【長編】座敷童子のパティシエールとあやかしの国のチョコレート

坂神美桜

文字の大きさ
上 下
32 / 47

26

しおりを挟む
私の母は幼い。

〝若い〟ではなく〝幼い〟。

もちろん、実年齢の話じゃない。

母は、境界知能、と呼ばれる知能レベルにあるそうだ。
(私はそれを、数週間前に知った。ナースステーションで主治医と看護師さんが私の家庭について話をしているのが、たまたま聞こえてきたのだった)

境界知能って何なのか、ネットで調べてみたら、こんなことが書いてあった。

〝境界知能とは、IQが70~84で、知的障害の診断が出ていない人の通称として使われる言葉〟

〝IQの平均は、85~115。
70未満の場合には知的障害と診断される。
境界知能は、知的障害と診断はされないが、平均的なIQの人よりは勉強やコミュニケーションや社会生活に困難さを感じやすい〟

〝学習や社会生活でつまずきやすく、失敗を重ねて自尊心が低くなることがある。また、感情をうまく表現できないので、ストレスをうまく処理できないことがある〟

〝障害者と診断されないので、本人の抱える生活上の困難さをまわりは気づきづらい〟

境界知能について書かれた記事はたくさん見つかった。世の中には境界知能の人がたくさんいるそうだ。

そして、私の母も境界知能だというーー。

母のIQが正常より低いという事実にショックを感じたが、やっぱり、と思う気持ちもあった。

母は、予想外のことがあるとすぐにパニックになる。
不安なことがあると、感情をコントロールできなくなって、周りの人に八つ当たりする。
風邪を引いて病院にいっても、受付事務員や医者の説明を理解できず、怒って病院スタッフとケンカになり、薬をもらわずに帰ってくる。
事務員のパートをしていたことが何度かあるが、いずれも仕事が覚えられずに数ヶ月でクビになった。
両親(私からいうと祖父母)とはそりがあわず、絶縁している。親しい友人もいない。
父ともよくケンカをしている。
家事はひととおりできるけれど、キャパオーバーになりやすい。一度そうなると、いらだちがおさえられず、かんしゃくを起こした子供みたいになる。
そんなとき、母は私に対して一方的に怒鳴ることもあったし、食事を作ってくれないこともあった。叩かれたことも何度もあった。

ヒドイ母親だと思う。
常識的に言って、母は母親になるべき人じゃなかった。
それだけど、私は母を嫌いになれなかった。
むしろ、私の心の中にはいつも母がいた。
母の機嫌が私の世界の中心で、私は母から嫌われることがどんなことよりも怖かった。 
小さい頃からずっとそうだった。
まるで、母というより妹みたいな人だけど、それでも私には母が必要だった。

私を産んだ人。
たった一人の母。
私の命の源。
その人から愛されなくて、誰から愛されるだろう。
私の頭にはそういう考えが強くあって、心の奥深くまでその考えが根を張っていた。

それから、父のこと。

父もまた、感情のコントロールが難しい人だった。
怒ると怖くかった。
怒った時の父の目は、何をしでかすかわからないような目をしていた。例えていうなら猛った獣みたいな、理性の欠落したような目をしていた。

両親がそんなふうだったから、私の家には何度も児童相談所の職員がやってきた。
そして、私が小学生の時、私の両親は児童虐待の認定を受けた。

虐待と認定されたあと、私は両親から分離され、さくら園という施設で暮らすことになった。

私はその時小さかったので、なぜ自分が施設で暮らすことになったのか理解ができなかった。
自分の両親が虐待の認定を受けていると知ったのは、ずっとあとのことだ。

それを知った時、私は心をえぐられるような気持ちがした。

自分が受けてきたことは、誰がどう見ても虐待だったけれど、私はそれを受け入れたくなかったのだ。

ーー私の両親は、私を愛している。
ーー私の両親は、普通の親だ。
ーーうちは普通の家庭だ。
そう信じたい気持ちが私の中にはあった。
そう信じれるわけがない現実があっても、そう思っていたかった。
だけど、その気持ちは打ち砕かれてしまった。

