そばにいる人、いたい人

にっきょ

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 帰り道で、スーパーに寄ってレシピサイトで検索したすき焼きの材料を買う。手際悪く調理し、今度はすぐに片付けまで終えたところでスマホに着信が来た。ちらりと母を見ると、疑うような視線と目が合う。逃げるように自室に入り、通話ボタンを押した。

『……イツキ?』
「ジュン!」

 聞こえてくる淳哉の声は、なんだかとても久しぶりのような気がした。樹の声が高くなる。

「バイトお疲れ! お正月まで勉強なんて、先生も生徒も大変だね」
『あ、うん』
「ジュンもこっち来ればよかったのに。一緒に初日の出とか見に行きたかったなー」
『ごめん……今は、ちょっと』
「分かってるよ、今年は受験生に集中するんでしょ?」
『集中……そうだね。集中……』

 思いがけない淳哉からの連絡にそわそわと室内を歩き回る樹に反して、ぼそぼそと聞こえてくる淳哉の反応は鈍かった。

「ジュン、もしかしてだけど……ブラックバイトに捕まってたりしないよね?」

 樹はバイトをしたことがないが、そういうものがあると聞いたことがある。不安に駆られて思ったままのことを口にすると、『へ?』とあっけにとられた声が聞こえてきた。

『俺そんなに疲れた雰囲気だったか? 大丈夫だよ、バイト先そんな変なとこじゃないから。好きでやってることだし、ちゃんと休憩ももらえてるよ』
「そっか……ならよかった」

 少し明るさを取り戻した淳哉の声に安堵し、樹は頬を緩ませた。

『イツキこそ、今実家にいるんだろ。疲れてないか?』
「ん? んー、平気だよ」

 反射的に答える。だが、その後を促すような淳哉の相槌に、ポロリと本音がこぼれる。

「……って言いたいけど、うん。ちょっと疲れたかも。……早く学校始まらないかなー、とは思ってる」
『そうか』
「どうしても母さんのことイライラさせちゃうみたいで。今日も夕飯すき焼きにしようと思って、せっかくだからすき焼きの汁……あれなんて言ったっけ、割り材?」
『割り下』
「そうそう、割り下から作ったんだけど、それがおいしくなかったみたいで『まずい』って食べてくれなかったし。春菊入れたのもダメだったっぽくて。普段から料理してないのに突然挑戦した僕が悪いんだけど、なんか、ちょっと……残念だったなって」

 やっぱり普段からやってないとボロが出ちゃうね、と言いながら部屋の壁に寄りかかり、天井を見上げる。いつの間に入ったのか、電灯の笠の中でバタバタと蛾が暴れている。

「たまに会うだけだと難しいよね、肉親でも」
『いや……前からだろ』

 淳哉は控えめに、だがしっかりと樹の言葉を否定した。

「え、そうだっけ?」
『イツキの母さん、昔からお前のやることなすこと否定してきてるだろ。大学受験の時だって、もっと近いところに通うのが普通とか数学科なんて無意味だから資格の取れるところにしろだのとかさんざん言われたじゃないか』
「んー」

 確かにそんなこともあった、と樹は思い出した。

「でもあれは、古い人だったからっていうのと、僕のこと心配だったってだけだから、否定っていうか……」
『イツキ』

 樹が言葉を切ると、淳哉の逡巡するような雰囲気がスマホの向こうから伝わってきた。

『……今度、すき焼きパーティーしようか』
「え?」
『今回の冬期講習で結構バイト代入ると思うから……俺、すっげえいい肉買うからさ、作ってくれよ。ホットプレート持ってたよな?』
「持ってるけど……でも、僕がやってもあんまりおいしくないと思うよ? せっかく高級なお肉買っても……」
『絶対に旨いから。大丈夫』
「そうかなあ」

 妙に自信たっぷりの淳哉に、樹は懐疑的な返答をした。言葉に反して勝手に緩んでくる口元を押さえて、直接会話していなくてよかったと思う。

『後期の試験終わって、春休みごろにバイト代入ると思うから。その頃かな』
「いいね、進級のお祝いだ」
『できるといいけどな』
「ちょっと、怖いこと言わないでよ!」

 もー、と樹が頬を膨らませると、それを見透かしているかのように、ふふ、と淳哉の笑う声が聞こえた。

『それじゃあな。早く戻って来いよ。待ってるから』
「うん。じゃあまたね」

 ぷつり、と通話が切れる。お肉、とワクワクしながらスマホを握りしめた樹はそういえば昼間に送った写真のことも、須野原のことも話さなかったなということに今更ながら気がついた。まあ、わざわざ掛けなおしてまでする話ではないし、次に会った時でもいいだろう。
 階下に降り、リビングの扉を開ける。相変わらずつまらなそうにテレビを眺めている母がちらりと樹を見た。

「随分と長電話だったわね」
「あ、そ、そうかな……」
「こそこそして、どうせ人に聞かせられないようなやましい話でもしてたんでしょ」
「そんなことは……ないよ」

 でも確かに母にははあんまり聞いてほしくない話だったかも、と樹の語尾が弱くなる。

「っていうか、相手淳哉だし」
「ああ……いっつも不機嫌で愛想の悪い、眼鏡の子でしょ」
「……」

 確かに淳哉はちょっと表情を作るのが下手だが、だからといって別にいつも不機嫌なわけでも、冷たいわけでもない。そんな修飾語で表現されるのは不本意だったが、訂正すると母の機嫌を損ねるだろうか、と樹が悩んでいるうちに、「あれ」と母は何かを思い出すように天井を見た。

「あの子、今年は帰省してないの? 毎年初日の出だなんだって樹のこと連れまわしてなかったっけ」
「あ、うん。今年はバイトで……あ、ジュンは塾でバイトしてるんだけど……受験生を担当してるから、そっちに集中したいんだったって」

 もたもたと樹が説明すると、母は呆れたように目を見開いた。

「はあ? お正月に? バイト?」
「う、うん。すご……」
「みっともないわね。世間が休みのときにまで働いてるなんて」
「え」

 眉をひそめて言い放った母に、樹の動きが止まる。ありえないわね、と顔をしかめたまま首を振った母は、テレビに顔を戻してチャンネルを変えた。

「樹、アンタはバイトなんてみっともない真似しないでちょうだいよ。学生の本分は勉強なんだし、母子家庭でお金がないなんて思われたら恥ずかしくてやってけないわ」
「え、あ、うん……?」

 別に淳哉はお金のためだけに働いているわけではない。教師という夢に向け、少しでも経験を積みたいと考えてアルバイトをしているのだ。そもそも、正月に働くことの何がみっともないことなのか樹には意味が分からなかった。

「なに?」

 あっけにとられて母の顔を見ていると、テレビから視線を外さないまま棘のある声が聞こえてきた。

「な、なんでもない。あ、明日からゴミ出し再開だよね、今のうちに準備しておくね」

 淳哉のことを汚らしいもののように言われるのは心外だったが、樹が知らないだけで世間一般的には——普通はそう思うものなのだろうか。疑問を口に出すこともできず手に持っていたスマホをポケットに入れ、樹はわたわたと台所へ向かった。
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