Blackheart

高塚イツキ

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愚者の構え

第4話

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 南門を抜けるなり喇叭が鳴り響いた。ベアはフードを下ろした。
 広場は無人だった。すべてが白い。取引所らしき巨大な建物、記念碑らしき尖塔、まっすぐ伸びる目抜き通り、両の脇に居並ぶ高い建物。なにもかもを白の布で覆っている。太鼓と笛の音が喇叭とともに楽を奏でる。楽隊の姿は見当たらない。
 愛馬が布を踏む。旗持ちのクロードがさりげない様子で見まわす。警戒している。旅の者が声を上げた。先を指さす。目抜き通りの建物の屋根に白い天使が舞い降りた。通りの奥に向かってずらりと立ち並ぶ。楽器を手にぎこちなく動く。あれを天界から連れてくるのに二日かかったというわけだ。手形の割合で大天使と揉めたにちがいない。
 天使の頭が一つ、通りに転げ落ちた。カイが指さして笑った。だいぶ緊張している。天使は首なしのまま横笛を吹いている。
 通りに入る。楽の音がさらに高まる。ベアは目を凝らして通りの先を見た。建物と同じ高さの白い壁が行く手をふさいでいる。壁の上には天使が四人、剣を掲げて立ち並んでいる。
 天使が舞い降りる。翼を打ちながら壁に剣を振り下ろした。縦に切り裂いていく。地に下り立つ。かちりと形を保っていた白が突然短冊状にたなびいた。天使は風に乗って舞い上がる。寄り添いながら天に昇っていく。旅の者が薄気味悪そうな声を上げた。ベアも同感だった。
 怒号のような歓声が沸き起こった。短冊に切れた布の向こうから民がなだれ込んできた。どれも赤を着ている。建物の屋根から真っ赤な花びらが噴き出した。血のように白に降り注ぐ。天使が舞う。楽隊が奏でる。めまいがする。
 民は見る間に通りを埋め尽くした。隊を取り囲む。無数の顔が見上げる。聖女様万歳。ベアは乙女の顔で目を丸くしてみせた。吐き気もする。
 馬に乗った男が三人、壁の奥から姿を見せた。今度は黒を纏っている。馬まで黒く着飾っている。それぞれの色には意味があるのだろう。
 民を押し分けながらゆっくりと近づいてくる。血の花びらが舞う。ゆっくり、ゆっくり。ベアはじりじりしながら待った。できるだけ超然としたたたずまいを保つ。遠目でもよく見えるように化粧を濃くしてきた。
 馬が旗持ちの手前で立ち止まる。真ん中の男が呼ばわった。
「あなた様は何者か。いかな用で王の都ヌーヴィルに来られた」
「わたしはフラニアのベアトリーチェと申す者。この身がどちらにあろうと、すべては主の御心のままにございます」
「失礼つかまつりました。王は聖ピラヌスの聖堂でお待ちでございます。ときにわたしは」
 自己紹介がはじまる。名に家に肩書き。自分がいかに栄誉ある先導役にふさわしいか。成り上がりの商人らしい。王が一番手に選んだとなれば家の評判はいや増す。ヌーヴィルの年代記にも名が載る。爵位を得れば宮廷に出入りできる。どれだけの銀貨が乱れ飛んだことやら。
 ベアは気を引き締めた。劇はすでにはじまっている。命をかけた宮廷劇が。
 ようやく話し終えた。男は馬上で銀貨を投げはじめた。民が沸く。競って手を伸ばす。二人目が紹介をはじめた。ベアを含めてだれも聞いていない。尻が痛くなってきた。
 旅の者が民にささやく。
「嘘じゃない。おれも十七じゃないとは思うよ。でもほんとに熱病を癒やしたんだ。本物の聖女様だよ」
 壁の奥からまた三人出てきた。ベアは思わず天を仰いだ。はやく終われ。

