ペトリコールと怪女たち

カシノ

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メアリさんの留守番電話

001

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 雨の日は憂鬱だ。
 窓を叩く雨音を聞いていると、うんざりとした溜め息が漏れる。
 雨自体は嫌いではない。僕は徒歩登校なので傘をさすのはそれほど苦ではないし、厚く重なった雲や浅い水溜りが醸す非日常感に、少しだけど高揚を覚えたりもする。日光に弱い僕としてはむしろ、快晴よりも曇りや雨といった薄暗い天気の方が性に合っている。
 ならば何故と問われると、偏に僕の運の悪さが原因だろう。
 道を歩けば必ずといっていいほど車に水をかけられ、一度手元を離れた傘は戻ってきた試しがない。予備で鞄に忍ばせた折り畳み傘が活躍する時は決まって風が強く、その日のうちに壊れてしまうことがほとんどだ。
 雨合羽ならそんな心配もないのだろうけれど、家にあるのは派手な黄色のものだけで中学生の身としては少々気恥ずかしい。
 そもそも、傘は危ないから、というよく分からない理由で中学生になるまで使用を禁止されていたのだ。傘をさす、という行為は僕が大人に近づいた証とも言えるもので、今更子供の象徴である雨合羽に戻るつもりにはなれなかった。
 そんなつまらないことを布団にくるまりながらうだうだと考えていると、目覚まし時計がけたたましいアラーム音を響かせる。
 頭蓋骨の裏側を叩くような大音量に堪らず腕を突き出して、時計の在り処を探す。手探りに振り回しているだけなので、机やら何やらにガツガツ当たるが、寝惚けた頭には痛みよりも喧しさの方が耐え難い。一刻も早く目覚まし時計を黙らせるため、肩を目一杯使って腕を暴れさせていると、手の甲が柔らかいものにぶつかった。
 人の手だ。滑らかな感触の中に剥けて硬くなった皮膚が混じっている働き者の手だ。
「起きなきゃダメだよ」
 布団の外から甘い猫撫で声が掛けられ、同時に指を絡め取られた。細い五指は声音とは裏腹に力強く僕を引っ張り出し、上半身が為す術もなく外気に晒される。
 乾燥した目を瞬かせると、満面の笑みを浮かべた母さんの顔が目の前にあった。
 今朝は黒猫のアップリケが付いたお気に入りのエプロン姿ではなく、すでに出勤用のカジュアルな服装に着替えている。
「……お゛はよう、母さん」
「はい、おはよう。ほら、早く起きて」
「う゛ーん」
「変な声出さないの」
 まだ眠い。横目でちらりと目覚まし時計を見やると、時刻はまだ六時そこらだった。僕が家を出るのは八時頃で、支度に掛ける時間は朝食を含めても三十分くらいだ。こんなに早く起きる必要はない。
 寝直そう。昨日は読書に夢中になって夜更かししてしまったから、まだ寝足りない。
 指の拘束をやんわりと解いて再び布団の温もりへ体を潜り込ませる。しかし、僕の寝汚さを知っている母さんは間髪入れずに布団を引っぺがした。抵抗しようにも手早く畳まれてしまっては、どうすることもできない。
 湿った空気がじわじわと不快感をもたらし、ベタつく肌寒さが微睡んだ脳を覚醒させていく。渋々体を起こして伸びをすると、大きな欠伸が吐き出される。
「もうっ。ママ、今日は早いんだから」
「そうだっけ」
「そうだよ。前から言ってたでしょ」
 聞いたような、聞かなかったような。
 蒸れた頭を掻きながら曖昧に頷くと、わざとらしく溜め息を吐かれた。
「ご飯できてるよ。ほら、起きた起きた」
「……うん」
 鈍い動きでベッドを降りて、ぷりぷりと頬を膨らませる母さんの後ろをゆっくりついて行く。足裏に伝わるフローリングの感触はぺたついていて、今日一日、この湿り気と付き合わなければならないと思うと尚更暗い気持ちになってくる。
 未練がましく自室を振り返りながら短い廊下を歩いていると、リビングへ続く戸に手をかけた母さんが、ふと動きを止めた。
「あ。それとママ、今日は会社の人とご飯食べてくるから遅くなる」
「わかった」
「……寂しいから行かないで、とか、そういうのないの?」
