蟲人の森 -蝶の王-

槇木 五泉(Maki Izumi)

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東雲.10

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「──ん…。」

 蝶にとって命の次に大切な、飛翔の為の翅に触れられる感覚があった。疲弊に負けて沈み込んだ泥のような眠りを振り解き、ゆっくりと瞼を持ち上げる。

「シノノメ──?」

 枯葉の寝床に横たわったムラサキの目の前に、モモイロドクグモのシノノメが身を横たえていた。この種の蜘蛛は夜行性で、昼間には眠気が差し込むという。ならば、眼下に隈の浮かんだ青い瞳がやや眠たげに細まっている今は、きっと昼間なのだろう。どのみち、光る茸以外にほとんど光源のない巨木の洞の中では、どちらであったとしてもさして変わりはない。

 ムラサキの目覚めを誘ったのは、床に届くまで垂れ下がった斑模様まだらもようの翅に、シノノメの手が触れていたことだ。互いの身体を打ち合う争いに使ったり、余程の力で引き裂かれなければ、この翅が傷んだり、鱗粉が剥げ落ちることはない。四十五年という歳月を経て、昔は誰より色鮮やかだったムラサキの大きな翅はところどころ擦れ、隅が襤褸布ぼろぬののように裂けて、若き日の栄華は見る影もなかった。
 そんなムラサキの翅の付け根から、緩やかに撫で下ろすようにして、シノノメの掌が触れている。まだ美しさの面影を残す、鮮やかな紫に焦茶、黄色に白に赤のまだらの翅だ。

 ムラサキが起き出したことに気付いたからか、シノノメの眉間が、少々決まり悪げに寄せられた。

「…生きた蝶の翅って奴は、思ったよりも温かいもんだな。それに、手触りも、死んだ蝶の翅とは違う。思ったよりも、案外柔らかい。」
「──あぁ。…そうやって触れるだけなら、気が済むまで触って構わないよ。これを引き千切られたら、私は死んでしまうがね…。」
「安心しろ。このクソ退屈な冬に、好きなだけ遊べる雌代わりをそうそう簡単には殺さねえよ。それに、この翅がなければ交尾の楽しみも半減だ。…ただ、がどんなもんか気になっただけだ。」

 淡々と語るシノノメには、確かに攻撃の意図は感じられない。そして、蝶の急所のひとつとも言える翅の付け根をただ撫でられているだけであれば、捕食者を前にしても、極度の緊張感は生じない。ただ、そわそわとして落ち着かない気分だけはどうしても消えなかった。肩の後ろから生え、血の通った二対四枚の翅を静かに震わせて、毒蜘蛛の気が済むのを待ち続ける。


 不意に、シノノメが口を開いた。

「──なぁ。この翅があれば、海を越えられるのか…?」
「海を…?」

 ゆっくりと顎を持ち上げて、半ば夢うつつな若い蜘蛛の顔をじっと見上げる。
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