そばにいる人、いたい人

にっきょ

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 そして、樹の毎日は須野原に話しかけられる前——秋のあの日より前と、おおむね同じ日々に戻った。学校に行って、淳哉の隣で授業を受けて帰る。淳哉のバイトがない日は二人でスーパーに行って食材とお酒を買い込み、どちらかの家に行く——そんな毎日だ。須野原とは学内で顔を合わせることもあるが、軽く会釈をするくらいで会話することはない。

 もちろん、おおむね同じ、というからには変わった部分もある。一つは淳哉の態度だ。
 あの日のことを完全に「なかったこと」にしたいのか、次の日学校で再会した淳哉は、一切昨日のことには触れてこなかった。そして、それ以来少しだけ樹から距離を取るようになった。意識しないと分からないようなほんの少し、例えば樹の家に来ても泊まらなくなったとか、樹の顔を見つめてこなくなったとか、そんな小さな変化だったが、樹には淳哉が遠くに行ってしまったように感じた。

(淳哉にとって、僕にキスされそうになったのはそんなに嫌だったってこと? でも、普通に話してはくれるし……大体、さ、最初にキスしてきたのは……淳哉の方じゃないか)

 内心憤ったり悲しんだりしたものの、樹はその真意を淳哉に聞けずにいた。もし問いただして、決定的な回答をされてしまったら、と考えると怖くなってしまうのだ。
 もう一つは、樹がバイトを始めたことだ。家にいると淳哉のことばかり考えて鬱々としてしまうし、何か新しいことに挑戦したいと思って近くのレストランのバイトに応募したのだ。母は怒るだろうか、と思ったが、考えてみれば高校生ではないのでバイトするのに親の同意は必要ないし、法に触れることをしている訳でもないので気にしないことにした。このお金で教習所に通い、卒業旅行で淳哉を助手席に乗せるのが目標だ。もちろん淳哉には言っていないが。

 そして、ひいひい言いながら受けた後期テストのこともすっかり忘れた学生が、春休みにうつつを抜かすころ——樹に須野原から連絡が来たのは、二月の終わりだった。

「樹、久しぶり~」

 大分暖かくなってきたとはいえ、まだ吹き付ける風は冷たい。コートを着込んだ樹が指定されたカフェに行くと、テラス席で煙草をくわえた須野原がひらひらと手を振ってきた。手を振り返してセルフサービスの店内でキャラメルマキアートを買い、須野原の前に腰を下ろす。相変わらずマシュマロのようにふにゃりと甘い笑みを浮かべた須野原は、まだ長い煙草を色っぽい手つきで灰皿に押し付けた。綺麗だな、と思う。

「ありがとね、連絡先消さないでくれてて」
「いえ、僕こそ……勝手に帰ったりしてすいませんでした」
「んー、まあね、笹森君が言ってた通り他に彼女がいたのは事実だしね。樹がそういうの無理そうなのも分かってたし。だから樹が付き合ってくれるなら切るつもりだったんだけど……って今更言い訳してもしょうがないか。うん」

 コートの内側に手を入れた須野原は、中から白い封筒を取り出して樹に差し出した。

「はい。今日はこれを渡そうと思って」
「……手紙、ですか?」
「ううん。中身見てみて」

 言われるままに封筒を開けると、中からは数枚のお札と、それよりも二回りほど小さいサイズの細長い厚紙が出てきた。

「……?」

 封筒から半分出した状態で須野原を見上げると、「食事代だよ」と目の前の美丈夫は目を細めた。

「ほら、はじめて一緒に食事行った日、俺財布忘れてったでしょ?」
「あー……はい」

 そういえば、そんなこともあった。

「ずっと迷ってたんだよね。そりゃ立て替えてもらっている以上返すべきなんだけど、ここで踏み倒せば、樹は『須野原の野郎、結局金返しやがらなかった』って俺のことずっと覚えててくれるかなあ、なんて。連絡するときの言い訳にも使えるし」
「ま、まあ……確かに記憶に残りやすくなるとは思いますけど」

 そんな形でいいのか。樹が相当困った顔でもしていたのか、ふふ、と小さく笑う声が聞こえた。

「うん。自分でもね、さすがにそれはないかなーって気づいてさ。遅くなって申し訳ないんだけど今日来てもらったんだ」

 須野原の言葉を聞きながら、樹は同封されていた厚紙の方を封筒から引っ張り出した。どうやら遊園地のチケットのようで、二枚入っている。

「これは?」
「そっちは餞別。使わないのもったいないし……嫌だったら捨ててくれていいから」
「……彼女さんと、行けばいいんじゃないですか」

 樹が睨むと、厳しいねえ、と須野原は目を細めた。椅子の背もたれに手をかけ、だらりと寄りかかる。

「あいつとはねー、別れたよ。『遠距離は無理』だってさ」
「遠距離?」
「うん。『三留確定した』って言ったら親父がブチ切れちゃってさ。戻って実家の手伝いすることになったんだよね」
「あ……」

 目を泳がせると、「あ、樹のせいじゃないから気にしないで」と須野原は手を振った。

「元々ね、ちょっと計算ができるからって勘違いして数学科来ちゃったタイプだったから。学校続けるのもしんどかったし、いいタイミングだったよ」
「はあ」

 それが建前なのか本音なのか、須野原の表情から樹は判断できなかった。もっと長い時を一緒に過ごせたら、それも分かるようになったのだろうか。
 淳哉のように。

「実家って、どこでしたっけ。確か飛行機の距離でしたよね」
「うん。佐賀の古湯……」

 ピンと来ていない顔の樹を見た須野原は、「要はなんもない山奥だよ」と雑に過ぎる言い換えをした。

「そこで、『須野屋』って旅館……旅館っていうか、民宿に毛が生えたようなのやってる」
「旅館、ですか」

 これまでのイメージとはそぐわない業種だったが、須野原なら何となくうまくやっていきそうな気がした。多分この人は作務衣を着ても似合うんだろうな、と光に透ける茶髪を見ながら樹は紙コップを手に取った。口元に近づけたものの、予想以上に熱かったのでそのままテーブルの上に戻す。

「飲まないの?」
「猫舌なんです」
「それは……初耳だな」
「はじめて言いましたから」

 そっか、と漏らした須野原は、少し寂しそうに見えた。もっと前に伝えていれば、あるいは今の二人の関係性は違っていたのかもしれない。今更な感傷に樹が浸っていると、コーヒーを飲み干した須野原が席を立った。

「それじゃ、俺はもう行くね。元気でね、樹」
「はい、あの……先輩も、お元気で」

 頷いて小さく手をあげた須野原は、そこで動きを止めた。一瞬だけ視線が左右に揺れる。また樹の顔に視線が戻ってきた時には、須野原はいつもの柔和な笑みを浮かべていた。

「……いつか、うちに遊びに来てよ。料理の美味しさと泉質には、自信あるからさ」

 返事を返す前に、須野原はひらりと樹に背を向けた。去っていく長身の姿が見えなくなってから、樹はテーブルの上のチケットを見下ろした。
 そういえば、淳哉がそろそろすき焼きパーティーをしようと言っていたはずだ。
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