「仕事の付き合いなんだから仕方ないでしょ。僕に何を期待してるのさ」
「……つまんない」
 職場での繋がりが大切なことは、中学生でも理解できる。付き合いが悪いと評されやすい僕は指摘できるような立場にないが、そうとしか言えない。
「ほう君、中学生になってからちょっと変わった」
「え? そうかな」
「ママに冷たくなった」
「そんなつもりは」
「ママのこと、嫌いになったの?」
 ありえない。母子家庭の我が家の家計は母さんの働きで賄われている。かつ、僕の世話にも手を抜かない母さんには感謝こそあれ、嫌う理由はどこにもない。
「母さんを嫌いになったことなんて一度もないよ。いつもありが──」
「ほう君っ!」
「ふぐっ」
 言い切るよりも早く抱きつかれた。芯を揺るがす衝撃に肺の中の空気が根こそぎ吐き出される。
 寝起きの体には手厳しい一撃だ。しかし、母さんはそれどころではないらしく、ギュッと両腕を巻きつけて頻りに体を擦り付けてくる。
「いい子に育ってくれてママ嬉しい」
 押し付けられた胸から顔を離して母さんを見上げる。これ以上ないくらいの慈しみが込められた表情だ。蕩けるように下がった眦を見つめていると、過剰なスキンシップを窘める気も失せてしまう。
「今日は一緒にお風呂に入ろうね」
「え、それはやだな」
「なんでよ!」
「お腹空いた」
「お風呂は!?」
「あはは」
「ちょっと! 笑って誤魔化さないの!」
 この歳にもなって親と一緒に風呂に入るつもりはない。もっとも、母さんを説得するのは骨が折れるので、てきとうに遇らってさっさと居間に向かうことにした。



 二人掛けのダイニングテーブルには蜂蜜のかかったトーストと半熟のベーコンエッグが並べられている。どちらも出来立ての温もりがあるが、食器は一組しか置かれていない。母さんは既に朝食を済ませたようだ。わざわざ僕の為に作り直してくれたのだろう。
「牛乳でいいでしょ」
「うん、ありがとう」
 一緒の入浴を断られた怒りを引き摺っているようで若干乱暴にコップを置かれたが、気にしていても仕方がない。面倒事は大抵、時間が解決してくれるものだ。
 素知らぬ風態を装ってトーストを齧っていると、母さんは僕の真向かいの椅子に腰掛けて頬杖をつく。口元こそむすくれているが瞳の奥は笑っているので、やはり大した問題ではない。
 ジッと向けられる母さんの視線を浴びながら黙々と食事を続ける。トーストを半分食べ終え、ベーコンエッグに移ろうと箸を取ったところで、身を乗り出した母さんに肩をつつかれた。
「どうかした?」
「うん。あのね、今朝はちょっと忙しくて晩ご飯の用意できなかったの。ママが帰ってくるまで待ってられる?」
「飲み会が終わるの、いつ頃だっけ」
「……多分、九時くらい」
「それならコンビニで適当に済ませるよ」
「でも、出来合いのものって体に良くないし」
「一日くらい平気だよ。それより、そろそろ出る時間じゃない?」
 壁に掛けられた時計を目だけで見やる。釣られるように目線を上げた母さんは時刻を確認し、俄かに慌てだした。てきとうに言ってみただけなのだが、本当に出勤する予定の時間だったらしい。
「もう行かないと。ごめん、ほう君。戸締りよろしくね」
 牛乳を一気に飲み干して、大急ぎで玄関に駆け出した母さんの背中を追い掛ける。母さんは丁度スリッパから外靴に履き変えたところだった。
「それじゃ、いってきます」
「いってらっしゃい」
 振り向いた母さんは、余所行きの引き締まった顔をしていた。家の中では常に下がった眦にも力が込められている。
 戦いに向かう大人の顔だ。学生の僕にはまだ分からないが、働いてお金を稼ぐというのは相当な覚悟を必要とするのだろう。特に母さんは家事と仕事の過酷な日々を戦い抜いている。
 対して僕はどうだろう。遅刻はしていないけれど、休日は昼過ぎまで惰眠を貪ることが多く、授業中は何となく板書をノートに書き写しているだけのように感じる。先日返却された初めての中間テストはまずまずの点数だったものの、この体たらくではいつ成績を落としてもおかしくない。
 僕は自分が母さんの苦労に見合うだけの人間になれるとはとても思えない。
