1 / 61
冬の森.1 ※
しおりを挟む
「──あ、ぁ…!」
仄暗い巨木の洞の中、あえかな苦鳴が木霊する。否、それは苦鳴というより、華蜜のように甘ったるい媚声に近い。
身体の内側から侵食する楔の律動は、組み敷いた雄蝶の唇から零れた声を拾い上げて更に昂ぶり、荒々しい呼吸と共に粘ついた濡れた音を立てて、奥の奥まで貪欲に突き上げてくる。
捕食者たる若い毒蜘蛛の手で、一匹の『雌』に造り変えられる、年経て尚も麗しい『蝶の王』。
甘い絶望と諦念に身を貫かれる度、斑模様も鮮やかな二対の翅が小刻みに震え、外つ国の雄蜘蛛を狂わせる薫香が、そこからぱっと立ち昇るのだ。
***
太古の昔から天空を目指して聳え立つ、甘く白い花を咲かせる巨木。
生い茂る木々の枝の合間を抜けて、穏やかな陽光が差し込み、下草の中には色も香りもとりどりの大きな花が咲き、そこここに碧玉の泉が湧いて水晶の如く澄み渡った小川が幾筋も流れる、ここは『蟲人たちの森』。
春から夏、そして秋にかけて色彩が一面に広がる楽園の森には、全てが灰色に塗り潰されて誰もが寝静まる厳しい冬の来たる足音が、具に響いていた。
「さっさと出ていけ──!ここに、あんたの居場所なんてないんだよ!」
「──ッ!」
僅かの間、小競り合いが続き。
ついにムラサキは、若く力強い腕に打ち据えられ、暖かく、雨風をしのげる巨木の洞から突き飛ばされる形で外の、冬の森の世界に押し出されてしまった。
ふらつく足で辛うじて大地に立った途端、万物に容赦のない厳しい北風がひゅうと吹き付けてきて、全身を切り刻む薄氷の刃のような冷たさに、ムラサキは二対の大きな翅をぶるりと震わせ、色濃い絹の着流しを纏った身を竦ませる。
つい今しがた、寒さから逃げるために身を滑り込ませた木の洞には、既に先の住人がいた。齢四十五令の蝶人であるムラサキより遥かに若い、番いの身籠った雌を連れた蝶人の雄だ。ならばこうなるのも仕方のないことだ、と、他の蝶人より些か長く生きたムラサキは思う。雄の蝶とは、一冬の伴侶と、新しく生まれてくる己の子のためならば、命を懸けて縄張りを護る生き物だ。もし若き日のムラサキが相手の立場だったならば必ず同じ選択をしていただろうし、事実、身重の伴侶を連れた越冬の間、そのようにして他の蟲人を追い払ったことも一度や二度ではなかったのだ。今度は自分が追われる側になった、ただそれだけのことなのに、目の前には暗い鉛色をした絶望の帳が重たく落ち掛かってくる。
たったひとりで冬の森を彷徨う今のムラサキには守るべきものもなく、食餌となる花々や樹液が遂に枯れ果てたここ数日の間は、枯草から滴る僅かな夜露しか口に含んでいない。そんな有様では、新しく生まれてくる命を守ろうと必死になる、自身より二回りも若く闘志に満ち溢れた雄に打ち勝つ術など、無きに等しいようなものだった。
水晶のように澄み渡ったせせらぎが幾つも流れ、底まで見通せる碧い泉が幾つも湧き、そして蟲人の成虫たちが数十匹で手を繋いでぐるり取り囲んでも届かないほど巨大な、見上げるほどに背の高い太古の木々が無数に生い茂る楽園の如く広大な蟲人の森であっても、越冬のための住処を見つけるのは至難の業だ。先に居心地のいい木の洞や岩肌の洞穴にありつけるのは、最も力の強い者のみ。後は、長い冬を越すために、風雪から逃れて微睡むことができる場所を、血眼になって探すしかない。
ふと、ムラサキの纏う、焦茶の羽織を合わせた濃紫の着流しに、空からふわりと白いものが舞い降りてきた。焦茶の瞳を驚きに見開いて、遥か頭上、巨木の梢が枯れ枝となって伸びる空から降ってくるものを呆然と見つめる。
「雪、だ──。」
春先には木漏れ日が落ちてくる枝の間を縫って落ちてくるのは、冷ややかな雪。まだ冬になったばかりだというのに、あまりにも早く曇天から放たれた雪の結晶が、腰の丈まで伸びたムラサキの葡萄茶色の髪や着物、背中から垂れた二対の大きな翅に音もなく落ち掛かってくる。
蝶人の、外で冬を越すには薄すぎる着物をいとも容易く貫く寒気に、ムラサキは再び大きく身震いをすると、薄手の足袋に草履を履いた脚を重く引き摺って、溜息と共に歩き始めた。
仄暗い巨木の洞の中、あえかな苦鳴が木霊する。否、それは苦鳴というより、華蜜のように甘ったるい媚声に近い。
