ペトリコールと怪女たち

カシノ

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頬欠け女

011

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「ふふ、それは災難だったわね」
「笑い事じゃないですよ」
 三階奥の資料室。生徒どころか教師陣すら近寄らない、その割には整然としたこの部屋で、僕の一日の様子を聞いた濃墨先輩はくすくすと上品に微笑んだ。
 結局、青褐先生に言われるがまま職員室を訪ねた僕は、時限の合間の準備時間すべてにおいて面談を行われることとなった。落ち込んだ後ろ姿が余程哀れに映ったのか危惧していた野次はなかったが、それでも授業が終わる度呼び出される精神的な辛さは体を重くするには充分である。
 何がそんなに気になるのか、青褐先生は僕の代わり映えしない近況を事細かく聞き質し、午後は好みの味付けや、気になる生徒はいないのか、など勉強にはまるで関係のない質問の回答を強要された。暇潰しに呼びつけられたと思えてならない。
「包介ちゃんは面白い人に囲まれているのね」
 僕はちっとも面白くないので、やけくそ気味に紅茶を呷る。
 美味い。水筒に入れたお湯と持ち込んだティーバッグでこの味が出せる中学生は濃墨先輩だけだと思う。
「今日はダージリンを淹れてみたの。お味はどう?」
「さっぱりしているというか、喉越しが良いというか。とにかく、すごく飲みやすいです」
「ふふふ。気に入ってもらえて良かったわ」
 校内で嗜む紅茶は晴々とした青空や校庭に響く掛け声が相まって、どこか特別なものに感じる。胃の底に沈んだ疲れを攪拌し体外に散らすような温かさをたっぷり時間をかけて楽しみたい。
 だが、そう悠長に構えてもいられない。隣の彼女がそろそろ我慢の限界を迎える。
「それで、用件というのは?」
「あら、せっかちさんね。私とお話しするのは嫌?」
「いえ、そんなことないですよ。……僕は」
 目だけ動かして椅子に腰掛けた赤錆さんを見る。頭の後ろで両手を組み、足を投げ出した彼女は振り子のように一定の間隔で椅子を揺らしている。
「あたしは嫌い。いちいち鼻につくから」
「あらそう。私も貴女の勝手に話に割り込んでくる不躾なところ、凄く嫌い」
「へえ。お互い嫌い同士なんて、意外と気が合いそう」
「ふふふ。本当ね」
「……僕はもう止めませんからね」
 これ以上は身が保たない。僕はもう疲れた。
 意図的に目を背けてカップを傾けると、二人は睨み合いながらも座り直し腰を落ち着けた。
「こほん。話が逸れたわね。今日包介ちゃんを呼んだのは……言ってしまえば、お誘いね」
「誘いですか?」
「そう。見学旅行に行く前、お土産を買うと約束していたでしょう? 私、張り切り過ぎて大きなものを買ってしまったから校内に持ち込めなかったの」
「そんなに大きいんですか?」
「ええ。このくらいのアップルパイ」
 濃墨先輩が身振りで示したアップルパイはホールケーキくらいの大きさで、たしかに学校に持ち込むには目立ちそうだった。
 しかし、魅力的な大きさでもある。濃墨先輩が選んだのなら味に間違いはない。聞き耳を立てている赤錆さんも心なしかそわそわし始めた。
「それで、折角だから家に遊びに来ないかしら? 白練しらねりさんに迎えにくるよう頼んであるから時間はかからないわ」
 是非ともお呼ばれしたい。だが、僕には行けない理由がある。
「包介、覚えてるわよね?」
「……うん」
 桑染さんと色々あったあの日、僕は赤錆さんの家を訪ねる約束を交わしていて今日がその当日だった。僕としてはお世話になっている先輩の誘いを優先したいが、赤錆さんを邪険にしては間違いなく面倒なことになる。
 浮かない僕の表情を読み取ってか濃墨先輩が小首を傾げた。
