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11. 湖面滑り
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「カイ君、たまには勉強はお休みして、外に行ったりしないのかい?」
ヴィクトールがそう聞いたのは、次の店休日、いつものように2人で朝の散歩に出た時のことだった。
「修行に来たからって、ずっと工房に籠もってなくてもいいんだよ?」
「え?」とヴィクトールを見上げるカイは、はじめて散歩に出たときに比べてゆっくりと歩くようになっている。ヴィクトールのペースに合わせてくれているのだろう。
「ヴィクトールさんもずっと工房にいると……思うんですけど」
「……ごめん」
そうか、カイが出かけないのは自分のせいだったか。言われてみれば店休日かどうか関係なくヴィクトールは工房にいることがほとんどだ。1日にあまり多くの作業ができるわけではないので休日も無駄にしたくないとか、できるだけ多くの依頼をこなして稼ぎたいといったヴィクトール側としての理由はあるのだが、カイとしてはそれを差し置いて「自分は休みます」とは言えないだろう。
「僕のことは気にしなくていいから」
「でも……俺、早く……ヴィクトールさんに、頼りにしてもらえるようになりたいんです」
しょぼん、とカイの目線が下がり、焦げ茶の毛の生えるつむじが見えた。
「カイ君はもう立派な戦力になってるよ?」
ヴィクトールは首を傾げた。
もう基本的な帳簿付けなら心配ないとロジウムは言っていたし、人当たりがよくてニコニコしているから接客ならヴィクトールよりも上手い。簡単な幻影描画だってもう任せられる。
「ありがとうございます。それは嬉しいんですけど、そうじゃなくって、早く一人前になりたいっていうか」
「ああ、そうだよね」
数ヶ月前までは幻影角燈を何も知らなかったカイがそう言ってくれるようになったというのが、純粋に嬉しい。覚えもいいし、このまま行くと通常より早く独り立ちできるだろう。
(そうか、いつか独り立ちしちゃうんだ……)
自分の想像に、ひやりとする。カイには早く一人前の魔道具師になって欲しい。だが、そうなったら、カイはきっと次のステージ――もっと良い待遇やスキル向上のために別の工房に行ったり、あるいは自分で店を構えたり――に進んでしまうだろう。工房を継がせないということはそういうことだ。
(この時間は、有限なんだ)
あるいは、ここでの待遇が悪かったりヴィクトールに学ぶべき価値なしと見限られれば、すぐにでも今の関係は解消されてしまう。チリチリとした焦燥感が胸を焼いた。
「カイ君、今日は湖の向こうに行ってみようか」
「えっ……行けるんですか!?」
「うん」
手摺の先に広がる湖を見ながら言うと、カイがぱっと頭を上げた。ドングリのような目が輝いている。
「向こうはラクレル村って言って、精密機械、時計とか望遠鏡とかの生産が盛んなんだ。チーズもおいしいよ」
「へぇ」
湖の向こうに目を凝らすカイ。今日は天気がいいので向こうの村がぼんやりと見えている。
「帰って朝食とって、そうしたら準備しようか」
「はい!」
スキップしながら歩くカイとともに工房に帰り、用意されていた朝食を食べる。いつしかそこには果物の小皿が添えられるようになっていた。
「あれ、今日は作業しないの?」
ローブを羽織ってダイニングに戻ると、釣り竿の手入れをしているロジウムがいた。
「うん。ラクレルまで行こうかと思って」
「カイと? いいわねー」
「うん……」
単なる確認なのだろうが、下心を見透かされているようで気恥ずかしい。
「お待たせしました!」
フサフサと尻尾を振りながら竿を組み立てるロジウムを見ていると、薄手のコートを着たカイが戻ってきた。足元はヴィクトールの言った通り厚手のブーツに履き替えている。
また家を出て、湖畔に向かう。キラキラと青い水面を見ながらカイは不思議そうに首を傾げた。
「そういえばここの湖のこと、みんな『湖』としか言いませんけど、正式名称なんて言うんですか?」
「ふ……『二人の愛の海』」
