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冬の森.2
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もう間もなく、小川には薄氷が張るだろう。厳しい季節の訪れだ。越冬のため、天道虫は群れを成し、蟻は餌を蓄えた地中の巣穴に籠もり、蟲人の森の誰しもが寝静まる、本物の冬が訪れる。
かつて、ムラサキはこの森で誰よりも美しい雄の蝶だった。
どの蝶よりも大きく、鮮やかな紫色と黄色、焦げ茶色の斑模様の二対の翅は力強く、梢を縫って高く速く翔べたし、その気になれば、羽ばたきひとつで同じ蝶人のみならず、並大抵の雄の蟲人を軽々と打ち負かすことができた。皆が見惚れる美しい翅に加えて、生まれ持った葡萄茶色の長く艶やかな髪と甘い美貌で数多の雌蝶を惹き付け、魅了し、長い越冬の伴侶となった雌との間に、自身の血を引く幾人もの仔を残してきた。
この蟲人の森で最も強く美しい、自信に満ち溢れた輝かしい『蝶の王』。だが、齢四十五令となった今、長い睫毛を持つ眦や口許には歳月が陰となって刻み込まれ、曄やかな美貌に翳りを添えていたし、力強く色鮮やかだった翅は様々な出来事を経てあちこち鱗粉が剥がれ落ち、隅は襤褸布のように綻び、引き裂けて、若き日の艶やかな美は最早見る影もない。背中でひとつに束ねた長い葡萄茶色の髪には幾つも白い糸が交じって、その上、前髪の一房は、完全に白く染まっていた。
昔は森に生きる蝶の中でも一番美しいと讃えられた、襤褸となった大きな翅の裾を引き摺って、降りしきる雪の中を、かつての蝶の王、ムラサキは当て所なく歩き続ける。最早、翅を開いて翔ぶ力は飢え餓えたこの身に残されておらず、よしんば宙空を翔んでみたところで、吹き付ける風に撃たれて凍えるのが関の山であろうと思われた。吐く息は霞んで白く、例年より森に注ぐ降雪は、着流し羽織の上から申し訳程度に巻き付けた薄い絹の襟巻をただ冷たく濡らしていくだけだった。
この森で暮らす蟲人は、寿命を迎えれば力尽きてそのまま土に倒れ伏す。そして、屍は黴や茸、そして死肉を餌とする蟲人たちの食餌になり、残りは朽ち行くままに、ただ鮮やかな翅だけが最後まで残って、それもやがては風雨と共に崩れ去って跡形もなく消えてゆくのが宿命だ。墓標というものは、ない。己の血を継ぐ子孫をこの世に残すことが蟲人の森に生きた証であり、そうであるから、蟲人はただ『一日でも長く生き延びる』ことだけを考えて、ひたむきにその日その日を踏みしめるように暮らし続ける。
若かりし日には考えたこともなかった『死』の影が、背後から鉛雪雲の如く静かに忍び寄ってくるのを、ムラサキは今、ひしひしと肌で感じ取っていた。瞬く間に薄っすらと積もってゆく白い雪の中に足跡だけを残しながら、諦観で満たされてゆく頭の中をどうすることもできずに、ただ一人きりで歩き続ける。
ここ数年は、共に冬を過ごす番いの雌を得られない年もあった。番う相手を見つけても、その腹に子供を授けてやれないこともあった。誰の身にも訪れる確実な『老いという最期』が、この身にもついに訪れたというだけの話であるのに、それでもまだムラサキは、生けるもの全てが持ち合わせる『生』への本能に焚き付けられるように、往生際の悪い歩みを止めることができずにいる。
もう何日もまともなものを口にしていない胃の腑は捩れるような痛みを訴え、気を抜けば痺れて感覚の無くなった指先から、足のつま先から、体温と共に生気がすっかり抜けていくのではないかと錯覚した。先に進めば生き永らえられるという保証は何ひとつないというのに、生きるという気力だけを振り絞って、ただ真っ直ぐに歩き続ける。
若き日の己が生き延びるために蹴落としてきた老いゆく蝶たちは皆、己と同じ想いを抱き、同じ軌跡を辿ったのだろうか。ならば、最後に待ち受ける『死』とはどんなものなのだろう。そんなことをぼんやりと考えていたムラサキの鼻孔を、ふと嗅ぎ慣れた甘い食べ物の匂いが擽った。
「──?」
遂に、頭の中に今わの際の幻覚が忍び寄って来たのかと自嘲し、嘆息した矢先、どうやらその蜜の香りが、この先にある巨大な枯れ木の洞から確かに溢れてくることに気が付く。それも、天を仰いで見上げなければ頂点が見えない背の高い古代樹が、立ち枯れて半分ほど折れた、深く暗い木の洞の中からだ。
こういった場所は大概、蜜蜂たちの冬の住処で、近付けばただちに毒槍を持った勇ましい雌蜂の兵士に追い払われるのではないかという想いが頭を掠めたが、不思議と番兵蜂たちの勇ましい羽音さえ聞こえず、辺りは不気味なほど深閑と静まり返っている。
そんなことがあるものだろうか、とムラサキは怪訝に思った。夏の間に、仲間や新しく生まれてくる仔たちのために大量の蜜や花粉を蓄えておくのだという蜜蜂の要塞が、無人のまま打ち棄てられているとは俄かに信じ難い。