入所してから二年後ーー、
週末だけ両親のもとで暮らせるようになった。しかし、それから一年後、私はまた両親から暴力を受け、週末の外泊がとりやめになった。

私がさくら園で暮らしていた数年の間に、私の両親にはいろんなことが起こった。
近所の人に警察を呼ばれるくらい派手なケンカをしたり、
離婚したり、
またよりをもどして再婚したり、
二人そろってアルコール依存症になったり、
抑うつ状態になったり、
精神科に通い出したり、
過量服薬して救急車で運ばれたりーー、
数え上げたらきりがないくらい、いろんな珍事が起きていたそうだ。

私はというと、中学生になった頃から不眠や抑うつ症状など、精神症状が現れるようになった。
高校生になると精神症状はさらに悪化した。学校にもほとんど通えなくなった。それに、リストカットを繰り返すようになった。それで、今、こうして精神科病院に入院しているわけだった。

「でも、もう,そんなこと関係ないよ」
とレンは言った。

トンネルの下を、私とレンは歩いていた。
車通りの少ないトンネルだった。
オレンジの明かりがともるドーム型の屋根に、レンの声が反響する。

「思い出したくないことなんて、全部忘れたらいいよ」

レンはそう言って私にキスをした。
いたわるような長いキスだった。
一台の車が、キスをしている私たちの横を通り過ぎた。車の運転手が、私たちを横目で眺めていた。

レンは車がそばを通過しても恥ずかしがらなかった。
離すまいとするように、私を抱き寄せる腕。
私の心から悲しみを遠ざけてくれる唇の感触。

「リコが好きだよ」

レンは欲しい言葉をくれた。
母がくれなかった言葉。
父もくれなかった言葉。
私をすっぽり包んでくれる言葉。
私は、レンになら自分の心を預けられると思った。

私たちは、トンネルを抜け、大通りへ出て、ポケットの中にあった小銭で電車に乗って繁華街に向かった。

繁華街を私たちはぶらぶらと歩いた。
時刻は夕方の六時。
早くも酔っ払っているスーツ姿のおじさんたちが、何人か固まって歩いていた。

繁華街には絵を描いている人や、
歌を歌っている人、
踊りを踊っている人がいた。

会社帰り風の人、学生、何の仕事をしているのかわからないような外観の人もたくさんいた。

いろんな人がそこにいた。
誰も私たちのことに気を止めなかった。
私たちは、ここでなら野良猫のように生きられる気がした。

ポケットの中のわずかなお金でゲームセンターで遊んだ。
クレーンゲームやエアーホッケーをした。
あっという間にポケットは空になった。
楽しかったけど、刹那的な楽しさだった。
私たちはすぐに何もすることがなくなった。

街の上にだんだんと夜が訪れる。

私たちには行くあてがなかった。
病院に帰るとひどく叱られることはわかっていた。
無鉄砲に病院を飛び出したことへの後悔と不安が、暗くなるほど心につのってきて私をそわそわとさせた。

本当に野良猫みたいだった。
私たちは何も持っていなかった。
お金も食事も居場所も。
私たちの前には、先の予定がたっていない時間だけがあった。
それは、ぽっかりと空いた穴に似ていた。
そして、私の心の中にも、ぽっかりと穴が空いていた。きっと、レンの中にもーー。
私たちはそれを埋め合わせたくて、
繁華街の外れにある公園のベンチで、しばらく互いの体を抱き寄せ合っていた。
互いの肌の感触が与えてくれる幸福感だけが、私たちの持っているものだった。
私はレンに触れた。
レンも私に触れた。
そうしないといられなかった。
私たちは空っぽだったから。

夜の公園で触れた異性の体の感触は、
いつも過ごしている場所で触れた感触とは違っていた。
指の一本一本が、レンの感触を覚えようとしていた。

「俺が好き?」
とレンは尋ねた。
レンはよくそう尋ねる。

レンは不安がっているのだ。
今、こんなにそばにいるのにーー、
互いに触れあっているのに、それでも不安なのだ。

私はレンの不安な気持ちがとてもよく分かった。
私も同じようにレンに尋ねてしまうからだ。

私たちは、たぶん、互いの気持ちを確認しあっていないと不安になるのだ。

私たちの心には、愛情や幸福の貯蓄がない。
きっとそれを貯める貯金箱に穴が空いてしまっている。
いつでも、そのときに愛情を与えてもらわないと不安になる。
そして、どんなに幸せな時間も、過ぎてしまえば心に残らない。
心には、ぽっかりと穴。
心を包丁で縦にすっぱり切り開くと、
心は薄皮だけになっていて中はがらんどうだ。
だからこそ、私たちは心の穴をうめるために互いに触れたがった。

