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58. おつかい

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 茜と喋らなくなってから約1ヶ月たった。それに伴い流れていく季節。そして、この時期は世の中の学生が1つの大敵と戦う時期になる。そう、──夏休みの宿題である。
「あと3日…。間に合うかー?これ」
 数学のワークと睨めっこしながら、俺は頭を抱える。窓の外から見える満月が少し恨めしく思った。
「…ち、ちょっと休憩…」
 逃げるようにスマホの電源を入れた俺は、時刻表示の下に、一件の通知が来ているのが目に入った。
「…んえ?雫?」
 そこで俺は思った、珍しい。と。雫と最後メールのやり取りしたのも確か約1ヶ月前だったはず。あの時は、そうだ…。
「…花火が鳴ってる時に、雫の言葉を聞き取ることが出来なくて…」
 その時に俺に残った感情は、罪悪感だった。次の話に持っていこうとする彼女の姿に俺は心が重くなっていたのだ。あの後、星本先輩と佐伯姉妹を合わせる時も、正直そこには居づらかった。
 俺は、雫を追いかけて、最終的には先輩の力で円満解決みたいになったが、俺と雫の間にも何か言葉では説明できない距離感というものがあったのだ。
『外に出てきて。』
 雫からの連絡には一言だけそう述べられていた。今は8月の下旬。日中の暑さに比べれば全然マシな方だが、まだまだ団扇が手放せない時期だ。
「…まあ、休憩がてら。行きますか」
 そう呟いた俺は、部屋の電気を消して、ゆっくりと階段を降りていくのだった。



「…珍しいな、お姉ちゃん。散歩に行きたいだなんて」
「そう?まあずっと勉強してるのも嫌だし、たまには気分転換ってことで。いいでしょ?」
「…それにしてもまだちょっとムシッとしてるな。そりゃー、日中よりかは暑くないけどさ」
「そうねぇ。外にこうして2人で立ってるだけでも風が欲しくなるわね」
 玄関の前で、私たちはそんな会話をする。右手には500円玉1枚。散歩というか、コンビニに行こうと茜に話したのだ。ノートが切れたという理由をつけて。
「で、さっきから思ってたけど」
「ん?どうしたの、茜」
 茜はあたりを見渡して、
「いや、誰待ってるんだ?行くのは僕たちだけだろ?」
「……ま、もうちょっと待ってなさい。そしたら──」
 刹那。隣の家の玄関のドアが、ガチャっと開いた。玄関の電気に照らされるその場には、私の想定通りの人物がいた。
「…!」
「やっほー。佑」
 なにか驚いたような表情をしているのが汲み取れた佑に、私は左手を軽く上げて、挨拶をする。
「お、おう…」
「…………」
 佑はどこか気まずそうに、そう私に挨拶を返す。まあ、その理由というのは、私はもう分かっているが…。
「ほら、茜も挨拶しなさいよ」
「う、うん。こんばんは、佑」
「おお、こんばんは。茜」
 うーん。やっぱりなんか妙にギクシャクしてるわね…。よく分からないな、この2人は。……さてと、じゃあ行きますかね。
「あ、やっばー。私これからしなきゃいけないことあるんだった」
「「え?」」
「ごめん茜。代わりにコンビニ行って、ノート買ってきてくれない?あ、それと佑も。年頃の女の子が夜道に1人は危ないし」
「え?」
「え、あっ。ちょっとお姉ちゃん?」
 急にあたふたする様子を見せる茜。普段こんな様子の茜は見ないからちょっとレアなようにも感じる。まあ、焦ってる理由は分かっているが、ここは敢えて惚けておこう。
「ん?…ああ。お金がないと買えないか。はい、500円。お釣りが出たら好きなもの買っていいよ」
「いや、そ、そういうことじゃ…」
 私に近づいて、小声で俯きながらそういう茜。そんな彼女に、私は思わずクスッと笑って、
「…いいから、ほら。行ってきなさい?散歩も、いいリフレッシュになるわ」
「で、でも佑が嫌がるんじゃ──」
「──俺は、大丈夫だよ」
「え?」
「まあ、茜が無理ならしょうがないことだけど、俺自身はまあうん。大丈夫…」
「…ほらね、だから行ってきなさい?」
 私はそう言って、顔に微笑を浮かべながら家の中に入っていくのだった。その後のことは、知らない。私は自分のやるべきことを全うしただけだと思ってる。うまく行くかは、あの子たち次第だけど。
 遡ること数週間前、茜にしては珍しく、少し落ち込んだかのような表情で、私の部屋を訪ねてきた。
「…お姉ちゃん」
 そして茜は、自分があの花火大会の日から佑と喋るこができていないことを私に言った。それを引きずっている結果が、今のその感情なんだなって。私はその瞬間悟った。いつもの調子のいい茜とは様子が違うとも雰囲気的に察した。
「あの、お姉ちゃん」