「もしかして都合が悪い?」
「すみません。実は先約がありまして」
「それは、そこの生意気な子との約束なのかしら」
 僕が頷くと、赤錆さんは満足げに鼻息を吹き出して再び椅子を揺らし始めた。濃墨先輩には申し訳ないが、今日は断るしかない。
「そういうこと。包介はあんたよりあたしの方が大事だからしょうがないわね。それじゃ、さっさと帰ろ」
「待ちなさい」
「は?」
「その約束はいつ交わされたものなのかしら」
「それに何の意味があんのよ」
「いいから答えなさい」
 硬質な声色に背筋が伸びる。濃墨先輩の質問の意図は分からないが、神妙な面持ちは答えなければならないと思わせる迫力がある。
 人の頼みはただでは聞かないことが信条の赤錆さんも気圧されたらしく、悔しそうに舌打ちした後、渋々といった様子で口を開いた。
「先週の金曜日。これで満足?」
「ええ。ということは、やはり包介ちゃんは私の家に来るべきね」
「は?!」
 どういうことだろう。真意が気になるところだが争いには巻き込まれたくない。カップを傾けて目線を隠し、紅茶に夢中な振りをする。
「私が包介ちゃんと約束したのは三週間前、見学旅行の内容について説明があった日だもの。先約という意味では私が優先されて然るべきでしょう?」
「ばっ、ふざけたこと抜かしてんじゃないわよ!」
「何もふざけてないわ。そうよね、包介ちゃん?」
「え?」
 突然話が回ってきた。油断していたから思考が遅れる。そもそも僕はこの論争の当事者なのだから油断すべきではないのだが、疲労のせいだろうか目の前の争いを他人事のように捉えていた。今更になって状況を整理し直す僕に濃墨先輩は呆れて溜め息を吐く。
「もう、仕方がないわね。見学旅行の話をした時、たしかに約束したでしょう?」
「ええっと……ごめんなさい」
「ほら、お土産を買ってくると伝えていたじゃない」
「はい。それは確かに聞きましたけど」
「ご馳走するから時間を空けておいてとお願いしていたわよね?」
「ええ。……えっ、もしかしてそれが約束ってことですか」
「そうよ。これでどちらの約束が優先されるべきか証明できたわね」
 たしかに話は出ていたが、学校で済む話だと思っていた。お宅にお邪魔するとなると日時は事前に打ち合わせておくものという認識がある。濃墨先輩も最初から家に呼ぶつもりだったわけではないだろう。急な予定変更まで約束の範疇とするのは些か無理があるのではないか。
 それに、相手はあの赤錆さんだ。反則気味の理屈が押し通るほど穏やかな人ではない。
「そんな道理が通ると思ってんの?」
「あら、貴女に反論の材料はあるのかしら?」
「当たり前でしょ! 大体、包介は償いのつもりで約束したんだから」
「償い、ね。経緯を聞いてもいいかしら?」
「だから、包介があたしの靴を汚したから、その埋め合わせで」
「え? それは違うよ」
 僕が赤錆さんの家を訪ねることになったのは彼女を宥めるためだ。靴を汚してしまったのも事実だが、罰は怪談ですでに清算している。約束と贖罪は別の話だ。
 赤錆さんは僕の介入に気を悪くしたようでぶすくれているが、公平を期すために事実はきちんと伝えなければならない。閉口してそっぽを向く彼女に代わり金曜の出来事を掻い摘んで説明すると、濃墨先輩は合点がいったようで深く頷いた。
「つまり、包介ちゃんはこの子の我儘で急遽、予定が入ってしまったのね」
「まあ、そういう風にも考えられますね」
「だとしたら、どちらを優先すべきかしら。同意の上で結ばれた私の約束と、一方的に押しつけられたこの子の約束。考えるまでもないでしょう?」
 赤錆さんは何も言わない。苦しそうな顔で俯くだけだ。
 もしかして、濃墨先輩はこうなることを分かって約束を結んだ時期なんて話題を持ち出したのだろうか。赤錆さんの性格から約束は強引に取り付けられたものと予測し、失言を狙って敢えて怒らせるような理屈を吹っかけたのだ。
