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埋葬蟲.5
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もう後、幾度の夜を過ごせば春の陽射しが昇るのだろう。
春になれば、巨木の梢から差し込む暖かな陽射しが森の土を照らし、青草が芽吹いて、其処此処で瑞々しい曄が咲き始める。厚く張った泉の氷は解けて小川に清らかな水を運び、せせらぎの中では銀色の魚が群れを成して泳ぎ、蟲人を捕まえて喰らうという巨大な鳥とは似ても似つかぬ小さく可憐な小鳥たちが梢に群れて歌を奏で、深い森に漂う眠気を覚ました。
誰もが眠りの中で待ち望む春を、ムラサキは目覚めたままで待ち続ける。そして、冬なお眠らない蜘蛛の過ごす孤独の長さというものが、少なからず解ったような気がした。
ただ一匹の蝶と、一匹の蜘蛛が暮らすにしてはあまりにも広すぎる枯れ木の宮殿には、常に深閑と透き通った静寂が満ち溢れていた。夜行性のシノノメが眠ってしまう昼になれば、ムラサキはそっと起き出してその静寂の中を歩き回ることで時間を過ごす。
いつか見つけたあの偵察用の隠し扉に続く階を登り、外の様子を確かめるのは、既にムラサキの日課になっていた。指先で樹皮の緞帳を開くと、北風はいつも刺すような冷たさで吹き込んでくる。聞こえない春の足音を心待ちにしながら、しかし、いつしかムラサキは漫然と考えるようになっていた。
春になれば、自分はここを出て行くことも出来る。未だシノノメはこの隠し扉の存在に気付かずにあり、そしてムラサキの二対四枚の翅は、裾がほつれて所々褪せてこそいたが、痩せた長身を空に舞い上げるには十分な力強さがあった。
だが、自身がこの枯れ木の洞を翔び立ったとして、残されたシノノメはどうなるというのだろう。たった一匹、記憶を失くして外つ国から迷い込んできた異種の毒蜘蛛は、春が訪れた後のことを口にはしなかった。
一冬の、仮初の番として彼はムラサキを扱い、春になれば解き放つとも、食い殺すとも言ってはいない。ムラサキが彼の元を離れても、彼は変わらず生きるために獲物を狩り続けるだろう。この森の蟲人では到底太刀打ち出来ない強い力と糸を持つ毒蜘蛛は、確かに誰もが恐れ慄く存在に違いはなかったが、その強さと引き換えに、同種の存在なき孤独の中に放り出されている。もっとも、シノノメが孤独を望んでいるというのであれば別だが、ならば彼は空を翔ぶ蝶に、この翅があれば海を超えられるのか、と問うてみることがあるだろうか。
思い出すと頭が痛くなるのだと吐き捨てる生まれ故郷を、それでも時折思い出そうとせずにはいられないシノノメの様子は、それがたとえ最初はムラサキを喰らうために捕らえ、肉体を好きなように辱めた肉食の毒蜘蛛であったとしても、心を痛めずにはおれなかった。
まだ若い盛りの凛々しい雄でありながら、たった一匹で異郷の森を生きる蜘蛛は、年嵩の雄の破れ蝶とて、傍に置きたいと思ったのだろうか。少なくとも、シノノメが時折口にする『好きにしろ』という言葉は、突き放すようにぶっきらぼうではあったが、必要以上にムラサキの自由を拘束するものではない。
毒蜘蛛の言いなりになる代わりに、一冬の命を繋いだ蝶は、物思いに耽る眼差しで長い睫毛を薄く伏せ、正面に見える宮殿の壁にそっと手を触れた。
いつの間にやら、寝床にしている枯れ葉の山からは随分遠いところまで歩いてきたようだ。ここはきっと、塒の対角、シノノメが眠っている場所から最も遠いところであるのだろうと思われた。
もう後、幾度の夜を過ごせば春の陽射しが昇るのだろう。
春になれば、巨木の梢から差し込む暖かな陽射しが森の土を照らし、青草が芽吹いて、其処此処で瑞々しい曄が咲き始める。厚く張った泉の氷は解けて小川に清らかな水を運び、せせらぎの中では銀色の魚が群れを成して泳ぎ、蟲人を捕まえて喰らうという巨大な鳥とは似ても似つかぬ小さく可憐な小鳥たちが梢に群れて歌を奏で、深い森に漂う眠気を覚ました。
誰もが眠りの中で待ち望む春を、ムラサキは目覚めたままで待ち続ける。そして、冬なお眠らない蜘蛛の過ごす孤独の長さというものが、少なからず解ったような気がした。
ただ一匹の蝶と、一匹の蜘蛛が暮らすにしてはあまりにも広すぎる枯れ木の宮殿には、常に深閑と透き通った静寂が満ち溢れていた。夜行性のシノノメが眠ってしまう昼になれば、ムラサキはそっと起き出してその静寂の中を歩き回ることで時間を過ごす。
いつか見つけたあの偵察用の隠し扉に続く階を登り、外の様子を確かめるのは、既にムラサキの日課になっていた。指先で樹皮の緞帳を開くと、北風はいつも刺すような冷たさで吹き込んでくる。聞こえない春の足音を心待ちにしながら、しかし、いつしかムラサキは漫然と考えるようになっていた。
春になれば、自分はここを出て行くことも出来る。未だシノノメはこの隠し扉の存在に気付かずにあり、そしてムラサキの二対四枚の翅は、裾がほつれて所々褪せてこそいたが、痩せた長身を空に舞い上げるには十分な力強さがあった。
だが、自身がこの枯れ木の洞を翔び立ったとして、残されたシノノメはどうなるというのだろう。たった一匹、記憶を失くして外つ国から迷い込んできた異種の毒蜘蛛は、春が訪れた後のことを口にはしなかった。
一冬の、仮初の番として彼はムラサキを扱い、春になれば解き放つとも、食い殺すとも言ってはいない。ムラサキが彼の元を離れても、彼は変わらず生きるために獲物を狩り続けるだろう。この森の蟲人では到底太刀打ち出来ない強い力と糸を持つ毒蜘蛛は、確かに誰もが恐れ慄く存在に違いはなかったが、その強さと引き換えに、同種の存在なき孤独の中に放り出されている。もっとも、シノノメが孤独を望んでいるというのであれば別だが、ならば彼は空を翔ぶ蝶に、この翅があれば海を超えられるのか、と問うてみることがあるだろうか。
思い出すと頭が痛くなるのだと吐き捨てる生まれ故郷を、それでも時折思い出そうとせずにはいられないシノノメの様子は、それがたとえ最初はムラサキを喰らうために捕らえ、肉体を好きなように辱めた肉食の毒蜘蛛であったとしても、心を痛めずにはおれなかった。
まだ若い盛りの凛々しい雄でありながら、たった一匹で異郷の森を生きる蜘蛛は、年嵩の雄の破れ蝶とて、傍に置きたいと思ったのだろうか。少なくとも、シノノメが時折口にする『好きにしろ』という言葉は、突き放すようにぶっきらぼうではあったが、必要以上にムラサキの自由を拘束するものではない。
毒蜘蛛の言いなりになる代わりに、一冬の命を繋いだ蝶は、物思いに耽る眼差しで長い睫毛を薄く伏せ、正面に見える宮殿の壁にそっと手を触れた。
いつの間にやら、寝床にしている枯れ葉の山からは随分遠いところまで歩いてきたようだ。ここはきっと、塒の対角、シノノメが眠っている場所から最も遠いところであるのだろうと思われた。
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