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春【授粉】

3 夕餉

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 クロードが気が付いた時には、辺りは夕闇に包まれていた。もうこんな時間か、と今日描いたスケッチを見返していると、背後から「うわっ」と声がした。

「ま、まだ描いてたのかクロード」

 顔を上げると、大きな影が木々の向こうから近寄ってくるところだった。遊びに熱中していたのを見とがめられたようで恥ずかしく、クロードは慌てて立ち上がった。

「もう帰るところだから」
「お、じゃあちょうどよかった。一緒に夕飯行こうぜ。村の連中に紹介してやるよ」

 ルネは道の向こうを親指で指した。昼間行き損ねた、宿屋兼料理店に行こうというのだろう。

「昼も夜も一緒か」
「嫌か?」
「いや、悪くない」

 先を歩くルネの後を、杖をついてクロードは追った。だが、クロードなりに急ぎはするものの、ルネの歩幅には到底追いつかない。ルネもそれに気づいたのか、立ち止まってクロードのことを待っているようだった。
 ふうふうと息を切らせながらルネに追いつくと、ルネは困惑したようにクロードの抱えるスケッチブックを見た。

「……持とうか?」
「いい……僕の、荷物だ」

 首を振り、そのままルネを追い越すようにクロードは歩いた。その横でゆっくりと一歩踏み出したルネは、すでにクロードより前にいる。足踏みしながら、クロードの視線に合わせるように首をかしげてきた。

「クロード、俺の背に乗るのはどうだ?」
「は?」

 思わず剣呑な声が出た。「んん」と怖気づいたようにルネは目をそらし、気まずそうな様子で頬をかいた。

「……非常に申し訳ないんだが……俺は今、猛烈に腹が空いている。早く夕飯にありつきたいんだ」

 そう言われて、クロードはルネの昼ご飯を取ってしまったことを思い出した。上目遣いでルネを見上げて立ち止まると、ルネは少し口元を綻ばせたようだった。ほら、としゃがみ込む背中に手をかける。

「帰りは、歩くからな」
「勿論だ」


 だが、そう言ったクロードは帰り道もルネの背中に負われていた。お近づきの印に、と皆から注がれる酒を何杯も飲み干した結果、立てなくなってしまったからだ。
 それでもしっかりと手にスケッチブックを持ったまま、クロードは大きなルネの背中に体を預けていた。ルネが農道を歩くたびに、服の下で筋肉が動くのを感じる。ぼんやりと開けた目には、風に揺られる梨の花が闇に浮かび上がって見えた。

「……すまない。行きも、帰りも」
「大したことないよ。肥料や収穫した梨の方がよっぽど重いんだから」

 クロードがこぼした言葉に、ルネは小さく笑って答えた。その足取りは軽く、本当にクロードの重さを苦にしている様子はない。
 気を遣わせないようにしてくれていることは分かったが、その明るさはかえってクロードの心をえぐった。昼間クロードは同じ道を、自分よりよっぽど軽いであろう画材に苦労しながら、ルネの何倍もの時間をかけて歩いたのだ。

「すごいな、ルネは……僕は、まともに歩くこともできないのに」

 はあ、と背中でため息をつく。下でびくりとルネが震えるのがわかった。

「い、いや、酔ったら歩けなくなるのは誰だって一緒だろ」
「そう、だな」

 クロードがルネの前に回した手でスケッチブックを持ち直すと、月明かりに照らされる梨畑の向こうにレンガの家が見えてきた。黒々としたオリーブに見覚えがある。

「ここでいい」

 玄関前まで運ばれたクロードは、そう言ってルネの背中を叩いた。心配そうな雰囲気を感じながらよろよろと地面に降り、ルネから渡された杖をつく。足に力が入らなかっただけで、元からそんなに酔ってはいないのだ。

「今日はありがとう。これからもよろしく」
「ん、またな」

 何回も振り返りながら農道の向こうに消えていくルネを見送ってから、クロードは鍵を取り出した。だが、暗いせいか慣れていないせいか、鍵穴に入れようとした先端はしたたかにその横にぶつかった。弾みでクロードの手から鍵が落ちる。

「あー……」

 クロードは小さく苛立った声を上げ、扉によりかかるようにしてゆっくりと膝をついた。上半身だけをかがめて物を拾おうとすると、そのままつんのめってしまうのだ。這いつくばるようにして、落ちた鍵に手を伸ばす。

「クロード! 大丈夫か!」

 突然聞こえた大声に顔を上げると、すぐ横にルネが戻ってきていた。

「鍵を落としただけだ」
「そ、そうか……てっきり倒れたのかと」

 クロードが拾った鍵を示すと、ルネは月明かりの下で安堵の表情を浮かべた。クロードが立とうとすると、ルネに抱き上げられ、服を軽く払われた。

「……どうも」

 そう言ったクロードは、今度こそ扉の鍵を開けた。中に入ろうとすると、その横にずいと梨の枝が突き出された。

「ほら、これやるよ。随分と気に入ってたみたいだから」
「あ、ありがとう」

 クロードにとって、絵を描いていると時間を忘れてしまうのはいつものことで、取り立てて梨の花が気に入ったというわけではなかった。だがそうも言えず、差し出された枝を受け取る。
 それじゃあ、と今度こそ帰っていくルネを見送ってから、クロードは部屋に入った。コップの中に梨の花を生けると、激しい情事の翌朝を思わせる、かすかに生臭い匂いが部屋の中にも広がった。
 薄暗い部屋の中で椅子に腰かける。梨の花は、月の光を集めたかのように光っていた。
 きっと愛情というやつは、見目麗しいだけではないのだろう。そう思ったクロードは、一人その笑みを深くした。
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