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楽しいままで、おわれない

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 やがてパフェも食べ終わり、克己とコウは喫茶店を出た。階段を上ると、そこがもう朝待ち合わせ場所に指定したコンコースだ。

(……楽しかった)

 見上げたコウの向こうに見える空は暗く、更に厚い雲にどんよりと覆われていたが、今まで見たどんな空よりもきれいに輝いている。
 白々とした蛍光灯の明かりの下、朝にコウと出会った柱の前で立ち止まった克己は改札口を見た。
 真っ白く無機質な改札の内側は、嫌が応にも明日からの現実を思い起こさせる。時刻表に埋め込まれた時計は、そろそろ契約の時間が終わることを示していた。
 ルドの入った袋を抱えなおした克己は、コウに小さく頭を下げた。

「コウさん、今日はありがとう」
「いや、こっちこそ。今日は楽しかったよ」
「ずっと……誰かと、こうやって出かけてみたかったんだ。今日それが叶って凄く嬉しかったし、その相手がコウさんで……その、本当によかったと思う。素敵なプレゼントまで貰っちゃったし」

 ルドの入った袋を示す。
 本当に――よかった、と思う。
 この人に出会えて。

「……っ、そ、それじゃ」

 こみあげてくる何かを押さえるように、克己は笑顔を作って片手を上げた。ん、と同じようにしたコウに背を向けて歩き出す。

「待って、克己さん!」
「っ!」

 コウの手が克己の手を掴んだ。布越しに感じる熱と、生々しい感触に克己の体が跳ねる。

「あ、あっ……克己さん、次いつ会える?」
「えっ」

 質問の内容と、どこか切羽詰まったようなコウの様子に克己はたじろいだ。

「ほら、今日の予告編でやってたやつも面白そうだったよね。克己さん、また一緒に映画観に行こうよ」
「え、っと」
「いや、次は映画じゃなくてもいいか……水族館とか博物館とかなら克己さんも行きやすそうな気がするけど、どう? 行きたい所とかある?」
「そう……だね」

 曖昧な返事をしながら、克己はコウが握っている自分の手をちらりと見た。手袋の端から、少しだけ黒い部分が覗いている。
 次。次なんて、自分にあるのだろうか。

「あ、デートコースじゃなくても全然いいから! 前みたいに一時間でもいいし! 俺としては短くても予約回数の多い方が、克己さんにいっぱい会えて嬉しいし」
「う、うん」

 熱っぽく見つめてくる焦げ茶の瞳に耐えられず、克己は視線を彷徨わせた。マフラーの隙間から覗く首にどきりとして、更に俯く。

「前にも言ったと思うけど、プライベートで呼んでくれても構わないし」
「いやそれは」

 言ったら駄目だろう。

「……克己さん」

 答えられずにいると、コウの指先が克己の手に絡みついてきた。怖い、けれども嬉しい。感触を確かめるように何回も握り込まれ、克己は全身を硬直させた。心臓が破裂しそうなのに、何が原因なのか分からない。

「ね、顔もう一回見せて」

 伸びてきたコウの指先が、克己のマスクをずらした。

「……可愛いよ、克己さん」

 至近距離に、蕩けそうなほど甘いコウの顔がある。克己はただそれを見つめ返すことしかできない。
 頬に手が当てられる。冬の風に冷えた皮膚には、その感触は痛いほどに熱く感じられた。
 焦げ茶色の目が近づいてくる。克己の顔が映っている。
 克己の唇に、何か柔らかいものが触れた。

「……っ!」

 そこでようやく――克己は、コウを突き飛ばした。
 少しだけ離れたコウの顔が一瞬だけ悲しそうに歪み、それから目が見開かれた。

「ぐ、がっ……!」

 口を押さえた手の間から血が垂れ、白いマフラーに落ちる。克己が後退ると、それに引っ張られるようにコウはタイル張りのコンコースに膝をついた。指先に、顔に、蕁麻疹が広がっていく。
 びしゃ、と零れた血が、タイルの継ぎ目を伝って広がる。その上に突っ伏したコウのマフラーが、みるみる赤色に染まっていく。

「ぁ……」

 靴先まで広がって来ていた血に気づいた克己はもう一歩下がった。脚が震える。

 気づいた時には、克己は知らない街を全力疾走していた。
 怖かった。
 とにかくあの場から逃げ出したかった。
 何も見たくなかった。

「っ、は……はぁっ……」

 すぐに息が切れ、膝に手をつく。駅からそんなに距離はないはずだったが、人のいない方へ走って来てしまったせいで今どこにいるかさっぱり分からない。
 コウにずらされたマスクを戻す。余計に息苦しくなるが、それを安心の方が上回る。

「はーっ……う……」

 少しだけ端が暗い視界の中、えずきそうになりながら不織布の袋を抱きしめてビルの塀に寄りかかる。

(何……してるんだ、僕は)

 逃げていい場面ではなかった。確かに手を伸ばしてきたのはコウからだったけれども。

(駄目って、触らないでってあんなに言ったのに、なんで)

 なんで――キスなんかしてきたんだ。
 なんで――自分は、抗えなかったんだ。

「……っ」

 戻らなきゃ。自分なんかがいて何になる。加害者の癖に何をしているんだ。向こうからやって来たんじゃないか。でも普通なら問題ないことだろ。
 克己じゃなければ。
 普通の人なら。

「ふーっ……」

 大きく息を吸う克已の耳に、近づいてくる救急車の音が聞こえた。
 やっぱり、最初から、こんな我儘なことはするべきじゃなかったんだ。今まで避けてきていたのに、どうして最後に「一度だけなら許されるかも」なんていう勘違いをしてしまったのか。
 ぬいぐるみの入った袋を抱え、よろよろと植え込みの陰にへたり込む。もう歩けなかった。

 強く目を閉じ、これが全て夢だったらいいのに、と詮無いことを願う。
 だがその妄想に浸ることは、唇に残った感触が許してくれなかった。
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