 七人の自己紹介が終わった。先導役に付いてゆっくりと目抜き通りを進む。どこまで行っても白一色。建物を過ぎるたびに赤の花びらが噴き出す。民が口々に呼ばわる。あれを癒やせ、これを癒やせ。先には青い尖塔と鐘塔がそびえ立っている。
 聖堂前の広場に入った。閑散としている。よけいに広大に見える。兵士が密集して民を通りに押し返す。ほかの通りもふさいでいる。ぜんぶで五つ。民が何人か広場にあふれ出た。兵士が追いかける。民は奇声を上げて逃げる。カイがけたけたと笑っている。ベアは小声で注意した。劇の重圧で少しおかしくなっている。
 聖堂に向かう。付き従うは汚らしい冒険者三十。西の玄関に男が三人待ち受けている。真ん中の男は緋色の外衣を纏っている。ベアはクロードに話しかけた。旗を掲げたまま脇に退いた。
 手綱を絞る。手を上げる。隊が止まる。いつの間にか静まり返っていた。吐き気を催すほどの静寂。
 ベアはカイに手を差し出した。カイは優しく手を取った。手袋の指を一本一本、丁寧に抜いていく。手が汗ばんでいる。口の中はからからに乾いている。
 右の鐙を外して慎み深く足を上げる。カイが足台替わりに手を組んでいる。足を乗せる。カイの肩をつかんで降りる。布靴が石畳を踏む。あまりに頼りない。鎖帷子はもちろん短剣すら提げていない。
 ケッサが大口を開けて待っていた。指を突っ込んで虫歯に触れる。民がわめきながら逃げている。カイはうつむいて笑いをこらえている。進み出ながらこっそり尻をつねった。
 ひとり歩み寄る。邂逅の時が近づく。王はじっと聖女を見据えている。年は二十二。溌剌とした丸顔に似合わない口髭を生やしている。外衣から金色の笏がのぞいている。お付きの一人は義弟イーフ。もう一人は王弟ジョイス。同じ黒髪を長く伸ばしている。騎士然としている。
 後ろでガモが言った。
「おれらはいなくてもいいんだろ? 風呂に入りてえ」
 王は三段ある石段をゆっくりと下りた。口の端を片方持ち上げている。意味ありげな笑みをよこす。
 外衣の前から両手を出した。大きく広げて甲高く呼ばわった。
「フラニアの聖女殿、奇跡の乙女よ。よくぞ無事にまいられた。さあ、もっと近くに。王は神に向かうがごとく、あなたの足元にひざまずき、こうべを垂れましょうぞ」
 突然民が広場にあふれ出た。どの通りからも。怒号のような歓声。兵士が止めにかかる。ベアは歩きつづける。すべては王の台本どおり。
 民が押し寄せる。兵士がこらえきれずに退く。だがもみくちゃになりはしない。王の威厳が民の足を止める。声を奪う。王とベアのあいだに道をかたちづくる。
 王は外衣を翻した。ゆっくりと膝を折る。水を打ったように静まり返る。祈りのようにひざまずいた。こうべを垂れる。民がどよめいた。イーフとジョイスも王にならう。
 ベアは王の御前に立った。まるで叙任式だ。うろたえながら言う。できるだけ愛らしい声で。
「並ぶ者なき国王陛下。どうかわたしの前に膝をつかれないでください。わたしは卑しい田舎の娘でございます。穢れた肉を持つ人の子でございます」
 王は面を上げた。感極まったように頭を振った。ぐいと立ち上がる。
「聖女殿。わたしは長くヌーヴィルに留まり、都の隅々まで見てまわった。癒やしを必要とする民が多くいた。だが病に苦しむ者を前に、この王の手がなんの役に立った! 奇跡が起きるのならば、わたしは何度でもあなたにこうべを垂れるぞ!」
 歓声。ベアは王の手を取った。膝を折り曲げて接吻する。抱擁。頬を離す瞬間、獅子の目でにらみつけてきた。
 群衆に混じったさくらが声を上げる。頭痛を治してくれ。歯痛を治してくれ。ベアはできるだけ可憐に振り返った。王が手を差し伸べて促す。しずしずと引き返す。
 兵士のあいだから少年が飛び出してきた。父親らしき男が行けと手を振る。ベアは歩み寄る。目が白く濁っている。騒ぎが静まる。すべての目がこちらに向いている。