 首だけは前に向けたまま、輪郭の曖昧な視界で暗い思惟に耽る。陽の差さない天候がそうさせるのかは定かでないが、落ち込み気味の気分であることは確かだ。
「ほう君」
 母さんの声が聞こえる。緩慢に視線を上げると、自然な所作で抱き寄せられる。両腕が背中に回され、上半身がぴたりと密着する。
 暖かい。この温もりに包まれていると、自身の無能が許されるような錯覚に陥ってしまう。
「また難しいこと考えてる」
「……難しくはないと思うけど」
「ほう君はそのままでいいの」
 僕はもっと頑張らなければならないし、強くあるべきだ。
 しかし、母さんの言う通り、物を知らない子供が一人先走ったところで良い結果を残せるはずもない。いつまでもこのままでいるわけにはいかないが、焦らずゆっくり学んでいくのも一つの正解なのかもしれない。
 甘ったれの考えだけれど、それでもいいと思えてしまう。それだけの柔らかな温もりが、すぐ傍にあった。
「うん。いい顔になった」
「気の抜けた間抜け面だよ」
「もうっ。ほう君は可愛いからいいの。いってきます」
 母さんが朗らかに笑って、玄関扉を開ける。空は今朝に見た時と同じく分厚い雲に覆われていたが、外廊下を早足で歩く母さんの背中はいつにもまして明るく見えた。
「頑張ろう」
 僕は母さんを支えられる人間になりたい。時間は掛かるかもしれないが、そうなりたいと強く思う。
 そのためにも、今の僕にできる仕事は何か。学生の本分はよく学ぶことだ。それを全うするには、残った朝食を腹に収める必要があった。



 居間に戻った後、早速朝食を平らげ、食後に緑茶を嗜んだ後、歯を磨いた。この頃ようやく着慣れてきた学生服にも袖を通し、食器類は既に洗い終えている。母さんの健康的な献立のおかげで毎朝快便の僕は、トイレに時間を掛けることもない。
「暇だ」
 出発予定の時刻まで、まだ三十分以上の猶予がある。
 僕は完全に暇を持て余していた。
 普段なら考えられないことだ。この時間はいつも慌てふためいて、とまではいかなくとも、それなりに忙しく準備を整えているはずである。眠気もここまで酷くない。
 思い返せば、今朝は少し様子が違っていた。
 普段より一時間早く設定されていた目覚まし時計。母さんが枕元に待機していたのも不自然だ。口癖のように話す、もっと一緒に居たいという願望を鑑みると、望まない早起きを強いられたのは、飲み会で帰りが遅くなることを予期した母さんが原因である可能性が高い。
 まあ、考えていても仕方がない。怒るようなことではないし、学校から帰る頃にはさっぱり忘れている程度の些末な我儘である。久し振りにゆったりした朝を過ごせると、前向きに捉えることにしよう。
 とはいえ、ソファにもたれてばかりでは襲い来る睡魔にすぐにでも屈してしまいそうだ。二度寝で遅刻してしまっては本末転倒なので、体を動かした方がいいかもしれない。
 もう三度目になるが、今一度戸締りを確認しようと立ち上がったその時だった。
 インターホンの軽快なチャイム音が部屋中に鳴り響く。早朝の来訪者に疑問を抱きつつも、急いで玄関モニターに駆け寄り荒い画質の液晶を覗き見ると、眉間に皺を寄せてカメラを睨みつける見知った女子生徒が映っていた。
 約束の時間にはまだ早い。何かあったのだろうか。
 通話ボタンを押すと、画面越しでも分かりやすく相貌の険しさが増した。
「おはよう。今朝は随分早いね」
「は? 昨日言ったでしょ。早くここ開けろ」
「ああ、いいよ、僕が降りるから。そこで待ってて」
 昨日の話というのはよく分からないが、取り敢えず通話を切る。彼女を待たせると後が怖い。
 ソファの傍に置きっ放していた学生鞄を拾い上げ、玄関で素早くスニーカーに履き替える。盗まれ癖のある僕のために母さんが買い貯めてくれたビニール傘も忘れず手に取って前のめりのまま玄関扉を開け放つと、寝起きに見た時より酷い雨模様が広がっていた。独特の湿った匂いが鼻を衝く。登校までに止むことを密かに期待していたのだが、そう上手くはいかないらしい。
 ポケットに入れた家の鍵を探りながら、外廊下に足を踏み出す。そうして、自重で独りでに玄関扉が閉まり始め──