純粋な疑問に、ヴィクトールはもそもそと答えた。ちなみに通称でもなんでもなくこれが正式名称で、カイは見なかったのだろうが国家地図にもそう書かれているからたちが悪い。なんとロマンチックなのだろうか。皆が『湖』とばかり言うのにはそれなりの理由があるのだ。
ふへっ、とカイの顔が変な形に歪む。
「え、二人って誰と誰ですか?」
「んんと、昔この村を治めていた領主の息子と羊飼いの女の子、なんだけど……」
いつの間にか、普段の散歩では来ないあたりまで来ていた。確かこの辺りに、と見回し、古びた木の看板を指差す。
――昔、この村にエミールという青年と、クリスティーネという少女がいました。エミールは領主の息子で、クリスティーネは羊飼いでしたが、二人は深く愛し合っていました。
「そんな下賤な女なんて認めん!」
しかし、エミールの父は二人の結婚を許しません。
夏の新月の日、二人はこっそり街を出て、駆け落ちすることにしました。湖を超え、隣国へと行くのです。
しかし、湖の真ん中まで来た時、二人を乗せた小舟は強風に煽られて転覆し、二人は溺れてしまいました。
それを見ていた湖の精は哀れに思い、この湖を「二人の愛の海」と名付けました。そして、愛する者たちが二度と離れないよう、エミールとクリスティーネの魂を二世花に生まれ変わらせたのです――
「なるほど、湖だけじゃなく二世花にもそんないわれがあったんですね」
看板をしばし見つめたカイは、髪の毛を引っ張りながら瞬きをした。
「そう、だから『この湖のほとりで愛を誓うと来世まで添い遂げられる』とかで、夏の花盛りの頃にはカップルだらけになるんだよね」
「はぁー。見てみたいですね、二世花」
きょろきょろとあたりを見回すカイ。だがまだ葉が緑色に生えているばかりで、花は影も形もない。
「夏になったら、また来ればいいよ」
二世花が咲きはじめるのは2か月ほど先の話だが、まだカイはここにいてくれるだろうか。そうであってほしいと願いながら自分とカイのブーツの踵に触れ、ヴィクトールは手摺の間から湖面に飛び出した。
「ヴィクトールさんっ……!?」
たゆん、とブーツの底が水を踏む。踊るように湖の上で回り、くるりとヴィクトールは振り向いた。
「おいで、カイ君」
湖上のヴィクトールを見る、唖然とした表情のカイに手を広げる。
「えっ……ちょっ……え!?」
「大丈夫、水上歩行かけたから」
「いやそういうことでは……っ……えええ?」
ヴィクトールと湖、それから自分の足先の間で何度も視線を往復させたあと、ぎゅっとカイは目を閉じた。
「えいっ!」
手摺の間から、思いっきりヴィクトールの胸の中へと飛び降りてくる。
「おっ、と」
腕の間にカイの全体重を受け、ヴィクトールはよろめいた。背後に風を呼び出し、倒れそうになる体を支える。抱き合った二人の体がふわりと浮き、バタバタとコートの裾がはためく。カイの髪の毛が頬をくすぐる中、ヴィクトールはこっそりカイの頭皮を嗅いだ。
「よくできました」
「ひえ……み、水の上に立ってる……!」
恐怖のせいか、かすかに震えている手を取り、ヴィクトールはカイを湖面に立たせた。
「簡単だよ、スケートみたいにすればいいから」
「す、スケートしたことないっす」
目を見開いたまま、カイがへっぴり腰で腕にしがみついてくる。必死になっているのか、その力の強さに庇護欲が刺激される。
(このまま抱いて、向こう岸まで連れていきたい。いや、向こう岸と言わずずっと腕の中に……)
「じゃあ、そのまま僕の腕を掴んでて」
欲望に抗いながらヴィクトールは体をラクレル村の方に向け、少しだけ足を滑らせた。まだ幾分冷たい風を切る音がし、午前中の光を反射した湖面がキラキラと輝く。手を繋いだカイが「ひゃぁ」と悲鳴を上げた。
「大丈夫?」
「っ、は……はい!」
振り向くと、カイの顔は満面の笑みを浮かべていた。遮るもののない湖上の風を受け、短めの髪の毛があっちこっちへと吹き乱されている。カイの大きく開いた口から、大きな笑い声が溢れてくる。おかしくて仕方ないといった様子だ。
「すっ……ごい! 凄いですヴィクトールさん! これ!」
「喜んでもらえてなによりだ!」
湖面よりよほど眩しいその顔を見て、ヴィクトール自身も気づかないうちに笑顔になっていた。繋いだ手の先で哄笑するカイを見ながら脚に魔力を込め、更にスピードを上げる。