刹那的な夜だった。

ここが幸福のはじまりであってほしいと思った。

でも、そう願うこと自体、
内心では不幸の始まりを予感しているということかもしれない。

私たちの幸福はどこにあるんだろう。
私は脱走した病院の夏祭りの景色を思い浮かべる。
提灯の暖色の灯りに照らされた中庭、
並ぶ夜店。
屋台に並ぶ焼きそばやわたあめ、たこ焼きのにおい。
それは、あたたかく幸福そうな光景だった。
ほんの少し、帰りたいような気持ちも感じた。
脱走する前はさほど愛着を感じなかった場所なのに、一度離れてしまうと愛着を感じるのはどういうわけなんだろう。

いつもいたはずの病院が、すごく遠い場所みたいに感じた。

幻みたい。

川の対岸に見える明かりみたい。

見えるけど、渡れない場所にある明かりみたい。

私たちはそこを捨てて、どこに向かおうとしているんだろう。

星が静かにまたたいていた。
私たちの呼吸にあわせるみたいに。

私の腕の中でレンの胸が、
レンの腕の中で私の胸が、
ゆっくりとふくらんだり、しぼんだりした。

星あかりの下では、不完全な私たちも、ちゃんとした生き物みたいに感じられた。
心も体も、どこも欠けたところがない生き物みうに。

レンが私のシャツをはだけて、肩にキスをした。
時が止まればいいのに、と、
私は星がまたたくのを見上げて思った。




続く~






しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

断る――――前にもそう言ったはずだ

鈴宮(すずみや)
恋愛
「寝室を分けませんか?」  結婚して三年。王太子エルネストと妃モニカの間にはまだ子供が居ない。  周囲からは『そろそろ側妃を』という声が上がっているものの、彼はモニカと寝室を分けることを拒んでいる。  けれど、エルネストはいつだって、モニカにだけ冷たかった。  他の人々に向けられる優しい言葉、笑顔が彼女に向けられることない。 (わたくし以外の女性が妃ならば、エルネスト様はもっと幸せだろうに……)  そんな時、侍女のコゼットが『エルネストから想いを寄せられている』ことをモニカに打ち明ける。  ようやく側妃を娶る気になったのか――――エルネストがコゼットと過ごせるよう、私室で休むことにしたモニカ。  そんな彼女の元に、護衛騎士であるヴィクトルがやってきて――――?

【完結】仰る通り、貴方の子ではありません

ユユ
恋愛
辛い悪阻と難産を経て産まれたのは 私に似た待望の男児だった。 なのに認められず、 不貞の濡れ衣を着せられ、 追い出されてしまった。 実家からも勘当され 息子と2人で生きていくことにした。 * 作り話です * 暇つぶしにどうぞ * 4万文字未満 * 完結保証付き * 少し大人表現あり

5年も苦しんだのだから、もうスッキリ幸せになってもいいですよね?

gacchi
恋愛
13歳の学園入学時から5年、第一王子と婚約しているミレーヌは王子妃教育に疲れていた。好きでもない王子のために苦労する意味ってあるんでしょうか。 そんなミレーヌに王子は新しい恋人を連れて 「婚約解消してくれる?優しいミレーヌなら許してくれるよね?」 もう私、こんな婚約者忘れてスッキリ幸せになってもいいですよね? 3/5 1章完結しました。おまけの後、2章になります。 4/4 完結しました。奨励賞受賞ありがとうございました。 1章が書籍になりました。