「おわぁっ!!」
 扉の陰に人が立っていた。
 反り返りすぎて体が半回転する。咄嗟に出した傘が都合よく支えになり無様に転がる事態は避けられたが、朝っぱらから奇声を上げた事実は変えられない。
 妙な姿勢で固まる僕と、無言で佇む女性の間に気まずい空気が流れる。
「おはようございます、桑染くわぞめさん」
 何でもないみたいに姿勢を正して挨拶してみたが、返答はない。一人で勝手に大騒ぎした不審者には当然の対応だった。
 羞恥で熱くなる顔を俯けながら、こっそりと様子を伺う。
 猫背なのに僕より頭二つは大きい。金色の長い前髪が目元を隠しているため表情は読めず、機嫌を損ねてしまったかどうかも判然としない。がっしりした体格は立っているだけで迫力があり、渦巻く空気が一層冷たくなったように感じる。
 これ以上恥をかかないうちに早く行こう。会釈をしながら鍵をかけ、桑染さんの脇をすり抜ける。
 そのつもりだったのだが目の前に、にゅっと腕が伸びてきて進路を阻まれた。
「……これ」
 掠れかけた囁き声。彼女は偶々通りかかったわけではなく、僕に用事があったようだ。
 見ると、手にはハガキサイズの白封筒が摘まれている。手紙を送る時によく用いられるもので、その清潔な外装には嫌というほど見覚えがあった。
 住所間違いの誤配達。僕宛に送られてきているらしいこの封筒は、いつも誤って隣の桑染さんの郵便受けに届けられている。
「いつもすみません」
 今月に入ってもう三度目だ。その度に桑染さんに出向かせてしまっているので本当に申し訳ない。
 封筒を受け取って裏返してみるが、やはり送り主の名前は書いていなかった。表面の宛名にしても僕の名前が書いてあるだけで、住所や郵便番号は見当たらない。
 そんなだから配達員の方も間違えてしまうのだ。いや、住所が書いておらず消印も押されていないということは直接郵便受けに投函しているのか。ますます訳が分からない。
「……開けないの、それ」
「え? ああ、そうですね。でも多分、いつもと同じだと思いますよ」
 桑染さんに促されて封を切るが、どうせ大した内容ではない。案の定、中には写真が一枚入っているだけだった。
 図書館で撮られたものだろうか。写真には背表紙のやけた本が乱雑に並べられた木製の本棚と、木漏れ日に照らされた閲覧席らしき場所が写っている。多少古過ぎるように感じる館内だが、写真自体に不審な点はない。
 問題は、僕がこの場所にまったく心当たりがないことだ。
 思い当たる節がない以上、写真だけ見せられても察せられるものはなにもない。ずっと僕を誰かと間違えているんじゃないか。
「あの、大丈夫?」
「……あ、すみません」
 声を掛けられて初めて、自身の悪癖が表出していたことに気が付いた。
 僕はどうにも、考え込むと右のこめかみを人差し指で叩く癖がある。見栄えは悪いし人を不快にさせるので矯正を心掛けてはいるのだが、油断すると表に出てきてしまう。
「本当に何度もすみません。もう間違えられないように張り紙でもしておきますね。それじゃあ、僕はこれで失礼します」
「えっ。あっ、あのっ、わたしも一緒に行く」
 そう言った桑染さんの後ろ手には、空き缶が数本入ったコンビニの袋が提げられている。たしか今日は缶、瓶の回収日だ。桑染さんは元々ゴミ出しを目的に外出して、ついでに僕への用件を済ませたのかもしれない。
 断る理由もないので、二人連れ立ってエレベーターの前に移動する。このマンションにはエレベーターが一つしか備え付けられておらず、朝の時間帯はよく取り合いになってしまう。多少の居心地の悪さを犠牲にしてでも相乗りを選択するほうが建設的だ。
 下行きの乗り場ボタンを押してエレベーターを待つ。幸いにもすぐ下の階に止まっていたようで、十秒と待たずに到着した。開いた無人のエレベーターに体を滑り込ませ、扉を手で抑えておく。
「あっ、ありがとぅ……」
 言葉とは裏腹に桑染さんは浮かない表情だ。エレベーターという閉塞空間で二人きりになるのは結構なストレスになるし、気を遣わせてしまっただろうか。今からでも階段を利用しようと思ったが時すでに遅く、扉は完全に閉じてしまった。