「うん?」
「あの、僕…。恋、しちゃったみたいで…」
 正直驚いた。ついちょっと前まで、そんなそぶりさえなかったのに、急にそんなカミングアウトをされたんだから。そして、その相手が誰なのかということを私は即座に尋ねようとしたけど。
「…佑?」
 私のその言葉に茜はコクッと首肯した。まあ、なんとなくは分かっていた。最近、茜が佑を見る目が変わってるなって。茜がいつも私に見せる笑顔とはまた違う笑顔だなって。
 それなら、応援したくなっちゃうじゃん?いつもは色々文句まがいなこと言われている姉だけど、妹の初恋ならば、姉としては応援してあげたいし、色々アドバイスもしたい。ああやって、文句の対象の私を頼ってくれたのも、茜自身の行動なんだしね…。
 ただちょっとだけ、心に突っかかるものがあったということは黙っておこう。
 自分の机の引き出しから新品のノート2冊を出して、私はベランダへと歩く。
「はあっ」
 2回のベランダから、私は風にそよがれながら一つ小さなため息をついた。自分のこの行動が結局正したかったのかは分からない。だけど、心の中で、うまくいってほしいなって。私はそんなことを思いながら、今は餅をついているように見える満月を眺めるのだった。



「…………」
「…………」
 8月29日、夜8時半。都会の類に入る長山町にしては静かなこの場所を2人の高校生が歩んでいく。それは俺、佐野佑と。隣にいる、佐伯茜という俺の隣に住んでいる少女だ。
 実に会うこと自体が1ヶ月ぶりで、その以前まで例えるなら人が呼吸をするような、そのような感覚でしていた会話だけど、今は両方息を止めているように、この場に会話はない。俺たちはただ黙々と静かな夜の道に足をつける。
「…ごめん」
 すると、突如隣からそんな声が飛んできた。久しぶりに俺に対して聞くその声に、俺は少し懐かしく感じるまでになった。横の少女は場が悪そうにやや俯いている。
 俺は、そんな彼女を見ながら端的に言う。
「…ごめんって、何が」
「いや、その。僕があの花火大会の日、変なこと言っちゃって…。佑を呼び止めたのは僕なのに先に帰っちゃったりして…」
「…それは、謝る理由にならなくないか?」
「え?」
 茜は不意に俺の顔を見た。が、すぐに逸らしてしまった。俺は目の前の街灯を少し眩しく思いながら、
「…いや正直さ、俺あの瞬間、嬉しかったんだよ。茜に好きな人ができたことが。茜のその気持ちは全然変なことじゃないし、むしろ羨ましいなって」
「…羨ましいって」
「本当だぞ?俺は恋したことないし。茜が感じてるその気持ちっていうのにちょっと憧れがあるんだよ」
「それでも、僕がそのことを佑に話してから僕たちが喋らなくなっちゃったのは事実だし…」
 唇を尖らせながら自分自身に愚痴を言うように告げる茜。この空白の1ヶ月間、茜は茜自身で自分なりに考えたんだろう。彼女の言葉にその理由が詰まっていた。
「…いいんだよ。恋することはいいことなんだから」
「…ふふっ」
 すると突然、茜が口元を手で覆いながら笑った。
「な、なんだよ…」
「…いやごめん。恋したことない佑がよく恋のことについて語るなって。あはははっ」
「いや別にいいだろ!ったく、くだらないことで吹き出すんじゃねぇよ…」
 ああでも、このくだらない会話。久しぶりだな。そしてどこか、嬉しく感じてる自分がいる。
「…なあ佑。なんか…、久しぶりだな、これ」
 それは茜も同じことを思っていたようで、たった1ヶ月しか空いていないのに、目の前の少女の笑顔がとても懐かしく思われた。ああ、この笑顔。やっぱり──
「…そ、そうだな。ほんと、あはは…」
「ん?どうしたんだ佑。え、僕またなんかした?」
「いやいや違うんだ。これは…うん」
 いけないいけない。せっかく最近先輩とも普通に喋れるようになってきて、コミュ症が無くなってきてるのに、また茜にさえそれを発動してしまうと、もう俺は人と喋ることが出来なくなる…。
 何か話題を…。そうだ、
「…なぁ、茜って。その、好きな人とはどうなんだ?」
「えー久しぶりに喋っていきなりそのことについて聞くー?」
 不服そうな表情をしながら茜はそう言った。
「あ、いや。別に無理に答えなくていいんだ。ふと気になったことでありまして…」
「──好きな人とはね」
 茜は、額に人差し指を当てながら、
「最近は、上手くいってないかなぁ」
「ん。そ、そうか…」
「ちょっと、気まずそうな反応するなよー」
「いやだって…」
「…まあそりゃ、僕だって上手くいって欲しいから行動とかしたいぞ?だけど、よく言うじゃん。"初恋は実らない"ってさ。だから、僕はこれでいいんだ」
「……いや、それは…。ちょっと違うんじゃないか?」
「えっ?」
 俺のそんな言葉に茜はこちらを見て、疑問符を浮かべた。
