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東雲.3
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「…シノノメ。春のまだ朝早い時間、葉陰から起き出して高い枝に飛び上がると、東の空にたなびく雲は朝日を映して、君の髪のような色をして。遠くの空は青く澄み渡って、君の眼のような色をしているものだ。私は、そんな光景を思い出す。──だから、君のことは、シノノメ、と呼ばせて貰おう。」
「ふん…。羽虫の見た景色か。地面を這いずる蜘蛛には、まるで縁のない話だな。」
若い雄蜘蛛は、あからさまに顔を顰めて吐き捨てた。
しかし短い沈黙の後、肩を竦めて踵を返し、ムラサキに背を向ける。
「ただ、悪い名じゃねえ…。何故なら、それは間違いなく俺の本物の名前じゃねぇということだけは解るからだ。余計なことを思い出さずに済む──。…好きにしろ。」
「そうさせて貰うよ。」
たった今し方、シノノメという仮の名を与えた上背の高い雄蜘蛛が、それを嫌がらなかったことに一先ず安堵する。気紛れに広間の中に歩き去っていくのを、食糧庫の一角から眼を細めて見送った。
ムラサキを捕らえて喰らわないということは、彼には別の餌となる獲物がいるのだろう。巨木の洞の中に、恐ろしいほど緻密に張り巡らされた透き通った糸は、この森に棲むどの蜘蛛が紡ぐ糸よりも強靭で、並大抵の蟲人に断ち切れるものではない。獲物の手足を絡める糸の粘つきも、シノノメがその掌で撫でればたちまちさらりとした太い糸に変わる。
シノノメにとって小蟲を捕らえる罠であり、また移動のための手段でもある蜘蛛糸は、その堅牢さを身をもって知ったムラサキにとっては間違いなく脅威だった。外つ国からやって来たという毒蜘蛛が心変わりを起こせば、ムラサキの命を奪うことなど容易い。それも、酷く残忍な方法で。ムラサキに出来るのは、極力彼の気を損ねず、意のままにしていることだけだ。
もし、この翅が外来の毒蜘蛛を惹き付ける誘引の香を発していなければ。
もし、ムラサキの容姿が毒蜘蛛の眼鏡に叶うものでなければ。
この命など、とっくに喪われていて然るべきものだったのだ。
元々は、雪降り頻る森で消えていた筈の天寿に近い命が、どういう因果か、蝶の王としての誇りと引き換えに延ばされているという、ただそれだけの話なのだ。シノノメの興がムラサキの翅に向いている間は、少なくとも命を奪われるということはない。この身に宿る雄蝶の誇りをかなぐり捨て、雄蜘蛛の『雌』としての役割を果たし続けている限りは。
そのように自分に言い聞かせてみても、暗く淀んだ気が晴れることはなかった。越冬の巣穴は、二匹の蟲人が暮らすには相当に広過ぎるのだが、辺り一帯にシノノメの放った糸が仕掛けられており、逃げ出すことはできそうにない。
蜜蜂の要塞は複雑に入り組んでおり、灯かりに乏しい木の洞の中は、昼の光の下で生きる蝶にとっては暗すぎて、陽光を嫌う蜘蛛の青い睛には具合が良いのだろう。それに、ここから逃げ出したところで、また寒い冬の森の中に戻り、凍えながら死んでゆくだけの話だ。
僅かな生の可能性に縋るのであれば、精々、気難しげなシノノメの勘気に触れないように振る舞う他にない。
実に重たい溜息が、ムラサキの唇をついて零れ出た。長い睫毛を伏せ、茸が発する僅かな灯り無くしては足元も覚束ない宮殿の床を見詰めながら、枯葉の寝床に向かうべく、草履を履いた足をゆっくりと踏み出した。
「ふん…。羽虫の見た景色か。地面を這いずる蜘蛛には、まるで縁のない話だな。」
若い雄蜘蛛は、あからさまに顔を顰めて吐き捨てた。
しかし短い沈黙の後、肩を竦めて踵を返し、ムラサキに背を向ける。
「ただ、悪い名じゃねえ…。何故なら、それは間違いなく俺の本物の名前じゃねぇということだけは解るからだ。余計なことを思い出さずに済む──。…好きにしろ。」
「そうさせて貰うよ。」
たった今し方、シノノメという仮の名を与えた上背の高い雄蜘蛛が、それを嫌がらなかったことに一先ず安堵する。気紛れに広間の中に歩き去っていくのを、食糧庫の一角から眼を細めて見送った。
ムラサキを捕らえて喰らわないということは、彼には別の餌となる獲物がいるのだろう。巨木の洞の中に、恐ろしいほど緻密に張り巡らされた透き通った糸は、この森に棲むどの蜘蛛が紡ぐ糸よりも強靭で、並大抵の蟲人に断ち切れるものではない。獲物の手足を絡める糸の粘つきも、シノノメがその掌で撫でればたちまちさらりとした太い糸に変わる。
シノノメにとって小蟲を捕らえる罠であり、また移動のための手段でもある蜘蛛糸は、その堅牢さを身をもって知ったムラサキにとっては間違いなく脅威だった。外つ国からやって来たという毒蜘蛛が心変わりを起こせば、ムラサキの命を奪うことなど容易い。それも、酷く残忍な方法で。ムラサキに出来るのは、極力彼の気を損ねず、意のままにしていることだけだ。
もし、この翅が外来の毒蜘蛛を惹き付ける誘引の香を発していなければ。
もし、ムラサキの容姿が毒蜘蛛の眼鏡に叶うものでなければ。
この命など、とっくに喪われていて然るべきものだったのだ。
元々は、雪降り頻る森で消えていた筈の天寿に近い命が、どういう因果か、蝶の王としての誇りと引き換えに延ばされているという、ただそれだけの話なのだ。シノノメの興がムラサキの翅に向いている間は、少なくとも命を奪われるということはない。この身に宿る雄蝶の誇りをかなぐり捨て、雄蜘蛛の『雌』としての役割を果たし続けている限りは。
そのように自分に言い聞かせてみても、暗く淀んだ気が晴れることはなかった。越冬の巣穴は、二匹の蟲人が暮らすには相当に広過ぎるのだが、辺り一帯にシノノメの放った糸が仕掛けられており、逃げ出すことはできそうにない。
蜜蜂の要塞は複雑に入り組んでおり、灯かりに乏しい木の洞の中は、昼の光の下で生きる蝶にとっては暗すぎて、陽光を嫌う蜘蛛の青い睛には具合が良いのだろう。それに、ここから逃げ出したところで、また寒い冬の森の中に戻り、凍えながら死んでゆくだけの話だ。
僅かな生の可能性に縋るのであれば、精々、気難しげなシノノメの勘気に触れないように振る舞う他にない。
実に重たい溜息が、ムラサキの唇をついて零れ出た。長い睫毛を伏せ、茸が発する僅かな灯り無くしては足元も覚束ない宮殿の床を見詰めながら、枯葉の寝床に向かうべく、草履を履いた足をゆっくりと踏み出した。
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