 ほどなくして、重低音を立てながらエレベーターが動き出す。
 気まずい。
 良好な近所付き合いもであれば世間話で時間を潰せるのだろうが、生憎僕と桑染さんにそんな気安い関係はない。まして、桑染さんが越してきてから何度も例の封筒が手違いで届いていることを踏まえると、恨まれている可能性さえある。これ以上関係を悪化させないためにも早くこの件を解決したい。
 打開案を思案するも良い案は思い浮かばず、小気味好いベルの音が一階への到着を告げる。嘆息を飲み込んで、徐々に開く扉を見つめる。
 この時、僕は急ぐ理由をすっかり忘れていて、扉の隙間から覗く女子生徒の姿を見たとき、ようやく自らが置かれた危機的状況を思い出した。
 四年来の付き合いになる同級生、赤錆あかさびていさんが壁に背をつけ、不機嫌そうに腕を組んでいた。
 怒っている。じろりと向けられた彼女の目を見て直感する。
 赤錆さんは僕を睨みつけたまま歩み寄り、オートロックの自動ドアの前で立ち止まると表面をどんと叩いた。四メートル以上距離があるのに伝わってくる怒気には苦笑いするしかない。
 手遅れであることは明白だが、今すぐ謝りに行かなければより悲惨な処罰が下される。赤錆さんが早くに訪ねてきた理由は思い出せないので何を謝るべきか分からないが、とにかく頭を下げなければならない。さっさとエレベーターを降りて駆け寄りたい。
 だというのに、後ろの桑染さんが動かないのは何故だろう。
 最初に乗った者が扉を開けておくというマナーは当然守らなければならないので、桑染さんが動かないとどうすることもできない。
 しかし、目線で促してみても桑染さんは一向に降りる素振りを見せないどころか、前方を凝視して力強く床を踏みしめている。無反応に立ち尽くす彼女に段々と薄ら寒いものを感じていると、一層と眉を吊り上げた赤錆さんがもう一度自動ドアを叩いた。
 朝からどうしてこんな目に遭わなければいけないんだ。いや、赤錆さんとの約束を忘れた僕が悪いのだけれども。
 内心懺悔しながら突っ立っていると、赤錆さんがゆっくりと言葉を紡ぐ。声は聞こえないが、唇の動きから読み取ることはできる。
 こ、ろ、す、ぞ。
「す、すみません。お先に失礼します」
 生命の危機だった。マナーを遵守している場合ではない。迷惑ばかりかけている桑染さんには近いうちにお詫びすることを決め、大急ぎでエレベーターを降りる。
 そんな僕の従順な態度に気を良くしたのか、赤錆さんの表情が心なしか柔らかくなった。自動ドアが左右に開かれて隔たりがなくなる。
「ほぁ」
 恩情を期待していると、内臓が持ち上げられるような鈍い衝撃が走る。恐る恐る視線を下にずらすと、僕の股ぐらに赤錆さんの足が伸びていた。
 金玉を蹴り上げられた。
「い゛だぁーーー!!」
 耐え難い激痛と下腹から這い上がる強烈な不快感に叫ばずにはいられなかった。視界がぐらりと傾き、嫌な汗が止まらない。肺は深く空気を取り入れることを拒み、浅い呼吸がひたすらに繰り返される。熱いのだか寒いのだかよく分からない、ただ気持ち悪いことだけは確かな震えが全身に広がり、膝ががくりと折れた。息も絶え絶えに這い蹲る僕を赤錆さんは怜悧な瞳で見下している。
「罰」
 耳を疑った。金玉、つまり睾丸は生殖系と呼ばれる臓器の一つで、赤錆さんのしたことは内臓を足蹴にするのと同義である。それほどの暴挙をこともなげに実行し、一言で切って捨てるなんて。
 悪魔のような女だ。頭の螺子が何本か飛んでるんじゃないか。
「なに? なんか文句ある?」
 あるに決まっている。過失は約束を忘れた僕にあるが、これは明らかにやりすぎだ。赤錆さんが待ち合わせに遅れることはしょっちゅうなのに、どうして僕だけ厳罰を課されなければならないのか。
 毅然として反論すべきである。しかし、体が言うことを聞かない。抗議の意思を精一杯込めて赤錆さんをねめつけるが、彼女は薄く笑うだけで意にも介さなかった。悔しい。不甲斐ない自分に涙が出そうだ。
「ほ、包介ほうすけくん! だ、大丈夫!?」