もっともっと、この湖が広くて――永遠に向こうにつかなければいいのに、と思いながら。
ヴィクトールがそう聞いたのは、次の店休日、いつものように2人で朝の散歩に出た時のことだった。
「修行に来たからって、ずっと工房に籠もってなくてもいいんだよ?」
「え?」とヴィクトールを見上げるカイは、はじめて散歩に出たときに比べてゆっくりと歩くようになっている。ヴィクトールのペースに合わせてくれているのだろう。
「ヴィクトールさんもずっと工房にいると……思うんですけど」
「……ごめん」
そうか、カイが出かけないのは自分のせいだったか。言われてみれば店休日かどうか関係なくヴィクトールは工房にいることがほとんどだ。1日にあまり多くの作業ができるわけではないので休日も無駄にしたくないとか、できるだけ多くの依頼をこなして稼ぎたいといったヴィクトール側としての理由はあるのだが、カイとしてはそれを差し置いて「自分は休みます」とは言えないだろう。
「僕のことは気にしなくていいから」
「でも……俺、早く……ヴィクトールさんに、頼りにしてもらえるようになりたいんです」
しょぼん、とカイの目線が下がり、焦げ茶の毛の生えるつむじが見えた。
「カイ君はもう立派な戦力になってるよ?」
ヴィクトールは首を傾げた。
もう基本的な帳簿付けなら心配ないとロジウムは言っていたし、人当たりがよくてニコニコしているから接客ならヴィクトールよりも上手い。簡単な幻影描画だってもう任せられる。
「ありがとうございます。それは嬉しいんですけど、そうじゃなくって、早く一人前になりたいっていうか」
「ああ、そうだよね」
数ヶ月前までは幻影角燈を何も知らなかったカイがそう言ってくれるようになったというのが、純粋に嬉しい。覚えもいいし、このまま行くと通常より早く独り立ちできるだろう。
(そうか、いつか独り立ちしちゃうんだ……)
自分の想像に、ひやりとする。カイには早く一人前の魔道具師になって欲しい。だが、そうなったら、カイはきっと次のステージ――もっと良い待遇やスキル向上のために別の工房に行ったり、あるいは自分で店を構えたり――に進んでしまうだろう。工房を継がせないということはそういうことだ。
(この時間は、有限なんだ)
あるいは、ここでの待遇が悪かったりヴィクトールに学ぶべき価値なしと見限られれば、すぐにでも今の関係は解消されてしまう。チリチリとした焦燥感が胸を焼いた。
「カイ君、今日は湖の向こうに行ってみようか」
「えっ……行けるんですか!?」
「うん」
手摺の先に広がる湖を見ながら言うと、カイがぱっと頭を上げた。ドングリのような目が輝いている。
「向こうはラクレル村って言って、精密機械、時計とか望遠鏡とかの生産が盛んなんだ。チーズもおいしいよ」
「へぇ」
湖の向こうに目を凝らすカイ。今日は天気がいいので向こうの村がぼんやりと見えている。
「帰って朝食とって、そうしたら準備しようか」
「はい!」
スキップしながら歩くカイとともに工房に帰り、用意されていた朝食を食べる。いつしかそこには果物の小皿が添えられるようになっていた。
「あれ、今日は作業しないの?」
ローブを羽織ってダイニングに戻ると、釣り竿の手入れをしているロジウムがいた。
「うん。ラクレルまで行こうかと思って」
「カイと? いいわねー」
「うん……」
単なる確認なのだろうが、下心を見透かされているようで気恥ずかしい。
「お待たせしました!」
フサフサと尻尾を振りながら竿を組み立てるロジウムを見ていると、薄手のコートを着たカイが戻ってきた。足元はヴィクトールの言った通り厚手のブーツに履き替えている。
また家を出て、湖畔に向かう。キラキラと青い水面を見ながらカイは不思議そうに首を傾げた。
「そういえばここの湖のこと、みんな『湖』としか言いませんけど、正式名称なんて言うんですか?」
「ふ……『二人の愛の海』」
純粋な疑問に、ヴィクトールはもそもそと答えた。ちなみに通称でもなんでもなくこれが正式名称で、カイは見なかったのだろうが国家地図にもそう書かれているからたちが悪い。なんとロマンチックなのだろうか。皆が『湖』とばかり言うのにはそれなりの理由があるのだ。
ふへっ、とカイの顔が変な形に歪む。