 赤錆さんに非を認めさせるために。
 赤錆さんは自分勝手に見えて変に律儀なところがある。彼女の中では、日にちは決まっていないまでも前々から話はあった約束と、我儘が元の約束とでは、前者の方を優先させるべきと判断するはずだ。頑固な彼女は自分自身が納得できる持論を展開しない限り、反論しないだろう。
 僕は中立の立場にあるし、これ以上の争議がないのなら濃墨先輩の意見に従うしかない。
「……やだ」
 辛うじて聞き取れる掠れた声と共に腕が引かれる。
 赤錆さんが僕の小指を弱々しく握っていた。俯く彼女の表情はよく見えないが、か細い願いは押し殺そうとして、それでも溢れてしまった助けを呼ぶ声に聞こえた。
 意地っ張りだけれど誠実な赤錆さんの精一杯の意思表示。
 自らの正しさを疑わない濃墨先輩の言外の威圧が込められた嫋やかな笑み。
 僕はどちらも選べない。
「じゃ、じゃんけん」
「……どういう意味かしら」
「きょ、今日はじゃんけんで勝った方のお宅にお邪魔するというのはどうでしょう」
 濃墨先輩の大きく深い嘆息は僕を意気地なしと責め立てるようで、薄く開いた目蓋の下にある瞳は鳥肌が立つほど冷たかった。



「じゃんけんでは味気ないから、トランプで決めましょう」
 濃墨先輩の提案を受けた僕達は話し合いの末、大富豪で決着をつけることにした。
 大富豪はシンプルでありながら奥が深い国民的トランプゲームだ。各々に配られた手札を早くになくすのが勝利条件で、親から順に手札を捨てていくわけだが、当然捨て方にはルールがある。
 数字が上がるにつれ強さが上がり、3が弱く2が強い。手札を捨てるには場に出ているカードより強いカードである必要がある。ただし、いくつかの数字には役があるので配られた手札が強ければ必ず勝てるというものでもない。
 親になるタイミングも重要だ。最後に場にカードを出した人が次の親となるのだが、親はその巡の最初のカードを出す権利を得られるので、ここぞとばかりに弱いカードを捨てたり、同じ数字のカードを複数枚出して重ね数字を強制するなど、流れを支配することができる。
 地域毎にルールがあるのも、このゲームの面白いところだ。しかし、今回は分かりやすさを重要視して、同じ数字を同時に四枚出すことでカードの強さが反転する革命、その巡限定で革命を起こすイレブンバック、強制的に場を流し親になれる8切りの三つだけとした。最初の親についてはハートの3を持っている人に設定している。
 濃墨先輩が勝てば濃墨先輩の家にお呼ばれ、赤錆が勝てば赤錆さんの家で夕食をご馳走になる。僕が勝てば今日の予定自体が延期になる。
 朝からトラブルの連続で身体は正直限界だ。この勝負に一番意気込んでいるのは、実は僕なのかもしれない。
「ハートの3は誰?」
「あたし」
 赤錆さんはすっかり調子を取り戻し、意気揚々とゲームに乗り出している。
 大富豪は戦略が重要だが運の要素も強い。配られた手札によっては濃墨先輩を出し抜くことも可能なので、論争よりは勝算がある。
 何より平和的だ。机を囲み、談笑しながらトランプゲームに興じる。この光景こそ、学生のあるべき放課後の姿なのではないか。
「イレブンバックよ」
「ざぁんねぇーん。8切りですぅ」
「……もう少し静かに遊べないものかしら」
「ゲームなんだから楽しくやるべきでしょ。ねー、包介」
 少々元気過ぎるような気がしないでもないが、落ち込んだままでいられるよりはずっとマシだ。若干の不和には目を瞑ることを決め、黙々と手札を減らす。
 三巡、四巡と理想通りの展開が続く。濃墨先輩の手札が揃っていないからだろう。形のいい眉はひそめられ、難しい顔をしている。
 先輩はおそらく、重ね数字を持っていない。赤錆さんもそれに勘付いたらしく、多少の無理をしてでも親になり複数枚で出すよう意識しているようだ。