大正石華恋蕾物語

響 蒼華
キャラ文芸
■一:贄の乙女は愛を知る 旧題:大正石華戀奇譚<一> 桜の章 ――私は待つ、いつか訪れるその時を。 時は大正。処は日の本、華やぐ帝都。 珂祥伯爵家の長女・菫子(とうこ)は家族や使用人から疎まれ屋敷内で孤立し、女学校においても友もなく独り。 それもこれも、菫子を取り巻くある噂のせい。 『不幸の菫子様』と呼ばれるに至った過去の出来事の数々から、菫子は誰かと共に在る事、そして己の将来に対して諦観を以て生きていた。 心許せる者は、自分付の女中と、噂畏れぬただ一人の求婚者。 求婚者との縁組が正式に定まろうとしたその矢先、歯車は回り始める。 命の危機にさらされた菫子を救ったのは、どこか懐かしく美しい灰色の髪のあやかしで――。 そして、菫子を取り巻く運命は動き始める、真実へと至る悲哀の終焉へと。 ■二:あやかしの花嫁は運命の愛に祈る 旧題:大正石華戀奇譚<二> 椿の章 ――あたしは、平穏を愛している 大正の時代、華の帝都はある怪事件に揺れていた。 其の名も「血花事件」。 体中の血を抜き取られ、全身に血の様に紅い花を咲かせた遺体が相次いで見つかり大騒ぎとなっていた。 警察の捜査は後手に回り、人々は怯えながら日々を過ごしていた。 そんな帝都の一角にある見城診療所で働く看護婦の歌那(かな)は、優しい女医と先輩看護婦と、忙しくも充実した日々を送っていた。 目新しい事も、特別な事も必要ない。得る事が出来た穏やかで変わらぬ日常をこそ愛する日々。 けれど、歌那は思わぬ形で「血花事件」に関わる事になってしまう。 運命の夜、出会ったのは紅の髪と琥珀の瞳を持つ美しい青年。 それを契機に、歌那の日常は変わり始める。 美しいあやかし達との出会いを経て、帝都を揺るがす大事件へと繋がる運命の糸車は静かに回り始める――。 ※時代設定的に、現代では女性蔑視や差別など不適切とされる表現等がありますが、差別や偏見を肯定する意図はありません。

私は心を捨てました 〜「お前なんかどうでもいい」と言ったあなた、どうして今更なのですか?〜

月橋りら
恋愛
私に婚約の打診をしてきたのは、ルイス・フォン・ラグリー侯爵子息。 だが、彼には幼い頃から大切に想う少女がいたーー。 「お前なんかどうでもいい」 そうあなたが言ったから。 私は心を捨てたのに。 あなたはいきなり許しを乞うてきた。 そして優しくしてくるようになった。 ーー私が想いを捨てた後で。 どうして今更なのですかーー。 *この小説はカクヨム様、エブリスタ様でも連載しております。

どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~

さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」 あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。 弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。 弟とは凄く仲が良いの! それはそれはものすごく‥‥‥ 「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」 そんな関係のあたしたち。 でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥ 「うそっ! お腹が出て来てる!?」 お姉ちゃんの秘密の悩みです。

旦那様、前世の記憶を取り戻したので離縁させて頂きます

結城芙由奈@コミカライズ発売中
恋愛
【前世の記憶が戻ったので、貴方はもう用済みです】 ある日突然私は前世の記憶を取り戻し、今自分が置かれている結婚生活がとても理不尽な事に気が付いた。こんな夫ならもういらない。前世の知識を活用すれば、この世界でもきっと女1人で生きていけるはず。そして私はクズ夫に離婚届を突きつけた―。

婚約破棄された検品令嬢ですが、冷酷辺境伯の子を身籠りました。 でも本当はお優しい方で毎日幸せです

青空あかな
恋愛
旧題:「荷物検査など誰でもできる」と婚約破棄された検品令嬢ですが、極悪非道な辺境伯の子を身籠りました。でも本当はお優しい方で毎日心が癒されています チェック男爵家長女のキュリティは、貴重な闇魔法の解呪師として王宮で荷物検査の仕事をしていた。 しかし、ある日突然婚約破棄されてしまう。 婚約者である伯爵家嫡男から、キュリティの義妹が好きになったと言われたのだ。 さらには、婚約者の権力によって検査係の仕事まで義妹に奪われる。 失意の中、キュリティは辺境へ向かうと、極悪非道と噂される辺境伯が魔法実験を行っていた。 目立たず通り過ぎようとしたが、魔法事故が起きて辺境伯の子を身ごもってしまう。 二人は形式上の夫婦となるが、辺境伯は存外優しい人でキュリティは温かい日々に心を癒されていく。 一方、義妹は仕事でミスばかり。 闇魔法を解呪することはおろか見破ることさえできない。 挙句の果てには、闇魔法に呪われた荷物を王宮内に入れてしまう――。 ※おかげさまでHOTランキング1位になりました! ありがとうございます! ※ノベマ!様で短編版を掲載中でございます。

処理中です...