身体の内側から侵食する楔の律動は、組み敷いた雄蝶の唇から零れた声を拾い上げて更に昂ぶり、荒々しい呼吸と共に粘ついた濡れた音を立てて、奥の奥まで貪欲に突き上げてくる。
捕食者たる若い毒蜘蛛の手で、一匹の『雌』に造り変えられる、年経て尚も麗しい『蝶の王』。
甘い絶望と諦念に身を貫かれる度、斑模様も鮮やかな二対の翅が小刻みに震え、外つ国の雄蜘蛛を狂わせる薫香が、そこからぱっと立ち昇るのだ。
***
太古の昔から天空を目指して聳え立つ、甘く白い花を咲かせる巨木。
生い茂る木々の枝の合間を抜けて、穏やかな陽光が差し込み、下草の中には色も香りもとりどりの大きな花が咲き、そこここに碧玉の泉が湧いて水晶の如く澄み渡った小川が幾筋も流れる、ここは『蟲人たちの森』。
春から夏、そして秋にかけて色彩が一面に広がる楽園の森には、全てが灰色に塗り潰されて誰もが寝静まる厳しい冬の来たる足音が、具に響いていた。
「さっさと出ていけ──!ここに、あんたの居場所なんてないんだよ!」
「──ッ!」
僅かの間、小競り合いが続き。
ついにムラサキは、若く力強い腕に打ち据えられ、暖かく、雨風をしのげる巨木の洞から突き飛ばされる形で外の、冬の森の世界に押し出されてしまった。
ふらつく足で辛うじて大地に立った途端、万物に容赦のない厳しい北風がひゅうと吹き付けてきて、全身を切り刻む薄氷の刃のような冷たさに、ムラサキは二対の大きな翅をぶるりと震わせ、色濃い絹の着流しを纏った身を竦ませる。
つい今しがた、寒さから逃げるために身を滑り込ませた木の洞には、既に先の住人がいた。齢四十五令の蝶人であるムラサキより遥かに若い、番いの身籠った雌を連れた蝶人の雄だ。ならばこうなるのも仕方のないことだ、と、他の蝶人より些か長く生きたムラサキは思う。雄の蝶とは、一冬の伴侶と、新しく生まれてくる己の子のためならば、命を懸けて縄張りを護る生き物だ。もし若き日のムラサキが相手の立場だったならば必ず同じ選択をしていただろうし、事実、身重の伴侶を連れた越冬の間、そのようにして他の蟲人を追い払ったことも一度や二度ではなかったのだ。今度は自分が追われる側になった、ただそれだけのことなのに、目の前には暗い鉛色をした絶望の帳が重たく落ち掛かってくる。
たったひとりで冬の森を彷徨う今のムラサキには守るべきものもなく、食餌となる花々や樹液が遂に枯れ果てたここ数日の間は、枯草から滴る僅かな夜露しか口に含んでいない。そんな有様では、新しく生まれてくる命を守ろうと必死になる、自身より二回りも若く闘志に満ち溢れた雄に打ち勝つ術など、無きに等しいようなものだった。
水晶のように澄み渡ったせせらぎが幾つも流れ、底まで見通せる碧い泉が幾つも湧き、そして蟲人の成虫たちが数十匹で手を繋いでぐるり取り囲んでも届かないほど巨大な、見上げるほどに背の高い太古の木々が無数に生い茂る楽園の如く広大な蟲人の森であっても、越冬のための住処を見つけるのは至難の業だ。先に居心地のいい木の洞や岩肌の洞穴にありつけるのは、最も力の強い者のみ。後は、長い冬を越すために、風雪から逃れて微睡むことができる場所を、血眼になって探すしかない。
ふと、ムラサキの纏う、焦茶の羽織を合わせた濃紫の着流しに、空からふわりと白いものが舞い降りてきた。焦茶の瞳を驚きに見開いて、遥か頭上、巨木の梢が枯れ枝となって伸びる空から降ってくるものを呆然と見つめる。
「雪、だ──。」
春先には木漏れ日が落ちてくる枝の間を縫って落ちてくるのは、冷ややかな雪。まだ冬になったばかりだというのに、あまりにも早く曇天から放たれた雪の結晶が、腰の丈まで伸びたムラサキの葡萄茶色の髪や着物、背中から垂れた二対の大きな翅に音もなく落ち掛かってくる。
蝶人の、外で冬を越すには薄すぎる着物をいとも容易く貫く寒気に、ムラサキは再び大きく身震いをすると、薄手の足袋に草履を履いた脚を重く引き摺って、溜息と共に歩き始めた。
26
お気に入りに追加
41
あなたにおすすめの小説
![](https://www.alphapolis.co.jp/v2/img/books/no_image/novel/bl.png?id=5317a656ee4aa7159975)
【連載再開】絶対支配×快楽耐性ゼロすぎる受けの短編集
あかさたな!