 少年の前に膝をついた。ケッサのよだれをまぶたに塗り込む。右目、左目。
「盲た子よ。あなたはかつて見えた。ここで再び父の顔を見る」
 一瞬居場所がわからなくなる。若き王と演技をしていた。少年の目を癒やそうとした。
 少年は顔を上げた。ベアを見る。振り返って父親を見る。向き直った。ぽかんとしている。父親が飛び出す。息子を抱き締めて泣く。怒号のような歓声。民が押し寄せる。兵士が止める。癒やしてくれ。腹が痛い。胸が痛い。
 男がふらふらとやってきた。手首から下がない。ベアは近づいて男の手を取った。切り株のような痕に触れる。左手で。
 治らない。男は戸惑っている。
「そりゃ、手が生えてくるわきゃねえよな。それとも時間がかかんのか?」
 ベアは天を仰いだ。
「ああ、癒やしの力を失ってしまった! 主の御姿が遠のいていく」
 がっくりと膝をついた。天を見上げて手を合わせる。涙は出てこない。当然だが。
 王が駆け寄ってきた。かたわらにひざまずく。
「どうされました、聖女殿」
「わたしのせいなのです。〈黒き心〉はかつて神が王の地に授けし奇跡の源でございました。いまは彼方、東方の地に囚われております。わたしは幼きころより声を聞いておりました。わが剣を開放せよ、と。神はついにわたしを見放されたのです。心弱く、恐ろしさに足がすくみ、安全なわが家にお連れする義務を怠ったから」
「なぜわたしに頼まれないのか。神の剣を取り戻すためならば、わたしはすべての財を投げ打ちましょうぞ。〈黒き心〉は民と王国に平和と繁栄をもたらすでしょう。わたしは千の騎士をあなたにお渡しする。神の剣を奪還するのだ」
 歓声。ベアは目の端で恋人の足を捉えた。カイが近づいてくる。緊張している。かなり。
 王は立ち上がってさりげなく退いた。カイはベアの前に膝をついた。さすがにもう笑ってはいない。真顔で口をひらく。
「遠征など、おやめください。東方には、帝国の強力な、軍がいます。愛する人、あなたもぼくも、死んでしまいますよ」
「死がいかほどのものでしょう。死してなお、子は父のお膝元に寄ることができる」
「同じではありません。あなたが死んだらぼくの愛は消えてしまう。どうかぼくを受け入れてください。本当に愛しているのです。あなたの唇に触れ、体を抱き、胸を」
 カイは言葉を切った。台詞を忘れたようだ。手を持ち上げる。頬に添える。
 来い。
 見つめ合う。カイは首をかしげた。唇の先に触れた。触れただけだ。またじらす。
 しなをつくる。抱き締めろ。手がうなじに触れた。もう片方の手が背にまわる。じれったいほどのろのろと抱き寄せる。ベアは唇をひらいて招き入れた。カイは応えた。舌が愛撫し合う。胸が合う。固く抱く。本物の恍惚。
 ベアはできるだけ弱々しく引き剥がした。はかなげに顔を背ける。
「あなたの愛を受け入れることはできません。わたしは東に旅立ちます」
「ぼくに死ねとおっしゃるのですね。お供をすれば肉が死ぬ。帰りを待てば心が死ぬ」
「ではあなたの心をお返しいたします。さようなら、愛しいお方」
 ベアは涙を拭うふりをして立ち上がった。冒険者たちに歩み寄る。
「勇敢な戦士。神の戦士。再びわたしと旅立ってくださいますか。神の名のもと、異国の地で戦っていただけますか」
 冒険者たちが鬨の声を上げた。計ったように聖堂の鐘が鳴りはじめた。軽やかな音色が歓声に連なる。千の騎士はどこにいる。そろいもそろって居酒屋でくだを巻いているのか。招集していれば無数の天幕が門前の荒れ地を埋め尽くしていたはずだ。
 ベアは群衆に向けて呼ばわった。
「みなさんもともにまいりましょう。かつてわれらとともにあった〈黒き心〉を、いま一度取り戻すために」
 怒号。なにも聞こえなくなる。ベアは王を見た。天を仰いで涙をこらえている。
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