 最も恩恵を受けている僕に気づかずに。
 おかげで随分手札を減らせた。絵札はすでに場に出尽くし、残った強いカードはエースと2。うち三枚は僕の手元にある。
 大富豪は一番を目指すゲームではない。都落ちという一抜けした人は勝ち続けなければならない特殊なルールが存在するため、常ならば調整し平民で落ち着くところだが、今回の勝負に関しては状況が異なる。
 待ったなしの一発勝負。単純に勝ちを目指せばいいのだから、ここから先は出し惜しみせず勝負ができる。
「あれぇ、せんぱい。手札が減ってないですよぉ?」
「……馬鹿な子」
「負け惜しみにしか聞こえませんけどぉ」
「包介ちゃんの手札をよく見なさい。そろそろ仕掛けてくるわよ」
「は? ……あっ、ちょっと、いつの間にそんな減らしてんのよ!」
 もう遅い。勝ち筋はすでに見えている。
 赤錆さんの制止も濃墨先輩の恨めしそうな視線も丸切り無視して手札を切る。二人がどう動こうが僕の勝ちは揺るぎない。後は定石通りに減らせば終わる、結果の決まった試合だ。
 誘ってくれた二人には悪いが、今日は偶々上手くいかない日なのだと納得してほしい。僕も疲れているのだ。この敗北を機にもう少し仲を深めてくれれば上々である。そうしてとうとう、手札が残り四枚となったその時。
「一年三組、黒橡包介さん。一年三組、黒橡包介さん。至急、職員室に来てください」
 呼び出しの校内放送がかかった。何故、このタイミングで。しかも、アナウンスを読み上げたのは青褐先生だ。今日一日、あれだけ僕を拘束しておいてまだ話さなければならないことがあるのか。
 少しくらい遅れても構わないだろう。気を取り直して机に向き直る。
 ゲームはもう終盤だ。勝敗を決してから向かったとしても遅くない。苦し紛れにジョーカーを切り、親になった赤錆さんの次の手を待つ。
 しかし、赤錆さんは動かない。役のあるカードはほとんどが場に捨てられ、大して悩むような場面でもない。そのはずなのに、変に勿体ぶっている。
「ねえ、包介。行かなくていいの?」
「これが終わったらすぐ行くよ」
「あら、それは感心しないわね。きっと緊急の用事でしょう? 早く向かった方がいいわ」
 何か変だ。まさかとは思うが、ひょっとして。
 二人はそっと目配せして、僕の顔をちらりと窺ったかと思えば意図的に視線を逸らす。赤錆さんはわざとらしく悩んでみせて、濃墨先輩が緩んだ口元を片手で隠した。
 思惑が漂うもやもやした雰囲気に予感が現実になったことを確信する。
 二人はこのゲームをなかったことにするつもりだ。
 信じられない。僕が一抜けしそうだからといって、あからさまな遅延行為を敢行するなんて。
「一年三組、黒橡包介さん。一年三組、黒橡包介さん。至急、職員室に来てください」
 一言一句同じ内容の呼び出しが繰り返される。抑揚のない機械的な声音は遅れる僕を責めているようで、嫌な汗が沸々と浮かんでは体温を奪っていく。
「包介、早くしないと怒られるんじゃない?」
「そうね。急がないと大変なことになるかもしれないわ」
 二人は途端に活き活きとした口調で話しかけてくる。仲良くなって欲しいとは思っていたが、こういうことではない。
 しかし、不満を漏らしている時間もない。幾ら待ったところで赤錆さんはゲームを進めないだろう。その間に青褐先生は苛立ちを募らせ、濃墨先輩の言うように大変な事態に陥ってしまう。
 決断するしかない。
 勢いよく立ち上がり、手札を机に伏せる。
「行ってきます。でも、勝負を降りたわけじゃないですから。すぐに話をつけて、すぐに戻ってきます。絶対、僕の番を飛ばしたりしないでくださいね。いいですか、絶対ですよ」
「はいはい。分かったから早く行けば」