しかし、かつては天にも届かんばかりに堂々と佇んでいたのであろう立ち枯れ木のごつごつとした幹に、大人の蟲人一匹がようやく通れるほどの幅でひび割れたように縦に開いた細い隙間からは、ただ空腹の蝶を誘惑する花の蜜の匂いが確かに色濃く漂ってくるのだ。
かつて、ムラサキはこの森で誰よりも美しい雄の蝶だった。
どの蝶よりも大きく、鮮やかな紫色と黄色、焦げ茶色の斑模様の二対の翅は力強く、梢を縫って高く速く翔べたし、その気になれば、羽ばたきひとつで同じ蝶人のみならず、並大抵の雄の蟲人を軽々と打ち負かすことができた。皆が見惚れる美しい翅に加えて、生まれ持った葡萄茶色の長く艶やかな髪と甘い美貌で数多の雌蝶を惹き付け、魅了し、長い越冬の伴侶となった雌との間に、自身の血を引く幾人もの仔を残してきた。
この蟲人の森で最も強く美しい、自信に満ち溢れた輝かしい『蝶の王』。だが、齢四十五令となった今、長い睫毛を持つ眦や口許には歳月が陰となって刻み込まれ、曄やかな美貌に翳りを添えていたし、力強く色鮮やかだった翅は様々な出来事を経てあちこち鱗粉が剥がれ落ち、隅は襤褸布のように綻び、引き裂けて、若き日の艶やかな美は最早見る影もない。背中でひとつに束ねた長い葡萄茶色の髪には幾つも白い糸が交じって、その上、前髪の一房は、完全に白く染まっていた。
昔は森に生きる蝶の中でも一番美しいと讃えられた、襤褸となった大きな翅の裾を引き摺って、降りしきる雪の中を、かつての蝶の王、ムラサキは当て所なく歩き続ける。最早、翅を開いて翔ぶ力は飢え餓えたこの身に残されておらず、よしんば宙空を翔んでみたところで、吹き付ける風に撃たれて凍えるのが関の山であろうと思われた。吐く息は霞んで白く、例年より森に注ぐ降雪は、着流し羽織の上から申し訳程度に巻き付けた薄い絹の襟巻をただ冷たく濡らしていくだけだった。
この森で暮らす蟲人は、寿命を迎えれば力尽きてそのまま土に倒れ伏す。そして、屍は黴や茸、そして死肉を餌とする蟲人たちの食餌になり、残りは朽ち行くままに、ただ鮮やかな翅だけが最後まで残って、それもやがては風雨と共に崩れ去って跡形もなく消えてゆくのが宿命だ。墓標というものは、ない。己の血を継ぐ子孫をこの世に残すことが蟲人の森に生きた証であり、そうであるから、蟲人はただ『一日でも長く生き延びる』ことだけを考えて、ひたむきにその日その日を踏みしめるように暮らし続ける。
若かりし日には考えたこともなかった『死』の影が、背後から鉛雪雲の如く静かに忍び寄ってくるのを、ムラサキは今、ひしひしと肌で感じ取っていた。瞬く間に薄っすらと積もってゆく白い雪の中に足跡だけを残しながら、諦観で満たされてゆく頭の中をどうすることもできずに、ただ一人きりで歩き続ける。
ここ数年は、共に冬を過ごす番いの雌を得られない年もあった。番う相手を見つけても、その腹に子供を授けてやれないこともあった。誰の身にも訪れる確実な『老いという最期』が、この身にもついに訪れたというだけの話であるのに、それでもまだムラサキは、生けるもの全てが持ち合わせる『生』への本能に焚き付けられるように、往生際の悪い歩みを止めることができずにいる。
もう何日もまともなものを口にしていない胃の腑は捩れるような痛みを訴え、気を抜けば痺れて感覚の無くなった指先から、足のつま先から、体温と共に生気がすっかり抜けていくのではないかと錯覚した。先に進めば生き永らえられるという保証は何ひとつないというのに、生きるという気力だけを振り絞って、ただ真っ直ぐに歩き続ける。
若き日の己が生き延びるために蹴落としてきた老いゆく蝶たちは皆、己と同じ想いを抱き、同じ軌跡を辿ったのだろうか。ならば、最後に待ち受ける『死』とはどんなものなのだろう。そんなことをぼんやりと考えていたムラサキの鼻孔を、ふと嗅ぎ慣れた甘い食べ物の匂いが擽った。
「──?」
遂に、頭の中に今わの際の幻覚が忍び寄って来たのかと自嘲し、嘆息した矢先、どうやらその蜜の香りが、この先にある巨大な枯れ木の洞から確かに溢れてくることに気が付く。それも、天を仰いで見上げなければ頂点が見えない背の高い古代樹が、立ち枯れて半分ほど折れた、深く暗い木の洞の中からだ。
こういった場所は大概、蜜蜂たちの冬の住処で、近付けばただちに毒槍を持った勇ましい雌蜂の兵士に追い払われるのではないかという想いが頭を掠めたが、不思議と番兵蜂たちの勇ましい羽音さえ聞こえず、辺りは不気味なほど深閑と静まり返っている。
そんなことがあるものだろうか、とムラサキは怪訝に思った。夏の間に、仲間や新しく生まれてくる仔たちのために大量の蜜や花粉を蓄えておくのだという蜜蜂の要塞が、無人のまま打ち棄てられているとは俄かに信じ難い。
しかし、かつては天にも届かんばかりに堂々と佇んでいたのであろう立ち枯れ木のごつごつとした幹に、大人の蟲人一匹がようやく通れるほどの幅でひび割れたように縦に開いた細い隙間からは、ただ空腹の蝶を誘惑する花の蜜の匂いが確かに色濃く漂ってくるのだ。
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