「え、二人って誰と誰ですか?」
「んんと、昔この村を治めていた領主の息子と羊飼いの女の子、なんだけど……」
いつの間にか、普段の散歩では来ないあたりまで来ていた。確かこの辺りに、と見回し、古びた木の看板を指差す。
――昔、この村にエミールという青年と、クリスティーネという少女がいました。エミールは領主の息子で、クリスティーネは羊飼いでしたが、二人は深く愛し合っていました。
「そんな下賤な女なんて認めん!」
しかし、エミールの父は二人の結婚を許しません。
夏の新月の日、二人はこっそり街を出て、駆け落ちすることにしました。湖を超え、隣国へと行くのです。
しかし、湖の真ん中まで来た時、二人を乗せた小舟は強風に煽られて転覆し、二人は溺れてしまいました。
それを見ていた湖の精は哀れに思い、この湖を「二人の愛の海」と名付けました。そして、愛する者たちが二度と離れないよう、エミールとクリスティーネの魂を二世花に生まれ変わらせたのです――
「なるほど、湖だけじゃなく二世花にもそんないわれがあったんですね」
看板をしばし見つめたカイは、髪の毛を引っ張りながら瞬きをした。
「そう、だから『この湖のほとりで愛を誓うと来世まで添い遂げられる』とかで、夏の花盛りの頃にはカップルだらけになるんだよね」
「はぁー。見てみたいですね、二世花」
きょろきょろとあたりを見回すカイ。だがまだ葉が緑色に生えているばかりで、花は影も形もない。
「夏になったら、また来ればいいよ」
二世花が咲きはじめるのは2か月ほど先の話だが、まだカイはここにいてくれるだろうか。そうであってほしいと願いながら自分とカイのブーツの踵に触れ、ヴィクトールは手摺の間から湖面に飛び出した。
「ヴィクトールさんっ……!?」
たゆん、とブーツの底が水を踏む。踊るように湖の上で回り、くるりとヴィクトールは振り向いた。
「おいで、カイ君」
湖上のヴィクトールを見る、唖然とした表情のカイに手を広げる。
「えっ……ちょっ……え!?」
「大丈夫、水上歩行かけたから」
「いやそういうことでは……っ……えええ?」
ヴィクトールと湖、それから自分の足先の間で何度も視線を往復させたあと、ぎゅっとカイは目を閉じた。
「えいっ!」
手摺の間から、思いっきりヴィクトールの胸の中へと飛び降りてくる。
「おっ、と」
腕の間にカイの全体重を受け、ヴィクトールはよろめいた。背後に風を呼び出し、倒れそうになる体を支える。抱き合った二人の体がふわりと浮き、バタバタとコートの裾がはためく。カイの髪の毛が頬をくすぐる中、ヴィクトールはこっそりカイの頭皮を嗅いだ。
「よくできました」
「ひえ……み、水の上に立ってる……!」
恐怖のせいか、かすかに震えている手を取り、ヴィクトールはカイを湖面に立たせた。
「簡単だよ、スケートみたいにすればいいから」
「す、スケートしたことないっす」
目を見開いたまま、カイがへっぴり腰で腕にしがみついてくる。必死になっているのか、その力の強さに庇護欲が刺激される。
(このまま抱いて、向こう岸まで連れていきたい。いや、向こう岸と言わずずっと腕の中に……)
「じゃあ、そのまま僕の腕を掴んでて」
欲望に抗いながらヴィクトールは体をラクレル村の方に向け、少しだけ足を滑らせた。まだ幾分冷たい風を切る音がし、午前中の光を反射した湖面がキラキラと輝く。手を繋いだカイが「ひゃぁ」と悲鳴を上げた。
「大丈夫?」
「っ、は……はい!」
振り向くと、カイの顔は満面の笑みを浮かべていた。遮るもののない湖上の風を受け、短めの髪の毛があっちこっちへと吹き乱されている。カイの大きく開いた口から、大きな笑い声が溢れてくる。おかしくて仕方ないといった様子だ。
「すっ……ごい! 凄いですヴィクトールさん! これ!」
「喜んでもらえてなによりだ!」
湖面よりよほど眩しいその顔を見て、ヴィクトール自身も気づかないうちに笑顔になっていた。繋いだ手の先で哄笑するカイを見ながら脚に魔力を込め、更にスピードを上げる。
もっともっと、この湖が広くて――永遠に向こうにつかなければいいのに、と思いながら。
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