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春【開花】

17 春光

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 すっかり暖かくなった風が、のどかに梨のつぼみを揺らしていた。


「うーん……?」

 首を傾げながら、クロードは今しがた来たばかりの手紙を机の上に置いた。差出人は以前挿絵を書いていたときに世話になった編集者で、要約すれば手紙の内容は「新しく雑誌を刊行することになった。ついてはまた挿絵を頼みたいのだが、以前の倍額の報酬を出すから当社の専属絵師にならないか」というものだった。
 クロードは別に挿絵師ではない。仕事を選り好みできるほどの立場でもないから挿絵もやる、というだけの話で、ことにこの出版社の雑誌に向いたインパクト重視の表現、デフォルメした描き方はそこまで得意でもない。
 何か自分の絵に気に入るところでもあったのだろうか。それとも単に納期を守って従順に挿絵を描く点を信頼してのことだろうか。

(まあ、帰ってきてから考えればいいか)

 画材を玄関に置き、昼食をバスケットに詰めていると、とん、とん、と軽く玄関の扉が叩かれた。

「はーい」

 答えながら杖を持ち、椅子から立ち上がる。ルネが来るにはまだ早かったし、扉の叩き方も違っていた。それにルネ含め、この村の人達はクロードが玄関にたどり着くより先に勝手に扉を開けてくる。

「どちら様ですか?」

 訝しがりながらそっと戸を引く。
 現れたのは、見慣れていた画商の顔だった。

「うわっ」
「あっ、クロード! 本当にいるとは!」

 彼に会うのは、いつぞやに紹介された貴族を殴って以来だった。まさかの来訪客に目を見開くと、画商の方も信じられなさそうな顔をして固まっている。

「久しぶり……? 何の用だ」
「いや、年末に君の使いが画材屋に現れたって聞いて、ちょっと気になったから様子を見に来たんだ」
「……」

 首都からここまでそう離れてはいないが、「ちょっと様子を見に」来るような距離でもない。大体もう二度とうちの画廊に出入りするなと縁を切ってきたのはそっちではないか。
 クロードがじっと睨みつけると、画商はきまり悪そうに咳払いをし、取り繕うような笑顔を見せた。

「去年……いやもう一昨年か、君がカルロンド子爵相手に暴れたことがあったろう」
「暴れてはいない」
「細かいことはいいんだクロード。とにかく今更ながら評論家があのことを『近来稀に見る高潔な精神』だのなんだのと書き立てて君の作品を評価していてね。僕のところにも問い合わせが殺到しているんだ」
「……なるほどね」

 さっき読んだ手紙のことをクロードは思い出した。きっと編集者は「話題のクロード・ベルトランの絵が載っているのは当社だけ!」と謳って雑誌を売り出そうとしているのだ。

「なあ、あれからも描いただろう? 見せてくれよ」

 クロードの足元にある、真新しい油絵道具を舐めるように画商は見下ろしている。面倒だなと思っていると、道の向こうから荷車を引いてやってくるルネが見えた。画材とバスケットを持ち上げ、玄関の外に出る。

「遠路はるばる来てくれたところ悪いけど、これから出かけるところなんだ」
「いや、ちょっとだけでいいから……」
「そのうち、な。気が向いたら持っていくよ」

 鍵を閉め、画商を押しのけるようにして道に出る。駆け寄ってきたルネに挨拶をしながらバスケットと画材を渡した。それから太い首に手を回し、自分も荷車の上に乗せてもらう。

「行こう、ルネ」
「い、いいのか?」

 構わないさ、と頷く。

「ちょ……クロード!」
「じゃあな!」

 ゴロゴロと動きはじめた荷車の上から、クロードは画商に杖を振った。
 これからルネと、ピクニックに行くのだ。


「なあクロード……さっきの人、画商じゃないのか?」
「うん、そうだけど」
「よかったのか? 置いてきて……」
「いいのさ。突然来る方が悪いんだ」

 ルネと話しているうちに、荷車は丘の頂上についていた。
 まだつぼみの梨の花は、冬が置き忘れた雪のようにちらちらと村中を白く飾っている。

「本当は、満開の時期に来れたらよかったんだけど」
「いいや、十分だ。ありがとう」

 早ければ明日か明後日にでも開きそうな花たちは、これからルネが授粉作業で忙しくなるということも示していた。
 シートの上に下ろしてもらったクロードは、てきぱきと荷物を広げ、焚火の準備をするルネを見上げた。いつか言ったように、紅茶を淹れようというのだろう。

「ルネ」

 声をかけ、振り向いたルネにクロードは自分の横を示す。今日は二人で、のんびりとしたかった。
 のそりと隣に腰を下ろしたルネは、冬を越して少し色が薄くなっている。寄りかかると、太陽のような心地よい匂いがした。
 ルネ、ともう一度呼んで目を閉じると、柔らかく唇を食まれる。甘い吐息を漏らしたクロードは、ルネと共に草の上に転がった。指を絡ませながら微笑みを交わす。
 隣にルネがいる。ただそれだけのことで、クロードの心がいっぱいになった。
きっと、これから自分は何度もルネとこの丘に来るだろう。
 でも、今日のこの景色は忘れない。
 クロードにはその確信があった。

 二人を、丘を、梨のつぼみを、とろりと春の陽気が甘く包み込んでいた。

【終】
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