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35. エミールとクリスティーネ
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ふわりと角燈から広がったのは、クラコット村のある「熊の牙」山の景色だ。
痩せた山間の土地にへばりつくように、気持ち程度に生える緑の牧草。それを食む羊たちを、先の曲がった杖を持つ羊飼いの少女と、羊に負けないほどフワフワの毛を持った白い牧羊犬が追う。
ふと立ち止まった犬が、崖下を覗いて吠えた。風に乱された栗色の髪の毛をかき上げながら、少女も切り立った崖の端に立つ。覗き込んだ下には、煌びやかな身なりの青年が倒れていた。崖から落ちたのだろう、元は金髪だったであろう髪が赤く染まっている。彼が乗っていたであろう馬も隣で足を引きずっていた。
青年がその青灰色の目を開けたとき、最初に見えたのは安堵した様子の少女だった。にこりと微笑む表情に自分の体を見回す。やや粗末な素材の布が、足と頭に丁寧に巻かれていた。体を起こすと、どうやら羊小屋の中のようだ。羊の横に繋がれた馬も足に添え木を当てられており、すっかり少女に懐いた様子である。
体を起こした青年は、隣でしゃがみこんでいた少女の手を取り、その甲に口づけた。湖のような深い青色の目と、秋の恵みのような栗色の目が見つめ合い、そして輝きを増す。
場面は変わり、柔らかな青空の下、草原で色とりどりの花がそよいでいる様子になる。たおやかな指がぷつりと桃色の花を摘み取り、小さくかわいらしい鼻に当てて香りを楽しむ。羊飼いの少女だ。
草の上に腰を下ろし、つる草や他の摘み取った花と共に桃色の花を編み始める少女。その周りを嬉しそうに跳ねていた犬が、何かに気づいたように吠えて駆け出す。少女が振り向くと、そこには馬に乗った青年の姿があった。満面の笑みを浮かべて駆け寄る少女の体を、青年はやさしく抱きとめた。編み上げたばかりの花冠を頭に乗せられ、口角を緩めた青年はおかえし、とばかりに少女に口づけをする。笑いあう二人。
つかの間の逢瀬を楽しみ、去っていく青年に少女が笑顔で手を振る。花冠を頭に乗せ、名残惜しそうに何度も振り返りながら消えていく青年の先には、領主の大きな館があった。青年が見えなくなった後、山から館を見下ろした少女の表情に笑みはない。祈るように胸の前で手を合わせる少女の目から、大粒の涙がこぼれる。
領主の館の中では、部屋に戻った青年が幸せそうに花冠を眺めていた。天蓋付きのベッド、白いクロスの引かれたテーブル、細かな彫刻が施された箪笥、部屋の高級な調度品とは似合わないそれを慈しんでいた青年は、はたと部屋のドアの方を向いた。割れやすい砂糖菓子のようにそっとテーブルクロスの上に花冠を置いた、と思った瞬間、扉が大きく開け放たれる。
そこに立っていたのは、青年にどことなく顔立ちが似た男だった。目を見開き、青筋を立てて迫ってきた男は、青年がその背に隠すように立った花冠を指差し、大仰な仕草で手を広げる。慌てて手を伸ばした青年より早く男は花冠を床に叩き落とし、曇り一つない革靴で踏みつぶした。ゆっくりと花が散っていく。
そして暗い夜になる。月のない、満天の星空を羊小屋の窓から眺めた少女がため息をつく。その横には丸まって眠る白い犬と、いくつもの枯れた花冠があった。少女が胸を押さえて首を振ると、窓の外で何かが揺れた。思わず身をこわばらせるが、それが馬に乗った青年であることに気づくと、ほっと泣きそうな表情になる。
羊小屋の外に駆け出してきた少女に、青年は馬上から手を差し出した。戸惑ったように羊小屋を振り向いた少女は、再度青年に向き合ったときには覚悟を決めた表情をしていた。大きく頷く少女を引っ張り上げるや否や、青年は全速力で馬を走らせた。背後で小さく明かりが動いている。
湖の岸辺まで来た時には、二人の背後から迫る明かりは更に近づいてきているようだった。不安げな表情をする少女に、青年は岩陰から小舟を引き出して乗り込むよう指示する。馬に手を振り、鏡面のような湖へと漕ぎ出す。
波一つない水面を裂いて進む小舟。やがて新月の暗闇の中、かすかに対岸が見えてくる。少女は後ろを振り返り、明かりが小さくなっていることに安堵した表情を浮かべた。
その瞬間、一陣の風が吹く。
湖面を揺らし、青年の金髪を吹き散らした強風は、少女の栗色の髪の毛を引きちぎらんばかりに引っ張った。小舟の縁に手をかけていた少女の体がバランスを崩す。青年がその腕を掴むが時すでに遅し、小舟は転覆し二人は小さな波紋を立てて湖に落ちてしまう。
湖の中は、インク壺の中のように暗い。上も下も分からない中、青年と少女はしっかりと互いの体を抱き合う。
もう二度と離れないように。お互いを誰にも渡さないように。
暗転。
白い花びらが、ひらり、と闇の上に落ちる。雨のように降った花びらがあたり一面を白く輝かせた瞬間、赤い木靴が花びらを巻き上げて走っていく。舞い上がった二世花の向こうから、花冠を載せ、満面の笑みをたたえた栗毛の少女が現れる。その格好は羊飼いの粗末なものではなく、明るい薔薇色のドレスだ。白いエプロンを翻して振り向いた少女が差し出した手を、ベスト姿の青年が取る。
