蟲人の森 -蝶の王-

槇木 五泉(Maki Izumi)

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越冬.1

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 そのまま、どのくらいの時が過ぎ去ったか。
 ムラサキの中で雄の欲望を散らし、身繕みづくろいを整えた蜘蛛は、暫く何事かを考えている様子だった。おもむろにその手が動き、ムラサキの四肢と腰に絡み付いていた糸を、容易くプツリと切り離してゆく。

「あ…っ──!」

 このまま床に叩き付けられる、そう思って襲い来るであろう衝撃に固く目を閉ざした矢先、ムラサキの身体は、乱れた着物をそのままに、若い雄蜘蛛の肩に軽々と担ぎ上げられてしまった。腰を折り曲げる形で、まるで意思なき物のようにムラサキの身体を担いだまま、蜘蛛は片手と両脚だけを使って、上に続く糸を難なく身軽に登ってゆく。
 目に映る地面は瞬く間に遠ざかっていくというのに、痩せ細っているとはいえ相応に背の高い雄の蝶を抱えたまま糸を登っても、息ひとつ切らさない外来の蜘蛛。改めて、その畏怖さえ覚える高い身体能力に息を飲み、されど相手がこれから己をどうしようとしているのかが皆目見当つかず、言い知れぬ不安の暗雲ばかりが重く胸の内に垂れ込めてくる。


 随分と高くまで登ったところに、蜘蛛の目指す場所があった。そこは、朽ちずにあった巨木の内部が床板として残った、広大な広間のような場所である。
 無造作に床の上に降ろされて、ムラサキは、あられもなく開いていた着物の前を丁寧に整えながら、逡巡しゅんじゅん交じりに辺りを見回した。

「これは…、ここは──。」

 壁一面に並んだ、蜜で満たされた緻密ちみつな六角形の蠟の部屋。その脇に置かれた泥で作られた幾つものかめに、大きく目を見開いて息を飲む。

 冬の間、要塞に住まう一族全員を養うだけの蜜や花粉が蓄えられているという蜜蜂の食糧庫というものを、ムラサキは初めて目の当たりにした。それは、半分は空のまま打ち棄てられているとしても、ムラサキが眠らずに一冬を過ごしてなお存分に余りあるほどふんだんな量。そして今や、蜜蜂の巨大な城塞を支配するのは蜂の女王ではなく、この森には本来棲んでいない筈の、外つ国のモモイロドクグモの若い雄、ただ一匹なのだ。

 思わずこくりと咽喉のどを鳴らしたムラサキの首筋に、背後から若い毒蜘蛛の腕が絡み付いてきた。他の雄に比べて長身のムラサキより、若い雄蜘蛛は一回りほど背が高い。
 馴染みのない、黒革の上着の質感にびくりと背筋を強張らせるムラサキを軽く見下ろし、両耳と舌先に金属を嵌めた、色鮮やかな短い桃色の髪を持つ青い眼の毒蜘蛛は、クツクツと愉しげに笑声を響かせる。

「こんなモノ、俺にとっては羽虫寄せの罠でしかねえんだ。その罠に使うにしたって、多すぎる。生きるために食いたければ、勝手に食え。その代わり、この冬の間、お前は俺の『雌』だ。蝶って奴には、餌以外の使い道があるもんだな──。同じ蜘蛛の雌を捕まえるまで、交尾の真似事で時間を潰してやるよ。」
「──ッ…!」

 反射的に若い蜘蛛の腕を振り払おうとして、黒い洋装の袖口に掛けた己の指先が酷く震えているのが解った。蝶の本能に染み付いた天敵、畏怖の化身である蜘蛛の雄は、その気になれば今すぐにでもムラサキの喉に毒牙を突き立て、毒を流し込みながら、少しずつ体液をすすり、肉を喰らうことも容易い筈だ。そんな絶対的な捕食者を、どういう訳か堪えられないほどの発情に導いたのは、本来ならば同種の雌蝶を誘うための鱗粉りんぷんの香気だった。

 狂おしいほどの気分の高まり、或いは生と死を分ける局面で感じる極度の緊張により、二対の翅から放たれる薫香は、特に色鮮やかな上翅から強くかおる。個体によって異なるという誘引の匂いは、ムラサキとは別の雄蝶のものであってもこの蜘蛛を発情に導けるのか、それは解らなかったが、ただひとつ解るのは、この翅が発する匂いのお陰で、雄蜘蛛の興が食欲以外の歪んだ場所に逸れているということだけだった。

 同時にそれは、まごうことなき雄性を持ったムラサキの矜持を酷く傷つける。大きな掌で腰の後ろをゆるりと撫で上げられると、先程無残に刺し貫かれて雄を知ったばかりの内壁が、粗暴な甘い疼きを思い出してきゅっとすくみ上がるのが、どうにも惨めだった。
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