、たった一匹で暗い穴蔵の中か。時の流れって奴は、残酷だね…。」
「…っ、離せ!私は、お前の餌の死骸しがいではない…!死に損ないだろうが何だろうが、こうして生きているんだ。息絶えるまで待つ気がないなら、他を当たればいい…!」
「生憎、そうもいかねえ。こっちゃあ、歩き疲れて随分と腹が減っていてねえ…。簡単なこった、死骸がないのなら、増やせばいいじゃあねえか。ここなら、あんたが死んでいい塩梅に腐っていくまで、吹雪をしのげるからなぁ…。」
下衆ゲスめ──!」

 身体中から弔いの香と腐肉の匂いを漂わせる埋葬蟲しでむしの下卑た嗤いが、耳の奥にねっとりと絡み付く。強く掴まれた手首は、いくら振り解こうと躍起になって暴れたところでびくともせず、血の気が無くなって痺れを感じるまでになっていた。
 舌なめずりをせんばかりにムラサキを見詰め、疲れ果てて力尽きるのを待ち続ける甲虫の目つきが、いっそおぞましく突き刺さるように感じられる。命の灯火が尽きて倒れ伏した者を喰らうと言うならいざ知らず、生けるムラサキからその命を奪ってまで餌食にしようとする埋葬蟲は、森の摂理と道理にそぐわぬ行いに手を染めようという程までに餓えているのだろう。
 拘束した蝶に疲弊が見えたその一瞬を見逃さず、手首に食い込んでいた両手の指がムラサキの細く白い首筋に食い込み、暗がりの壁に強く叩き付けた。

「──か…、は…!」

 木肌に頭を強く打ち、視野がぐらりと揺らぐ。呼吸を堰き止め、血の流れまで阻む埋葬蟲の指に爪を立てて必死で引っ掻いても、縛は外れるどころか、その力が揺らぐことさえない。
 目の前で、下卑げびた陰気な顔が嗤う。顔を歪めて藻掻く蝶を見遣りながら、漆黒の蟲は口角を捩じり上げて暗い笑みを浮かべた。

「なぁに、死に損ないの蝶が、今になってやっと死ねるだけだろう。元々は、俺の腹に収まる筈だったんだ。その時期が遅れただけさね──。ああ、お前さんは年増の雄だが、なかなかの美人だ。死んで腐り果てちまう前に、ちいっとその身体を使って、いことをして遊んでやるか…。」
「…く──、っ…!」

 死した肉体を貪り喰らうだけに飽き足らず、この亡骸を辱めるのだと堂々言ってのけた埋葬蟲の、森の摂理に反したおぞましい言葉に吐き気を覚える。漆黒の弔い装束に身を包んだ甲虫の手で、胡蝶の命の灯火はじわじわと掻き消されようとしていた。

 奇しくも、捕食者である毒蜘蛛が気紛れに活かしたこの命は、賤しい屍喰らいによって潰えようとしている。あまりにも皮肉で惨めな死に様だと、ムラサキは薄れゆく意識の中で思う。『好きにしろ』と言われるが儘に生き永らえたこの命は、シノノメの預かり知らぬところで少しずつ削られ、儚く散ろうとしているのだ。

 己の最期を知ったシノノメは、一体、翳る青い目にどんな色を浮かべ、どんな顔をするのだろう、と、朝霧のようにぼやける意識の中でムラサキは思った。
 一度はこの身を喰らうつもりで絡め取り、ほんの偶然が重なって生かし続けただけの歳上の雄蝶が不意に跡形もなく消えたところで、彼は眉ひとつ動かさないのかもしれない。


 嗚呼、それでも。


 と、ムラサキは力の限りに抗いながら狭まる咽喉で目一杯息を吸い込む。

 彼が『好きにしろ』と言うのならば、せめて春の訪れまでは好きなように『生きて』いたい。たとえどんな扱いを強いられようとも、生きて、孤独な毒蜘蛛が下す決断に従いたい。好きにする、とはそのようなことだ。
 ムラサキに冬の住処すみかと、生きる糧とを与えた毒蜘蛛の手に掛かるのならば、その道理を黙して受け容れると決めた。それ以外の者が、この数奇な運命に介入して良い筈がないのだ。

 そう思った途端、諦念で満たされた焦茶の瞳に、燃え上がるような気力がふっと宿るのが手に取るように解った。

 ざり、と爪先で床を踏み締め、渾身の力を振り絞って、首を絞め上げる埋葬蟲の手を逃れようと背中の翅を強く羽ばたかせた。これ以上鱗粉が剥げ落ちようとも、羽の裾が破れようとも構わない。ここで相撃ちになったとしても、それが誇り高き蝶の王だった身に残された誇りと本懐だった。
 瀕死の蝶が見せた全身全霊の抗いに、甲虫が少しばかり怯み、飛び退ろうとするのが伝わってくる。

 しかし。

「──が…ァ…!」

 ムラサキを見据えていた黒く薄気味の悪いせせら笑いが、不意に呆然と凍て付いた。その背後で、毳々けばけばしい桃色の警告色が、夜明けの雷光のように閃くのが見える。

 知らず滲んだ視界に映ったのは、埋葬蟲の左の首筋に鋭い牙を突き立てるシノノメの、激怒に燃える蒼穹のひとみだった。
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