 強く念押ししたが、赤錆さんの面倒臭そうな対応を見るに伝わっているかは怪しい。けれど、確約を得るための時間は与えられておらず、僕は仕方なしに資料室を飛び出した。



 談笑の声もなく、キーボードを叩く乾いた音が響く。学び舎において子供の気配がない職員室独特の空気は緊張と不安を煽る。用事があっても足を踏み入れたい場所ではない。
「随分遅かったようですが」
 大仰な動きで足を組み変えた青褐先生は無関心な顔を装っているが、口調は分かりやすく僕を非難していた。香るコーヒーの匂いが教師と生徒の立場を明確にする。
「……知人とのトランプに夢中になってまして」
「知人とは誰ですか」
「同じ部活の人です」
「部活? 黒橡さんが?」
 悪意のない驚きがかえって貶められているように感じる。だが、よく考えてみると入部届けを提出した覚えはなく、実質的な部員として扱われているだけだった。青褐先生が知らないのも当然だ。
「ええっと、オカルト倶楽部っていう、簡単に言えば都市伝説について考察する部活です」
「オカルト? そのような活動は聞いたことがありません」
 そういえば、濃墨先輩は正式な認可は得ていないと話していた。そもそも、部活動として成り立たせるには四人以上の部員が必要なはずだ。この中学校は校外活動に消極的な生徒が多い影響か先生方の熱意も薄く、人の足りない部活動に関しては即廃部という考慮も何もないあっさりした対応を取っている。そういう危うい立場にある僕達が部活動を名乗り、勝手に資料室を占拠しているのは問題なのではないか。
 もしかして、話してはいけないことだったのかもしれない。冷や汗がこめかみを伝い、熱を失った指先に痺れるような感覚が走る。思案顔の青褐先生がゆっくりカップに口をつけた。
「オカルト倶楽部、ですか。誰が所属しているのですか?」
「三年の濃墨先輩と一年の赤錆さん、後はええっと、いるような、いないような」
「はっきりしてください」
「僕は知りませんが多分いると思います」
 苦しい言い逃れだ。濃墨先輩に迷惑をかけたくはないが、青褐先生に誤魔化しは効かない。これ以上ぼろを出さないためにも、大きめの咳払いで話題の転換を図る。
「それより、僕はどういう用件で呼ばれたんでしょうか」
「先生の話はまだ終わっていません」
「ええ……」
「仮にオカルト倶楽部などという部活動があったとしても、複数の女性と親しくするのはよろしくないかと思います。赤錆さんと濃墨さん、ですか? 成績は優秀だったと記憶していますが、悪い噂も耳にします。付き合う友人はよく考えた方がいいでしょう」
 こうも一方的に決めつけられては、いくら先生相手とはいえ反感を覚える。
 濃墨先輩は入学当初からずっと良くしてくれている。赤錆さんの素行はたしかに乱暴だが、どんなことでも筋は通す義侠心がある。二人とも僕をからかいはするが、騙すとか陥れるといった卑怯な行いとは無縁だ。僕と付き合いがあるというだけで中傷されていい人達ではない。
 心の内に燻る不服は顔に出ていたようで、先生はぐっと小さくなってたじろいだ。
 青褐先生は意外に打たれ弱い。彼女達の面子のためにも反論したいところだが、今朝の一件がある。気を遣った方がいいだろう。
「チョコ、一つ貰ってもいいですか?」
「え? あっ、はい。いいですよ。糖分は大切です」
 手のひらに乗せて貰った正方形のビターなチョコレートを口に放り込む。ほろ苦い甘さは緊張した空気にも溶け込んだのか、青褐先生の強張った首筋が幾ばくか和らいで見えた。
「……部活動の件は取り敢えず不問とします。もし何か問題があったらすぐに対処しますからそのつもりで」
「はあ」
 オカルト倶楽部の活動は実際のところ、集まって談笑するだけだ。問題なんてそうそう起こらないだろう。そういうおざなりな態度が透けて見えたのか、青褐先生にきつく睨みつけられたので慌ててうんうん頷いておく。
