かつみさんは、ねこがすき

にっきょ

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おうちに、帰ろう

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 克己の怪我は、捻挫と軽い打撲だけで大したことはなかった。問題は毒の方で、診察が終わる頃には克己の視界から明暗がすっかり失われてしまっていただけでなく、毒の蓄積していた手足にもほとんど力が入らなくなっていた。
 森には、入院を勧められた。だが、克己は半ば無理やり自宅に帰る選択をした。入院すると、もう二度と日常に戻ってこれない気がして怖かったのだ。

(……いや)

 仕事をするどころか、もう自分一人で立ち歩くこともままならない。日常の残滓に縋りついている、という方が正しい。

「あ、そこの角で止めてください」
「はい」

 親に帰って来てくれるように頼んでしまったが、やはりワガママだっただろうか。じわりと後悔が寄せてくる中、病院から乗ってきたタクシーが止まり、サイドレバーを引く音がした。運転手とコウがやり取りをしている声を聞いているうちに、ふわりと外気が流れ込んでくる。
 今は何時だろう。と克己は重い手を伸ばした。日差しを感じるからまだ昼間だろうか。

「克己さん、ちょっと待っててね」

 タクシーの支払いを済ませたコウに背負われて、アパートの階段を上る。入った部屋の中で電気のスイッチを押す音が聞こえるが、克己の視界が明るくなることはない。
 そっと降ろされのたはベッドで、「はい」と渡されたふわふわの塊はクロだろう。……いや、ルドの方だろうか。

「……すみません。あの……痒かったり、痛かったり、してませんか」

 ぬいぐるみに顔をつけた克己は、結局会社を休んで病院に付き添ってくれたコウに小さく声を掛けた。

「ん? むしろやっと俺に頼ってくれるようになって嬉しいよ。それに、今日は克己さんに触ってもそんなに痛くないんだよね。蕁麻疹もでないし、慣れてきたのかも」

 そんなに、ということはやはり痛いのだろう。あれだけ酷いことを言ったくせに、結局今日は彼無しで克己は病院に行くことすらできなかった。情けないやら心苦しいやらで、穴があったら入りたいとはこのことだ。
 今の克己では、一人で穴に入る事すらできないのだけど。

「コウさん、ごめんなさい」

 小さく謝ると、「だからいいって」と声が聞こえる。

「違うんだ、えっと……」

 ゆっくりと息を吸う。怖い。認めたくない。だが、今伝えなければ、きっともう機会はないだろう、と決心する。

「この前……酷いこと言って、置き去りにしちゃったこと、謝りたくて」
「あれは俺が悪かったんだし、気にしてないよ。自分の気持ちを伝えることしか考えてなくて、肝心の克己さんのことが置き去りになってた」
「違うんだ、あれは……ただの、八つ当たりなんだ」

 克己が絞り出すようにそう言うと、椅子が引きずられる音がした。続きを促すように、布団の上から背中に手を添えられる。

「本当は……コウさんのことが、羨ましかったんだ」
「えっ、何が?」

 聞こえてきた声は心底不思議そうで、きっとコウは今頃あのまつ毛の長い焦げ茶の目を丸くさせているのだろうと克己は思った。

「……僕さ、生まれた時からこの病気で、長くは生きられないって言われてたから……だから、どうせ何しても無駄だって、悲しい思いするだけだって思って、友達も、夢も、とにかく心残りになりそうな大切なものは、極力作らないようにしてきたんだ」
「うん」

 優しく包み込むようなコウの声に、小さく息を吸う。

「それで……大切なものがないから、今まで何かを本当に頑張ったこととか、本気で取り組んだこともなかったんだ」
「……そっか」
「コウさんは……カフェの経営もだし、俺にただ『好き』って言いたいだけで、職場まで追いかけてくるほど一生懸命になってくれただろ。その姿を見て、自分の生き方って本当にこれでよかったのかな、って思っちゃったんだ」
「いや……ただ馬鹿が馬鹿なことやっただけで、そんなに考える事でもないだろ」

 コウの声の響きからだけでは、彼が何を考えているのか分からなかった。ううん、と克己は首を振り、ぬいぐるみの上に手を置いた。

「僕はそんななりふり構わず何かをしたことがなかったから、コウさんが凄く眩しく見えたんだ。振り返って、自分はそこまで必死になれるものってないなって思って……それってもしかして、すごく空しい生き方をしてきちゃったんじゃないか、って気づいたんだ」

 長く生きられないことが分かっているのなら、その限られた時間をもっと精一杯使うべきではなかったのか。最初からトキシックだから、自分には不要なものだからと決めつけるのではなく、多くのことを経験すべきではなかったのか。

「いまさらそんなことに気づいたって、もう時間も残ってないし、そこまでしてくれたコウさんにだって何も返せない。自分でもどうしたらいいか分からなくなってたんだ」

 そして――その行き場のない気持ちを、消化できないままコウにぶつけてしまったのだ。自分の方はもう手遅れだから、せめて彼の方を傷つけてやろうという卑怯な魂胆で。

「本当に……ごめん……なさい」
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