BL
※全話おとな向けな内容です。
こちらの短編集は
絶対支配な攻めが、
快楽耐性ゼロな受けと楽しい一晩を過ごす
1話完結のハッピーエンドなお話の詰め合わせです。
不定期更新ですが、
1話ごと読切なので、サクッと楽しめるように作っていくつもりです。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーー
書きかけの長編が止まってますが、
短編集から久々に、肩慣らししていく予定です。
よろしくお願いします!
サンタクロースが寝ている間にやってくる、本当の理由
フルーツパフェ
大衆娯楽
クリスマスイブの聖夜、子供達が寝静まった頃。
トナカイに牽かせたそりと共に、サンタクロースは町中の子供達の家を訪れる。
いかなる家庭の子供も平等に、そしてプレゼントを無償で渡すこの老人はしかしなぜ、子供達が寝静まった頃に現れるのだろうか。
考えてみれば、サンタクロースが何者かを説明できる大人はどれだけいるだろう。
赤い服に白髭、トナカイのそり――知っていることと言えば、せいぜいその程度の外見的特徴だろう。
言い換えればそれに当てはまる存在は全て、サンタクロースということになる。
たとえ、その心の奥底に邪心を孕んでいたとしても。
極悪家庭教師の溺愛レッスン~悪魔な彼はお隣さん~
恵喜 どうこ
恋愛
「高校合格のお礼をくれない?」
そう言っておねだりしてきたのはお隣の家庭教師のお兄ちゃん。
私よりも10歳上のお兄ちゃんはずっと憧れの人だったんだけど、好きだという告白もないままに男女の関係に発展してしまった私は苦しくて、どうしようもなくて、彼の一挙手一投足にただ振り回されてしまっていた。
葵は私のことを本当はどう思ってるの?
私は葵のことをどう思ってるの?
意地悪なカテキョに翻弄されっぱなし。
こうなったら確かめなくちゃ!
葵の気持ちも、自分の気持ちも!
だけど甘い誘惑が多すぎて――
ちょっぴりスパイスをきかせた大人の男と女子高生のラブストーリーです。
![](https://www.alphapolis.co.jp/v2/img/books/no_image/novel/bl.png?id=5317a656ee4aa7159975)
ウブな政略妻は、ケダモノ御曹司の執愛に堕とされる
Adria
恋愛
旧題:紳士だと思っていた初恋の人は私への恋心を拗らせた執着系ドSなケダモノでした
ある日、父から持ちかけられた政略結婚の相手は、学生時代からずっと好きだった初恋の人だった。
でも彼は来る縁談の全てを断っている。初恋を実らせたい私は副社長である彼の秘書として働くことを決めた。けれど、何の進展もない日々が過ぎていく。だが、ある日会社に忘れ物をして、それを取りに会社に戻ったことから私たちの関係は急速に変わっていった。
彼を知れば知るほどに、彼が私への恋心を拗らせていることを知って戸惑う反面嬉しさもあり、私への執着を隠さない彼のペースに翻弄されていく……。
敗戦国の姫は、敵国将軍に掠奪される
clayclay
恋愛
架空の国アルバ国は、ブリタニア国に侵略され、国は壊滅状態となる。
状況を打破するため、アルバ国王は娘のソフィアに、ブリタニア国使者への「接待」を命じたが……。
![](https://www.alphapolis.co.jp/v2/img/books/no_image/novel/bl.png?id=5317a656ee4aa7159975)
![](https://www.alphapolis.co.jp/v2/img/books/no_image/novel/bl.png?id=5317a656ee4aa7159975)
美しき父親の誘惑に、今宵も息子は抗えない
すいかちゃん
BL
大学生の数馬には、人には言えない秘密があった。それは、実の父親から身体の関係を強いられている事だ。次第に心まで父親に取り込まれそうになった数馬は、彼女を作り父親との関係にピリオドを打とうとする。だが、父の誘惑は止まる事はなかった。
実の親子による禁断の関係です。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる