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36. 幻影角燈の夜(前)

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「……終わっちゃいましたね」

 すっかり暗くなった工房前。手早く片付けられていく広場の椅子やテーブル、仮設舞台を眺めながらカイがポツリと漏らした。
 片付けをする数人以外は、もう観光客の姿も、技を競い合っていた魔道具師たちの姿も見えない。月明かりもない広場は闇に包まれていた。

「うん……」

 ヴィクトールが答えると、遠くからがははという笑い声と遠吠えが風に乗って聞こえてきた。打ち上げに行った魔道具師たちだろう。ヴィクトールたちもレオンに誘われていたが、この後夜通し飲んで歌い騒げるような体力はないのでロジウムだけが参加していた。カイも行って来たら、と言ったのだが、「ヴィクトールさんが行かないなら嫌です」とご遠慮されてしまった。
 あっという間に舞台は解体されて消えていき、広場はいつもの見た目に戻った。片付けをしていた者たちも撤収し、石畳の空間だけが残る。熱気を残した空気とまだ取り外されていない角燈が夏祭りの気配を残しているが、これも明日の朝にはすべてなくなってしまうだろう。

「皆……凄かった、ですね。圧倒されました」

 ぽつ、とまたカイが口を開く。

「そうだね」

 ヴィクトールもただ頷く。馬鹿みたいな言い草だが、他にどんな表現ができるというのだろう。カイやヴィクトールだけではない。今日ここに集まった魔道具師たちはみんな己のプライドと工房の威信をかけてあの舞台に立っていた。魂を削り、心の底からの叫びをあの小さなランプに込めて観客を全力で殴りに来ていたのだ。自らのできること、やりたいことを吠え、なにがしかの爪痕を、それもできる限り大きいものを見たものに残そうともがいていた。今でもヴィクトールはそれぞれの作品の細部に至るまでを鮮明に思い出すことができる。
 それと、目を見開き、息もつけずに自分とカイの角燈を見ていた観客の姿と、最後の拍手喝采も。今でもあの大きな拍手と、興奮した人々の声がヴィクトールの耳の奥で鳴り響いていた。体全体が震えるような、音というよりもはや圧力のような熱気。高揚した体は心臓が破れんばかりに脈打っていたが、その反面頭のほうは夢見心地で、カイと作った幻影角燈をあんなに多くの観客の前で披露したのが本当のことだったのか、ヴィクトールはいまだに信じられずにいた。

「どの工房の人たちも長年角燈作りをしてきてて、この前幻影角燈のことを知ったばっかりの俺なんか参加できるだけで光栄なことなんだな、とは思うんですけど……でも、でも俺……っ」

 体の横でぐっと拳を握りしめ、カイは俯いた。再びヴィクトールを見上げた焦げ茶の目はその奥に爛々とした炎を燃やしている。

「俺、悔しいです!」

 叫んだ両目から、大粒の涙がボロボロと落ちる。そのまま涙も拭わずしゃくりあげるカイを抱き、「僕もだよ」と少し上ずった声で返す。

 ――280作品中、12位。
 それが、ゼーア工房の順位だった。審査員と観客による人気投票の結果だ。
 おそらく悪くはないのだろう、とヴィクトールは思う。仕事で角燈を作っているとはいえコンテストに出すのははじめての職人と、職歴1年にも満たない新人のコンビとしてはまずまずだ。少なくとも、観客の反応は想像以上だった。
 だが、全くもって良くはない。二桁の順位だなんてゼーア工房初の失態だし、新人がこれより良い順位を取った例なんていくらでもある。

 足りない。
 足りないのだ。

 もっと派手なもの、もっと美しいもの、もっと滑稽なもの、もっと精緻なもの……自分たちより上が、いくらでもいた。上位の順位の作品に「なぜ」と思う気持ちすら沸かずどこか清々しい気分さえあり、それがまた腹立たしい。自分たちより優れていると、心の底から納得してしまっているということだからだ。きっと母や、歴代当主ならこんな結果は出さなかっただろう。力不足を噛みしめながら、ヴィクトールは胸元に顔を埋めて泣くカイの頭を撫でた。

「でもね、カイ君……僕は、二人で作ったこの角燈が、一番好きだよ。それに、二人で協力したからこそ、この順位を獲れたんだと思ってる」

 きっと贔屓目もある。だが、本心だった。ヴィクトールは今回カイと一緒に作ったこの作品が、今まで作ったものの中で一番だと感じていた。カイの心が詰まったエミールとクリスティーネの、柔らかな眼差しと肌に感じるほどの暖かさと、ヴィクトールが描いた繊細な村の景色。それが、二人で作った角燈から飛び出すのだ。一人ではここまでの物は作れなかったし、作ろうともヴィクトールは思わなかっただろう。カイが来てくれなかったら、きっと今年も何やかやと言い訳をしてヴィクトールはコンテストに参加しなかったし、出品された作品を見て軽い安堵とともに塞ぎ込んでいたはずだ。
 二人だから、ここまでできたのだ。
 そして、二人なら、もっと先まで行ける。
 ヴィクトールは、その景色が見たくなっていた。

「それはっ、俺も、そうですけどっ! 自分の作品が一番好きに決まってるじゃないですか! でも! でもっ!」
「うっ」

 悔し紛れのカイの拳に胸を叩かれ、ヴィクトールは小さく呻いた。そのままローブの襟元を掴む手を、そっと上から包む。逆の手でカイの頬を落ちていく涙を掬い取ると、濡れたまつげに縁取られたカイの瞳と目を合わせた。頬にある痣の上に手を当て、燃える瞳の奥を覗き込む。
 ただ、カイのすべてが欲しい、と思った。

「ねえ、カイ君。僕は君となら、もっといい角燈が作れると思うんだ。だから、僕と、これからも……ずっと、一緒にいてくれないか」

 それは、ヴィクトールにとっては恋心を告げるよりも重い告白だった。カイの一生をヴィクトールだけでなく、この工房にも縛り付け、捧げてくれという呪いにすらなる言葉。かつて自分を潰した重荷を、共に背負ってほしいという懇願。
「ずっと一緒にいる」。たとえ傷つけ合い、憎み合うことになったとて絶対に放さないという覚悟と責任すらそれは内包していた。あるいは過去のヴィクトールのようにカイが壊れてしまうようなことがあっても、それでも離すことはないという執着も。
 この言葉ではきっとそこまでカイには伝わらないだろう、とヴィクトールは思ったが、詳細にそう説明するのは野暮な気がした。

 理解してくれていなくても構わない。少なくとも、今は、まだ。
 ドングリを思わせるカイの目が大きく見開かれ、そして角燈の光を反射した。

「もちろんです、ヴィクトールさん! 二人で絶対、頂点とって……殿堂入りしましょう!」
「うん、必ずだ」

 まだ確定していない未来への、不確かな口約束。だが、ヴィクトールにとってその言葉は何よりも揺るぎなく、そして眩しい、将来を照らす道標だった。
 泣き笑いのカイと顔を見合わせて笑い、ヴィクトールはその背中に腕を回した。強く、強く抱きしめる。カイのすべてが自分の手の中にあると確かめるように。愛の大きさを伝えるように。
 背中に伸びてきたカイの腕に、同じように強く抱きしめられた。そのまま2人で抱き合い、目を閉じる。ベタつく汗と涙の匂いの奥に、微かに透明感のある花の香りがした。

 二世花とカイの匂いを胸一杯に吸い込むと、体中が温かな幸せで満たされていくのを感じた。これからもカイが共にいてくれることを言葉に出して了承してくれたのが、堪らなく嬉しい。お互いの心が繋がり合い、唯一無二の特別な関係になった感覚。少なくとも、ヴィクトールにとってカイはそういう相手であった。仕事上でも、それ以外でも、すべてを捧げて惜しくない特別な存在。共に歩みたいと願う、たった一人の相手。

 腕の中のカイがヴィクトールを見上げ、背伸びをした。ゆっくりとした動作だったので避けることは可能だったが、ヴィクトールはそうしなかった。重なった唇から、薄い皮膚越しに燃えるようなカイの体温が伝わってくる。
 遠くからまた誰かの笑い声が聞こえ、風に吹かれて散り散りに闇へと消えていく。
 腕の中のカイと、ただ一つの熱の塊になったような錯覚を起こしながら、ヴィクトールはその喜びを全身で感じていた。
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