「…さっきも言ったけど俺は、茜みたいに恋したことないし、あんまり大きなことは言えないけど…。俺が茜の立場なら、きっと後々に後悔すると思う。あの時もっと頑張ってたらなって。もっとアピールできてたらなって。だから、茜はせっかくの初恋なんだし、自分なりにもっと頑張ってみるのもアリなんじゃないか…?」
「(…だから、頑張ってんじゃん。ばかっ)」
「え、なんか言った…?」
「なんでもないですー。ほら、コンビニ見えてきたぞ!」
 さっき何かボソッと聞こえた気がしたが…。気のせいだろうか。茜は目に見えたコンビニを指差して、俺にそう言った。
 今考えれば、恋愛したことないやつが、現在進行形で恋してるやつに恋愛を語れば確かに機嫌は悪くなるか。ごめん茜、心の中で謝っておくよ。
「おおっ。やっぱり、コンビニ内は涼しいなぁ」
「確かに、外とは違うな」
 まだ人がちらほらいるコンビニ内で茜は、まるで俺たちの貸切状態のようにはしゃぐ。周りを見ましょうね、茜さん…。
「えっと…。なんだったっけ?お姉ちゃんに何か買うものを頼まれてたんだよな?」
「…なんでお前が忘れてるんだよ。アレだろ?ノートじゃなかったっけ?」
「ああそうだ!ノートだノートだ!というかノートって、500円で買えるのか?」
「んーまあ、買えるんじゃないか?…ほら見てみろよ。1冊200円だってさ」
 大学ノートを見つけた俺は、それを指差して茜に言った。
「お、ほんとだ!じゃあこれ2冊だな!」
「よかったよかった。無事に買えたな」
 するとノート2冊を手に取った茜は、左手に握っていた500円玉をマジマジと見つめていた。いつかその500円玉を口に入れてしまうんじゃないかって、そう思ってしまうほどの勢いだが…?
「え、何?どうしたの?」
「…いや。100円余るなーって」
「お、おう。そうだな」
「出かける前にお姉ちゃんは、お釣りは好きに使っていいって言ってたんだ…。よーし佑、この残りの100円で豪遊するぞー!」
「いや100円で豪遊なんでできるかよ!」
 俺は思わず苦笑しながら、茜にそうツッコんだ。この茜との会話の掛け合い。さっきもやったけど、やっぱり楽しさがあるよな、不意に俺の顔には微笑が漏れた。
「…と、思ったけど」
「え?」
「…僕は優しいから。佑に何か奢ってあげよう!」
「え、それはどういう風の吹き回し?」
「いいからいいからー。ほら、僕に構わず好きなもの買いたまえ!」
「いやあんたドヤってますけど、それ雫のお金だからね?」
 それに、と俺は続けて、
「お前のことだ…。どうせ今回奢ったからまたの機会に奢ってとか言うんだろ…?」
 すると茜は、ぷくーっと頬を膨らませて、
「心外だなぁ。まあ、佑は覚えてないか…。僕たちが最初に出会った時のこと」
「え…?最初に出会った時のこと…?」
「あの時は確か…。2人で勝負をして、僕が佑に奢ってもらったんだ。その時に、機会があれば、その分は返すって約束しただろー?」
「え、ええああうん。そうだな!そうだ!」
 正直記憶は曖昧だが、なんかそんなことがあったような気がしなくもなかったので、とりあえず頷いておくことにした。記憶が間違ってなければ、確か自販機でモンスターを奢ったんだっけ…?
 すると目の前の少女は、にぱっと笑顔を浮かべ、俺の右手に500円玉を握りしめさせた。そして、
「じゃあ、好きなの買いなよ!まあ、ノートと一緒に持って行ってもらうけどねー。ふひひっ」
「げ、それも持っていかすのかよ…。まあいいか、じゃあお言葉に甘えて何か奢らせてもらうことにするよ」
「了解!じゃあ僕は佑が買い物を済ませるまで、ちょっと暇つぶしておくー。終わったら言うんだぞー」
 茜はそう言うとコンビニの出入り口の自動ドアの方に足を進めた。外はまだ蒸し暑いんだから中で涼んでおけばいいのに…。と俺は心中で思う。
 夜出会ってから今まで。今日久しぶりに喋ったとは思えないほどの空気を俺はふと感じていた。最初のような気まずい空気は何処かへと消え去ってしまっていて、1ヶ月前までにしていた日常と化した茜との会話が戻ってきて俺は嬉しいという以外の感情を知らなかった。そう感じる気持ちが俺だけならちょっと悲しく感じるものだが…。彼女はどう思っていたのだろうか。
「…お、マジかこれ。よし、時期も時期だしこれにするか」
 そんなことを考えていると、目の前にちょうど良いものが目に入ったので、俺は1つそれを手に取り、レジへと向かう。会計を済ませると、手元には10円2枚が返ってきた。
「あぶね、20円余った…」
 返ってきたお釣りを眺め、待たせている茜の方に足を進ませながら、俺はそんなことを呟くのだった。
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