 背後から空き缶のぶつかり合う音が聞こえる。辛うじて動く首を声の先に向けると、桑染さんが青ざめた顔で僕を覗き込んでいた。
 隣人の男子中学生如きを心配してくれるなんて、なんと素晴らしい人なのだろう。血も涙もない赤錆さんとは雲泥の差だ。
 彼女の優しさに応えるためにも元気よく無事を伝えたい。しかし、痛みに喘ぐ僕の口にそんな余裕はなく、脂汗に塗れた顔で微笑みかけるのが限界だった。
「誰ですか」
 赤錆さんが抑揚のない口調で桑染さんに問う。いやに高圧的だ。目上の人に話しかける態度ではない。
「く、桑染メアリですけど」
「メアリ? ……ああ、外人ですか。日本では普通のことなんで気にしないでください」
「が、外国人じゃないし、普通じゃないことぐらい知ってる!」
「ふーん、そうですか。まあ、若者の常識なんで、おばさんが知らないのも無理ないですね」
「おっ、おばさんじゃない! まだ二十二だもん!」
「やっぱりおばさんじゃん」
 僕の頭上で激しい舌戦が繰り広げられる。個人的には桑染さんに勝利してもらいたい。頑張れ桑染さん。
 しかし、おばさんの一言が余程に堪えたのか、桑染さんは顔を真っ赤にして黙りこくってしまった。二十二歳は間違いなくおばさんではないので気にしなくていいのに。
「ハッ、もう終わり? 話になんないわ」
 沈黙を敗北宣言ととったらしい赤錆さんが挑発的に吐き捨てる。それに反応して、桑染さんの肩がピクリと上がった。
 まずい。暴力沙汰に発展するかもしれない。気性の荒い赤錆さんは体格差など御構い無しに突っ込んでいくだろうし、桑染さんの長身はそれだけで脅威だ。衝突を許せば確実に血を見ることになる。
 感覚の薄れた下半身に力を入れるが、足先が床を滑って上手く立てない。揺れる視界の隅で桑染さんが一歩、踏み出したのが見える。赤錆さんはひりついた気迫を剥き出しにして、迎え撃つ準備を整えている。
 万事休す。争いは避けられない。
「……ちん」
「は?」
「おおおおちんちんは大切! 蹴ったりはダメ!!」
 桑染さんが予想外の言葉を叫んだ。
 あまりの意外性に流石の赤錆さんも面食らっている。正確には蹴られたのは金玉だけでちんちんは無事なのだが、桑染さんからはまとめて蹴り上げられたように見えたのだろう。男にしか分からない痛みに理解を示してくれる女性の存在にほっこりとした気持ちになる。
 だが、公共の場で口にすべき言葉ではない。桑染さんも失言に気が付いたらしく、怒りとは別の理由で赤くなった。
「ご、ごごごごめんなさいっ!」
 桑染さんは両手で顔を隠したまま猛然と走り出し、階段に消えていった。エントランスに残されたのは、股間を抑えて蹲る僕と、呆気にとられた赤錆さんだけだ。
「……なにあれ」
「桑染さん」
 顔を上げて答えると、顔面を踏みつけられた。親切なことに靴を脱いでからの行動だ。こういうちょっとした気配りに優しさを感じるあたり、僕は相当飼い慣らされていると思う。
「それはさっき聞いた。ていうか、あの喋り方なに」
「喋り方?」
「もん、だって。服もブリブリしててキモいし、二十二であれはやばいでしょ」
 桑染さんは全体的にふりふりした服を着ていた。確かに少し子供っぽい気もするが、スタイルのいい彼女は何を着ても様になるのでそんなに酷いとは思わない。
 もっとも、服飾に無頓着な僕が偉そうに言えることではないので、苦笑いで誤魔化すことにした。
「ヘラヘラしない。もう行くよ」
 赤錆さんは足裏で軽く額を押した後、靴を履き直してから僕を引き起こす。股間は未だに鈍い痛みに苛まれていて両足に力が入らない。それでも力を振り絞り、傘を杖にして痙攣しながらも懸命に立つ僕の姿を赤錆さんは鼻で笑った。どういう神経してるんだ。
「昨日の約束ってなんだっけ」
「は? 覚えてないの?」
「……ごめん」
「あたしの日直。手伝えって言ったでしょ」
 ひどすぎる。僕、全然関係ないじゃないか。
「ほら、急ぐ」
 赤錆さんが強く腕を引く。未だ痛みの抜けない僕に文句を吐く気力はなく、覚束ない足取りで黙ってついていくしかなかった。
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