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(こ、これは……まずいかもしれない)
午後六時、ちょっと過ぎ。言葉通りに待ち合わせ場所に立っていた須野原に案内された店の看板を見上げ、樹は立ち止まった。
「薬膳カレーのお店 あかだ」
手書き風の文字で木の板に掘られた字は、確かにそう見えた。
(須野原先輩に、行き先がどこかちゃんと聞いておくべきだったな)
猫舌の人にありがちなことに、樹は熱いものだけでなく、辛い物も苦手だった。カレー自体は好きだが、おいしく食べられるのは子供向けの甘いルーを使ったものだけである。しかも今回は薬膳だ、いろいろなスパイスが入っているに違いない。
「樹、どうしたの?」
「あ、いや……」
だが、ぜひ食べてほしい、と言われてここまでついてきてしまった以上、いまさら「他の店がいい」とも口にできない。カレー以外の、そしてスパイシーではないメニューがあることを祈りながら須野原の後に続いて店の中に入ると、スパイス独特の香りが途端に樹の体を包み込んだ。緊張のあまり手のひらにじっとりと汗が浮かんでくる。
「薬膳カレー二つで」
席に着くや否や、おしぼりと水を持ってきた店員に須野原はそう言い放った。メニューに手を伸ばしかけていた樹がものも言えずに振り向くと、指を組んだ須野原は分かってるよとでも言いたげな顔で頷いた。
「もうね、本当にめちゃくちゃおいしいから一回食べてみて欲しいんだ」
「そ、うなんですね……楽しみです!」
逃げ場を失った樹は、少し引きつった笑顔で頷いた。時を置かずして運ばれてきたカレーには、種籾のようなものや草の欠片のようなものが沢山入っている。
「い、いただきます……」
意を決して少しだけスプーンにすくい、口に運ぶ。熱い、というよりも痛い塊を無理やり飲み下す。もちろん味なんて分からない。
「どう? おいしいでしょ」
「そう、ですね……でもちょっと、僕には辛いっていうか」
「え、そう? 辛いかなあ……甘口だと思ってたんだけど」
不思議そうな顔をして須野原が首を傾げた。味わうようにしてゆっくりと口を動かし、長いまつ毛に彩られた瞼をぱちぱちと動かす。
「あ、じゃあラッシーも頼もっか」
「は、はい」
甘いラッシーをちびちびと口にし、何とか味覚を宥めながらカレーを飲みこむ。ふと目を上げると、早くも食べ終わった須野原がじっと指を組んで樹を見ていた。舐めるような視線に居心地が悪くなって目をそらす。
「でもよかったよ、樹が今日来てくれて」
「はあ」
「……怒ってると、思ってたから。約束すっぽかしちゃったし、冬休み中も連絡なかったから……もう無理かな、って思ってた」
「ああ……いえ」
言いながら樹はまたカレーを飲みこんだ。そうか、自分から連絡してもよかったのか、という当たり前のことに気づく。確かに、やらかしてしまった側から連絡を取るのは気まずいだろう。気になるのなら、じっと待っていたりせず自分から動いてみればよかったのだ。
「すいません。僕こそ、もう先輩は僕のこととかどうでもいいのかなって……」
「まさかあ、そんなことあるわけないじゃん。休みの間もずっと、樹はどうしてるかなって思ってたよ」
須野原は切れ長の目を見開いた。どこか芝居がかったその様子に、ふと「本当だろうか」という冷たい気持ちが樹の中に湧きおこった。
「次留年したら退学って親に言われて、仕方ないから勉強したりしてたけど……もう樹のこと考えちゃうと全然進まないし」
はあ、と肩を落とす須野原の前に、追加で注文したサモサとビールが置かれる。一気にジョッキを半分ほど開け、「あー」と声を上げた須野原は、握り拳ほどある大ぶりのサモサにフォークを突き刺した。
「っていうか本当に試験まずいんだけど。樹さあ、模範解答作ってくんない?」
「ええ?」
突然の展開に樹は戸惑い、「そんなの無理だよー」と笑って流そうとした。だが須野原は本気なようで、「いや問題なら分かるからさ」と樹をまっすぐ見てきた。
「解析とか代数の……っていうか数学科の試験って、毎年問題使い回しなんだよ。俺、去年も一昨年も受けたから過去問あるし」
「いやいやいや……」
「お願いだって!」
「い、いや、そう言われてもそんな……僕自身そんなに勉強ができるわけじゃ」
「じゃ、ほら! あいつ! 樹とよくつるんでる眼鏡の! 勉強得意そうじゃん! あの子に頼んでもらうとかできない?」
「ちょっと、そういうのは、ええと……」
「お金出すから!」
「あ、あんまり……ええー……」
必死に食い下がり、手を合わせてくる様子は、いつも飄々と格好良く構えていた須野原にはふさわしくないように樹には思えた。これまでキラキラとしたエフェクトがかかっていたのが、途端に色あせてくすんできたように見える。助けてあげたいような、でも淳哉のこと「つまんない奴」と言っていたのに調子が良すぎるのではないか、とぐるぐる考えていると、真剣だった須野原の顔がふっと諦めたような笑みに変わった。
「……ごめん。自分のことだし、自分で何とかするよ」
「あ……」
須野原を失望させてしまっただろうか。でも他人の人生がかかっている試験の模範解答を作れる自信も度胸も樹にはなかった。淳哉にそれを頼むなんて猶更だ。
「……その、ええと……でも、あの、一緒に考えたりとかなら……できると思うから」
「ありがとう、樹」
そう言ってサモサを齧る須野原は、もういつものふわりとした表情に戻っていた。そこからは樹についてどう思っているのかは読み取れない。
