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好きな人は、君です

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 しばらくしてやってきた森に、酸素マスクを外される。手袋をつけた手で克己の胸元をはだける。
 そこにいくつもの――毒によるものではない――痣を見つけた克己は、もう少し目が覚めなくてもよかった、と本気で思った。

「恐らくなんだけど……猫村さんに抗体ができたんじゃないかと思うんだよね」

 一通り克己の体を確認した森は、そう言って聴診器を首にかけた。

「抗体……ですか」
「詳しいことは調べてみないと分からないからあくまで仮説だけど。なにせ前例がないことだし。他の人にも効くのかとか、どれくらいの効果があるのか、とかこれから調べていきたいところだよね」
「はあ……」

 克己がピンとこないまま生返事をすると、「とりあえず、今言えることは二つかな」と森は笑って人差し指を立てた。
「一つ、雛芥子さんの毒は――少なくとも今のところ、猫村さんには効いていない。二つ、猫村さんの体液には、雛芥子さんの毒の効力を弱める効果が認められた」
「えっ、あ、じゃあ……視力が戻ったのも、腕の黒いのが減ったような気がするのも、もしかして……?」
「そう、猫村さんのおかげだよ。猫村さんに毒があんまり効いてなさそうだったから、試しに血液を精製したやつを雛芥子さんに打ってみたんだ」

 試しにって言ったよこの人。

「いやあ、ここまで劇的に回復するとは嬉しい誤算だったね」
「はい。それは……ええ」

 克己が肯定すると、「このままいけば普通の生活ができるかもしれないね」とさらりと森が言った。

「えっ……えっ?」
「現時点ではあくまでも可能性だから、あまり喜ばないで欲しいんだけど。まあ少なくともすぐにどうこうってことはなさそうだし、落ち着けばまた仕事にも復帰できるんじゃないかな」
「普通の、生活って」
「マスクとか、手袋とかつけないで生活するってこと」
「なる、ほど」

 いつもの白手袋をつけた手を見下ろす。克己にはこちらが普通だ。
 戻っていく森を見送ってから、ベッドの横を見る。パイプ椅子に腰かけたコウが克己の方を見ていた。克己と一緒に運び込まれたコウは、先に回復したものの検査のために入院していたらしい。

「……克己さん、どうしたの?」
「いや……なんか、現実感が……」

 もう駄目だと思っていたのに、目が覚めたらすべてが解決していた。それどころか、ずっと憧れていた、毒を気にしなくてもいい暮らしもできるかもしれない、なんて。
 それもこれも、全部コウのおかげで。
 ゲームをクリアしたと思ったらストーリーに続きがあったような、本を読み終わったと思ったらまだそれは第一巻だったことに気づいたような感じだった。
 嬉しい。けれど、どうしたらいいか分からない、というのが本音だった。ここで終わりだと思っていたから、それ以降のことは何も考えていない。

「夢じゃないよ、克己さん」

 ぼうっとしていると、コウが克己の頬を軽くつねった。

「そう、みたいだね」

 頬をつねったままのコウの手を外そうとして、克己は手を引っ込めた。手袋を外し、黒い指先でコウの手を取る。
 温かい感触が、嘘ではないことを保証してくれた。

「ねえ、コウさん」
「なに?」

 甘ったるい声も、蕩けるような視線も、今は嬉しい。

「これからも、その……僕と、一緒にいてくれる?」

 指先を握りしめ、コウの目を覗く。不思議そうな視線が返ってきた。

「当然だろ。つうか俺、さっきそう言わなかったっけ。大体俺がいなかったら克己さん病気悪化するんだろ」
「そ、そうじゃなくて」

 いやそうなんだけど、ともごもごと言い訳をする。それから克己は、自分のできる最大限の感謝の言葉を口にした。

「コウさんのおかげで、もっと生きられるようになったから……だから、その、これからの人生はコウさんのために使いたいなって、思って……」
「え? うーん」

 きょとんとしたコウは、整った顔のまま目を瞬かせた。
 また何かを間違ってしまったのだろうか。心の底に穴が開いたように、一気に克己の体が冷えていく。

「ご、ごめん、重かった……?」
「いや、嬉しいよ。嬉しいし、そういうところも好きなんだけど」

 冷たくなった克己の手が、コウの大きな両手で包まれる。その向こうにある顔は、はじめて見た時よりもさらに格好良く見えた。

「そうじゃなくて。克己さんの人生は、克己さんのために使ってほしい。やりたかったけどできなかったこととか、我慢してきたこととか、一杯あるんだろ?」
「やりたかったこと?」
「そう」

 何だろう。克己が首を傾げると、「例えばさ」とコウの目が一瞬だけ上を向いた。

「……いや、今すぐに考えつかなくてもいいか。今まで我慢してきたこととか、克己さんが夢中になれることとか、ゆっくり探していこうぜ」
「……う、うん」
「まあ目下の目標は退院だけど」

 茶化したように笑うコウの顔を見て、克己の中にすとん、と落ちてくるものがあった。
 ただ一緒にいたいということではなくて。
 幸せになってほしいということでもなくて。
 一緒に幸せになりたい、ということ。
 きっとこれが、そういうことなんだ。

「コウさん、好き」

 心にピタリと嵌った言葉をそのまま伝えると、「いきなり何」と恥ずかしそうにコウは目を泳がせた。

「思ったから言ってみた」
「いや、前から知ってたけど」
「僕は今知ったよ」
「……え? ちょっ……どういうこと?」

 きっとまだ、克己はコウのことも、自分のことも、この世界のことも知らないことだらけだ。
 だが、コウとなら大丈夫――いや、コウと乗り越えていきたい。
 えいっ、と近づけた唇は、コウの鼻のあたりにぶつかった。
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