手を繋ぎ、湖の湖畔を駆け出す二人。
それを見下ろす「熊の牙」山。
上空には、二人を祝福するかのように虹がかかっていた。
痩せた山間の土地にへばりつくように、気持ち程度に生える緑の牧草。それを食む羊たちを、先の曲がった杖を持つ羊飼いの少女と、羊に負けないほどフワフワの毛を持った白い牧羊犬が追う。
ふと立ち止まった犬が、崖下を覗いて吠えた。風に乱された栗色の髪の毛をかき上げながら、少女も切り立った崖の端に立つ。覗き込んだ下には、煌びやかな身なりの青年が倒れていた。崖から落ちたのだろう、元は金髪だったであろう髪が赤く染まっている。彼が乗っていたであろう馬も隣で足を引きずっていた。
青年がその青灰色の目を開けたとき、最初に見えたのは安堵した様子の少女だった。にこりと微笑む表情に自分の体を見回す。やや粗末な素材の布が、足と頭に丁寧に巻かれていた。体を起こすと、どうやら羊小屋の中のようだ。羊の横に繋がれた馬も足に添え木を当てられており、すっかり少女に懐いた様子である。
体を起こした青年は、隣でしゃがみこんでいた少女の手を取り、その甲に口づけた。湖のような深い青色の目と、秋の恵みのような栗色の目が見つめ合い、そして輝きを増す。
場面は変わり、柔らかな青空の下、草原で色とりどりの花がそよいでいる様子になる。たおやかな指がぷつりと桃色の花を摘み取り、小さくかわいらしい鼻に当てて香りを楽しむ。羊飼いの少女だ。
草の上に腰を下ろし、つる草や他の摘み取った花と共に桃色の花を編み始める少女。その周りを嬉しそうに跳ねていた犬が、何かに気づいたように吠えて駆け出す。少女が振り向くと、そこには馬に乗った青年の姿があった。満面の笑みを浮かべて駆け寄る少女の体を、青年はやさしく抱きとめた。編み上げたばかりの花冠を頭に乗せられ、口角を緩めた青年はおかえし、とばかりに少女に口づけをする。笑いあう二人。
つかの間の逢瀬を楽しみ、去っていく青年に少女が笑顔で手を振る。花冠を頭に乗せ、名残惜しそうに何度も振り返りながら消えていく青年の先には、領主の大きな館があった。青年が見えなくなった後、山から館を見下ろした少女の表情に笑みはない。祈るように胸の前で手を合わせる少女の目から、大粒の涙がこぼれる。
領主の館の中では、部屋に戻った青年が幸せそうに花冠を眺めていた。天蓋付きのベッド、白いクロスの引かれたテーブル、細かな彫刻が施された箪笥、部屋の高級な調度品とは似合わないそれを慈しんでいた青年は、はたと部屋のドアの方を向いた。割れやすい砂糖菓子のようにそっとテーブルクロスの上に花冠を置いた、と思った瞬間、扉が大きく開け放たれる。
そこに立っていたのは、青年にどことなく顔立ちが似た男だった。目を見開き、青筋を立てて迫ってきた男は、青年がその背に隠すように立った花冠を指差し、大仰な仕草で手を広げる。慌てて手を伸ばした青年より早く男は花冠を床に叩き落とし、曇り一つない革靴で踏みつぶした。ゆっくりと花が散っていく。
そして暗い夜になる。月のない、満天の星空を羊小屋の窓から眺めた少女がため息をつく。その横には丸まって眠る白い犬と、いくつもの枯れた花冠があった。少女が胸を押さえて首を振ると、窓の外で何かが揺れた。思わず身をこわばらせるが、それが馬に乗った青年であることに気づくと、ほっと泣きそうな表情になる。
羊小屋の外に駆け出してきた少女に、青年は馬上から手を差し出した。戸惑ったように羊小屋を振り向いた少女は、再度青年に向き合ったときには覚悟を決めた表情をしていた。大きく頷く少女を引っ張り上げるや否や、青年は全速力で馬を走らせた。背後で小さく明かりが動いている。
湖の岸辺まで来た時には、二人の背後から迫る明かりは更に近づいてきているようだった。不安げな表情をする少女に、青年は岩陰から小舟を引き出して乗り込むよう指示する。馬に手を振り、鏡面のような湖へと漕ぎ出す。
波一つない水面を裂いて進む小舟。やがて新月の暗闇の中、かすかに対岸が見えてくる。少女は後ろを振り返り、明かりが小さくなっていることに安堵した表情を浮かべた。
その瞬間、一陣の風が吹く。
湖面を揺らし、青年の金髪を吹き散らした強風は、少女の栗色の髪の毛を引きちぎらんばかりに引っ張った。小舟の縁に手をかけていた少女の体がバランスを崩す。青年がその腕を掴むが時すでに遅し、小舟は転覆し二人は小さな波紋を立てて湖に落ちてしまう。
湖の中は、インク壺の中のように暗い。上も下も分からない中、青年と少女はしっかりと互いの体を抱き合う。
もう二度と離れないように。お互いを誰にも渡さないように。
暗転。
白い花びらが、ひらり、と闇の上に落ちる。雨のように降った花びらがあたり一面を白く輝かせた瞬間、赤い木靴が花びらを巻き上げて走っていく。舞い上がった二世花の向こうから、花冠を載せ、満面の笑みをたたえた栗毛の少女が現れる。その格好は羊飼いの粗末なものではなく、明るい薔薇色のドレスだ。白いエプロンを翻して振り向いた少女が差し出した手を、ベスト姿の青年が取る。
手を繋ぎ、湖の湖畔を駆け出す二人。
それを見下ろす「熊の牙」山。
上空には、二人を祝福するかのように虹がかかっていた。
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