午後六時、ちょっと過ぎ。言葉通りに待ち合わせ場所に立っていた須野原に案内された店の看板を見上げ、樹は立ち止まった。
「薬膳カレーのお店 あかだ」
手書き風の文字で木の板に掘られた字は、確かにそう見えた。
(須野原先輩に、行き先がどこかちゃんと聞いておくべきだったな)
猫舌の人にありがちなことに、樹は熱いものだけでなく、辛い物も苦手だった。カレー自体は好きだが、おいしく食べられるのは子供向けの甘いルーを使ったものだけである。しかも今回は薬膳だ、いろいろなスパイスが入っているに違いない。
「樹、どうしたの?」
「あ、いや……」
だが、ぜひ食べてほしい、と言われてここまでついてきてしまった以上、いまさら「他の店がいい」とも口にできない。カレー以外の、そしてスパイシーではないメニューがあることを祈りながら須野原の後に続いて店の中に入ると、スパイス独特の香りが途端に樹の体を包み込んだ。緊張のあまり手のひらにじっとりと汗が浮かんでくる。
「薬膳カレー二つで」
席に着くや否や、おしぼりと水を持ってきた店員に須野原はそう言い放った。メニューに手を伸ばしかけていた樹がものも言えずに振り向くと、指を組んだ須野原は分かってるよとでも言いたげな顔で頷いた。
「もうね、本当にめちゃくちゃおいしいから一回食べてみて欲しいんだ」
「そ、うなんですね……楽しみです!」
逃げ場を失った樹は、少し引きつった笑顔で頷いた。時を置かずして運ばれてきたカレーには、種籾のようなものや草の欠片のようなものが沢山入っている。
「い、いただきます……」
意を決して少しだけスプーンにすくい、口に運ぶ。熱い、というよりも痛い塊を無理やり飲み下す。もちろん味なんて分からない。
「どう? おいしいでしょ」
「そう、ですね……でもちょっと、僕には辛いっていうか」
「え、そう? 辛いかなあ……甘口だと思ってたんだけど」
不思議そうな顔をして須野原が首を傾げた。味わうようにしてゆっくりと口を動かし、長いまつ毛に彩られた瞼をぱちぱちと動かす。
「あ、じゃあラッシーも頼もっか」
「は、はい」
甘いラッシーをちびちびと口にし、何とか味覚を宥めながらカレーを飲みこむ。ふと目を上げると、早くも食べ終わった須野原がじっと指を組んで樹を見ていた。舐めるような視線に居心地が悪くなって目をそらす。
「でもよかったよ、樹が今日来てくれて」
「はあ」
「……怒ってると、思ってたから。約束すっぽかしちゃったし、冬休み中も連絡なかったから……もう無理かな、って思ってた」
「ああ……いえ」
言いながら樹はまたカレーを飲みこんだ。そうか、自分から連絡してもよかったのか、という当たり前のことに気づく。確かに、やらかしてしまった側から連絡を取るのは気まずいだろう。気になるのなら、じっと待っていたりせず自分から動いてみればよかったのだ。
「すいません。僕こそ、もう先輩は僕のこととかどうでもいいのかなって……」
「まさかあ、そんなことあるわけないじゃん。休みの間もずっと、樹はどうしてるかなって思ってたよ」
須野原は切れ長の目を見開いた。どこか芝居がかったその様子に、ふと「本当だろうか」という冷たい気持ちが樹の中に湧きおこった。
「次留年したら退学って親に言われて、仕方ないから勉強したりしてたけど……もう樹のこと考えちゃうと全然進まないし」
はあ、と肩を落とす須野原の前に、追加で注文したサモサとビールが置かれる。一気にジョッキを半分ほど開け、「あー」と声を上げた須野原は、握り拳ほどある大ぶりのサモサにフォークを突き刺した。
「っていうか本当に試験まずいんだけど。樹さあ、模範解答作ってくんない?」
「ええ?」
突然の展開に樹は戸惑い、「そんなの無理だよー」と笑って流そうとした。だが須野原は本気なようで、「いや問題なら分かるからさ」と樹をまっすぐ見てきた。
「解析とか代数の……っていうか数学科の試験って、毎年問題使い回しなんだよ。俺、去年も一昨年も受けたから過去問あるし」
「いやいやいや……」
「お願いだって!」
「い、いや、そう言われてもそんな……僕自身そんなに勉強ができるわけじゃ」
「じゃ、ほら! あいつ! 樹とよくつるんでる眼鏡の! 勉強得意そうじゃん! あの子に頼んでもらうとかできない?」
「ちょっと、そういうのは、ええと……」
「お金出すから!」
「あ、あんまり……ええー……」
必死に食い下がり、手を合わせてくる様子は、いつも飄々と格好良く構えていた須野原にはふさわしくないように樹には思えた。これまでキラキラとしたエフェクトがかかっていたのが、途端に色あせてくすんできたように見える。助けてあげたいような、でも淳哉のこと「つまんない奴」と言っていたのに調子が良すぎるのではないか、とぐるぐる考えていると、真剣だった須野原の顔がふっと諦めたような笑みに変わった。
「……ごめん。自分のことだし、自分で何とかするよ」
「あ……」
須野原を失望させてしまっただろうか。でも他人の人生がかかっている試験の模範解答を作れる自信も度胸も樹にはなかった。淳哉にそれを頼むなんて猶更だ。
「……その、ええと……でも、あの、一緒に考えたりとかなら……できると思うから」
「ありがとう、樹」
そう言ってサモサを齧る須野原は、もういつものふわりとした表情に戻っていた。そこからは樹についてどう思っているのかは読み取れない。
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