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埋葬蟲.6
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この枯れ木の中は、巨大な空洞。蜜蜂が城塞として住処にしていた、頑丈だがただ広い暗がりだった。随分明るくなりはしたものの、ごく僅かな隙間から射し込む冬の陽光や、月詠茸の碧い光が届かない隅の方には、墨で塗り潰されたような暗闇がぽつぽつと落ちていた。
これも、夜行性のシノノメの眼であれば見通すことができるのだろうが、生憎と夜空を翔ぶようには創られていないムラサキの焦茶の瞳には、奥行きの解らない薄気味の悪い暗がりでしかない。本能的な恐れを感じさせる闇には近付きたくなかったのだが、つい考え事に浸っていたせいで、存外物陰の近くに寄ってしまっていた。
こういった場所には重々気をつけなければならない、何故なら同じ蟲人を餌食にする、恐ろしい肉食の蟲人が潜んでいるかもしれないのだから。
歳を重ねた胡蝶の身には染み付いていた筈の教えを、ムラサキは迂闊にもすっかり忘れ去っていた。普段は冬眠のうちに過ごす冬という時期に、知らずぼんやりと感覚が狂っていたのかもしれない。或いは、この枯れ木の洞が並外れて力の強い毒蜘蛛の縄張りだと知って、油断しきっていた所為もあるのかもしれない。
「いやいや、何かと思えば…蝶々のあんたが、何故冬眠もせずにこんなところに居るのかね?こいつぁ不思議な話もあったもんだ──。」
全く不意に、物陰から聞こえてきた低い声は、間違いなくシノノメのものではない。
背筋に氷水を浴びせられたかと錯覚した。息を呑んで咄嗟に後退るムラサキを壁際に追い込むようにして、闇の中からぬうっと姿を表したのは、漆黒の長着に漆黒の袴を着けた、下卑た顔立ちの痩せた一匹の雄の蟲人だ。
歳の頃は三十令の中程か、袴姿から、目から髪まで全てが喪服のように真っ黒く、背には黒い甲殻に覆われた翅がある。
束ね髪の陰気な顔付きをしたその存在から漂う甘い腐敗臭に、ムラサキは顔を顰めて小さく呟いた。
「埋葬蟲──。屍喰らいが、何故こんなところに。お前達は、死人の森に棲んでいる筈ではなかったか…?」
「そりゃあこっちの台詞さ。あんたみてぇに歳を食った蝶が、どうしてこんな真冬に死に損なって木の洞で起きていられるのか、不思議で仕方ねえ。暖かい日にうっかり目を覚ましちまって、腹が減って死骸の匂いを追い掛けてここまで来てみたら、見付けたのは死骸どころか見事な死に損ないときた。…おっと。」
何処からここへ忍び込んで来たものか、にやにやと気色の悪い笑みを浮かべる埋葬蟲の雄。死出虫とも呼ばれる彼らは、命を落とした蟲人や、小鳥や小動物の亡骸を餌にして生きている存在だ。森の中に蔓延る『死』を片付ける彼らは、大概の生きた蟲人達からは気味悪がられている。普段は、世を儚んだ者以外は足を踏み入れることもない、暗く鬱蒼とした森の中心部を住処としているが、屍喰らいの彼らの中には、寒さに滅法強く冬の長い眠りを必要としない者がいた。大方、この埋葬蟲も、食餌である屍を求めて迷い込んできたのだろう。
忌むべき存在を見詰める剣呑な蝶の視線に気付いたか、屍肉食の甲虫は、ムラサキを更に壁際の窪みの中に追い込むように、草履履きの足で床を踏んで距離を縮めた。そして、色鮮やかで大きな翅を開かせるまいとして、じりじりと壁際に詰め寄って来る。
してやられた、とムラサキは険しい顔で唇を噛んだ。
如何に歳を重ね、翅裾が裂けて所々が色褪せているとはいえ、嘗て蝶の王と呼ばれた雄蝶は、尚も強い。埋葬蟲の一匹程度ならば、翅の一打ちで跳ね飛ばし、昏倒させることが出来たものを、この立ち位置では武器になる翅を広げることさえ儘ならないのだ。
そして、餌である死骸を住処まで引き摺って運ぶ事のできる埋葬虫の腕は、実に強力だった。抗おうと振り翳した両の手首を掴まれてしまえば、細く軽い体躯をしたムラサキに、押し返す術はない。