「今一つ信用に欠けますね。……いいでしょう。念のため指切りします」
「指切りですか?」
「そうです。何か不満ですか?」
「いえ、特には」
 言い終わる前に手を取られ、強引に小指を絡ませられる。らしからぬ間延びした口調で決まり文句を読み上げた先生は満足したようで、爽やかに息を吐いた。
「はい。これで安心ですね。では、もう戻っていいです」
 結局僕は何のために呼び出されたのだろうか。質問すれば長くなるので絶対にしないけれど、もやもやした気持ちは残る。
 今日は人に振り回されっぱなしだ。抵抗する気力もないのでてきとうな会釈をしてから大人しく職員室を後にする。
 廊下の風景はまだ明るい。時刻は四時を少し過ぎたが、この頃は陽も随分長くなった。家に帰るまで少しくらい時間を潰しても、それこそ赤錆さんや濃墨先輩の家にお邪魔になるのも楽しそうに思えたが、気を緩ませてはいけない。甘い顔を見せたら最後、徹底的につけ込まれるのがオチだ。
 できる限りの早歩きで資料室に向かう。勢いよく開いた扉の先には頬杖をついて暇そうに足を揺らす赤錆さんと静かに紅茶を嗜む濃墨先輩が、職員室に向かう前と変わらない様子で座っていた。二人の前には手札が伏せられており、枚数もそのままのようだ。
 本当に僕が戻るのを待っていてくれたらしい。疑ってしまった申し訳なさと約束を守ってくれた喜びが一緒になって湧き上がる。
「すみません。遅れました」
「いいから早く席ついて」
 赤錆さんの不器用な優しさに浮ついた気分で椅子に座り、手札を確認して驚愕する。
「う、嘘だろ」
 カードが違う。順番さえ誤らなければ勝利が確定した手札は、序盤で切るような役なしに姿を変えていた。
「じゃ、再開するわよ。はい、あたしから」
「すり替えただろ!」
「うっさいわね……ほら次、包介」
「こんな手札じゃ何も出せないよ!」
「あらそう? それじゃあ、次は私ね」
 濃墨先輩が澄ました顔で出したクローバーの8は僕がずっと温めていたものだ。まさか、二人してこんなイカサマに手を染めるなんて。勝負をなかったことにするより酷い。
「こんなの反則だ!」
「なによ。証拠あんの」
「しょ、証拠って」
「あるの、ないの。どっち」
「あ、あるよ。僕の記憶が証拠だ」
「は? あたしとの約束をいーっつも忘れる包介の記憶が証拠? 寝言言ってんの?」
「そ、それは、今は関係ないだろ」
 言葉に詰まる僕を尻目に手順は次々と回る。二人は僕の番を待つことすらせずカードを捨てていく。完全に僕の手札を把握している動きだった。
「あ。あたし上がり」
「そんな!」
「まあまあ包介ちゃん。勝負の世界だもの。仕方がないわ。それとも何かしら。そんなに私達と遊ぶのが嫌?」
 嘘くさい泣き真似を始めた濃墨先輩の背中を赤錆さんが摩る。その眼差しは僕が悪いと言わんばかりに細められているが、口元は無理して引き締めている。明らかに笑いを堪えていた。
 そもそも先程まで激しく口論していた二人がお互いを気遣い合うわけがない。白々さを隠すつもりがまるでない、打ち合わせ済みの寸劇である。
「可哀想だから先輩も呼んであげる。その代わり、アップルパイ食べる会にはあたしも呼んでよね」
「ええ、もちろんよ。ありがとう赤錆ちゃん」
 僕は一体何を見せられているのだろう。満面の作り笑いを貼り付けた二人はてきぱきと片付けを済ませたかと思うと、有無を言わさぬ力強さで僕を両脇から持ち上げた。
 柔らかな感触が両腕を包む。望まない状況なのに口元が緩む自分が恥ずかしい。
「あら。面倒くさがっていたのに、やっぱり男の子なのね」
「えっち」
「ち、違いますよ!」
 必死の抗議はぞんざいにあしらわれ、僕は捕らえられた宇宙人よろしく哀れな格好で赤錆さんの家まで連行された。
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