翅の付け根から背中にかけて、硬くごつごつとした木肌を感じる。身を捩り、束縛を振り解こうとしても、陰気な甲虫の指の力は揺るぎなくムラサキの手を捕まえて離そうとしない。悪足掻きとばかりに羽ばたいたところで、翅の隅が窪みになった壁に擦れるばかりで、全くの徒労に終わった。
これも、夜行性のシノノメの眼であれば見通すことができるのだろうが、生憎と夜空を翔ぶようには創られていないムラサキの焦茶の瞳には、奥行きの解らない薄気味の悪い暗がりでしかない。本能的な恐れを感じさせる闇には近付きたくなかったのだが、つい考え事に浸っていたせいで、存外物陰の近くに寄ってしまっていた。
こういった場所には重々気をつけなければならない、何故なら同じ蟲人を餌食にする、恐ろしい肉食の蟲人が潜んでいるかもしれないのだから。
歳を重ねた胡蝶の身には染み付いていた筈の教えを、ムラサキは迂闊にもすっかり忘れ去っていた。普段は冬眠のうちに過ごす冬という時期に、知らずぼんやりと感覚が狂っていたのかもしれない。或いは、この枯れ木の洞が並外れて力の強い毒蜘蛛の縄張りだと知って、油断しきっていた所為もあるのかもしれない。
「いやいや、何かと思えば…蝶々のあんたが、何故冬眠もせずにこんなところに居るのかね?こいつぁ不思議な話もあったもんだ──。」
全く不意に、物陰から聞こえてきた低い声は、間違いなくシノノメのものではない。
背筋に氷水を浴びせられたかと錯覚した。息を呑んで咄嗟に後退るムラサキを壁際に追い込むようにして、闇の中からぬうっと姿を表したのは、漆黒の長着に漆黒の袴を着けた、下卑た顔立ちの痩せた一匹の雄の蟲人だ。
歳の頃は三十令の中程か、袴姿から、目から髪まで全てが喪服のように真っ黒く、背には黒い甲殻に覆われた翅がある。
束ね髪の陰気な顔付きをしたその存在から漂う甘い腐敗臭に、ムラサキは顔を顰めて小さく呟いた。
「埋葬蟲──。屍喰らいが、何故こんなところに。お前達は、死人の森に棲んでいる筈ではなかったか…?」
「そりゃあこっちの台詞さ。あんたみてぇに歳を食った蝶が、どうしてこんな真冬に死に損なって木の洞で起きていられるのか、不思議で仕方ねえ。暖かい日にうっかり目を覚ましちまって、腹が減って死骸の匂いを追い掛けてここまで来てみたら、見付けたのは死骸どころか見事な死に損ないときた。…おっと。」
何処からここへ忍び込んで来たものか、にやにやと気色の悪い笑みを浮かべる埋葬蟲の雄。死出虫とも呼ばれる彼らは、命を落とした蟲人や、小鳥や小動物の亡骸を餌にして生きている存在だ。森の中に蔓延る『死』を片付ける彼らは、大概の生きた蟲人達からは気味悪がられている。普段は、世を儚んだ者以外は足を踏み入れることもない、暗く鬱蒼とした森の中心部を住処としているが、屍喰らいの彼らの中には、寒さに滅法強く冬の長い眠りを必要としない者がいた。大方、この埋葬蟲も、食餌である屍を求めて迷い込んできたのだろう。
忌むべき存在を見詰める剣呑な蝶の視線に気付いたか、屍肉食の甲虫は、ムラサキを更に壁際の窪みの中に追い込むように、草履履きの足で床を踏んで距離を縮めた。そして、色鮮やかで大きな翅を開かせるまいとして、じりじりと壁際に詰め寄って来る。
してやられた、とムラサキは険しい顔で唇を噛んだ。
如何に歳を重ね、翅裾が裂けて所々が色褪せているとはいえ、嘗て蝶の王と呼ばれた雄蝶は、尚も強い。埋葬蟲の一匹程度ならば、翅の一打ちで跳ね飛ばし、昏倒させることが出来たものを、この立ち位置では武器になる翅を広げることさえ儘ならないのだ。
そして、餌である死骸を住処まで引き摺って運ぶ事のできる埋葬虫の腕は、実に強力だった。抗おうと振り翳した両の手首を掴まれてしまえば、細く軽い体躯をしたムラサキに、押し返す術はない。
翅の付け根から背中にかけて、硬くごつごつとした木肌を感じる。身を捩り、束縛を振り解こうとしても、陰気な甲虫の指の力は揺るぎなくムラサキの手を捕まえて離そうとしない。悪足掻きとばかりに羽ばたいたところで、翅の隅が窪みになった壁に擦れるばかりで、全くの徒労に終わった。
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