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1巻
1-3
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男女二人きり、それも今日初めて対面したばかりなのに、いきなりこんな展開になってしまったのだ。素面では気まずい。酒を呑んでいれば、それなりに会話を進めることができそうだと思った。
お盆を持って座卓まで運ぶと、コップをそれぞれの前に置いて缶を開け、二つのコップに注いでいく。
「じゃ、乾杯ということで」
「二次会だな」
「ふふっ、そうですね」
触れるだけに留めたコップが、コチ、と鈍く鳴る。私の視線はその振動を感じた途端、紅林さんのコップを持つ手に吸い込まれた。
小さめのコップが、更に小さく見えるほど大きな手――
ゴツゴツと骨張り、指の先までいかにも男らしさを感じる。
「――どうした?」
先にビールを呑み干した紅林さんが、コップを持ったまま動きを止めた私を訝しみ声をかける。
その言葉に、はっと我に返った私は、「い、いえ、なんでもありません!」と手に持ったビールを一気に呷った。
「ハイハイ、次! コップこっちに置いてください!」
二缶目のビールを慌てて開け、空いたコップ二つに注いでいく。
――彼の手を見て、男の人だ、って意識してしまったなんて、言えない。
改めて正面に座るこの人が、万理さんの兄とか同じ会社の人とかという以前に、眉目秀麗で……そして『やたらと声が腰にくる』と会社で噂になっていた男性なのだと思い知った。
その人が、目の前にいる。
「く、紅林さんてお酒強いんですね。びっくりしちゃった」
私は注いだばかりのビールをまたも一気に呷り、立ち上がって冷蔵庫からワインを持ち出した。部屋に着くなり冷やしておいたので、やけに火照っているいまの体にはちょうどいい。
「それを言うなら望月さんこそ。あ、俺がやるよ」
ワインのコルクがうまく抜けなくて、紅林さんにお任せする。
「でも、わりと酔っているかもです。ほら、現に力が入らなくて」
「それでもすごいと思うよ。女性でこれだけ呑める人、初めてだ」
「呑める女は、お嫌いですか?」
「いや、むしろ好きだよ」
ハハハ、と笑ってワインを注いだコップを持ち上げる。しかし私は、どうにも動悸が治まらない。
――むしろ好きだよ。
――好きだよ。
呑める女が好きかどうかと聞いたことに答えただけで、深い意味はない。
そう自分に言い聞かせるものの、男性とのお付き合いに枯れて久しい独身女には、その言葉は刺激が強かった。
深い意味はない。もう一度そう胸に刻みながら私もワインを呑んだ。
「話が合って、食の好みが似てて、一人を謳歌している。そういう人が好みだからな」
……ん?
「丁寧に書類を整え、資料にはわかりやすく図をつけるなど気配りができ、更にはとてもかわいらしい声ではきはきと話す。そんな彼女に会ってみたかったし、こうして実現できたのはうれしい」
……え? なんだろう、急に、なにか、雰囲気が……
「その上、妹の頼みを聞いてくれて。……期間限定とはいえ婚約者になれたのは光栄だな」
……あの?
勘違いしないようにと必死に考えるけれど、どうしても私のことに聞こえて仕方がない。
いやいや、まさかまさか。
「だいぶ酔っておられますね。私はまだまだですよ!」
タン、とふたたびコップを空にしてテーブルに置き、紅林さんにワインを注ぐよう促した。
目の前の色男が、突然自分を褒め出し、あまつさえ婚約者になれて光栄だとか、なんの冗談だろう。彼は、平気なふりしてだいぶ酔いが回っているようだ。これ以上、惑わされるのは嫌なので、ここは潰すに限る。
紅林さんは私のコップに、トクトクと音を立てながらワインを注いだ。
「酔ってなんかいないよ。俺は綾香に興味があったから」
「あの、いきなり名前で、しかも呼び捨てはやめていただけませんか」
「婚約者だからいいだろう」
「紅林家の御両親の前だけだと認識しておりますが!」
「俺はこれが本当になってくれるとうれしい」
「……はっ?」
持っていたコップを危うく取り落とすところだった。
いま、なんて言った?
「本当って……」
「結婚しよう」
「……っ⁉ あ、の……? 婚約するふりなら、しますよ」
「だから、本当に……年前からずっと……」
「え?」
あまりよく聞こえなかったけれど、これは駄目だ、紅林さんは相当酔っていらっしゃる。
顔色一つ変えず冗談が言えるなど、タチの悪い酒癖だ。
もうここはさっさと布団を敷いて寝てしまうべきか。
「理由ならある。綾香の仕事の誠実さと、万理から聞いていた可愛い常連さんの情報と、あとは……前に食べた――」
「はいはい。それじゃ、お布団敷きますので支度済ませてくださいね。洗面所に予備の歯磨きセットがありますから」
適当に返事をしつつ寝る準備をさせようと声をかける。それから私はコップ一杯分のワインを、ごくごくと水のように呑み干した。
紅林さんはブツブツ言いながらも洗面所に行ったので、その隙にと布団を敷き始める。
一組はもう宿の人が敷いてくれていたけれど、紅林さんの分は自分で敷かなければならない。
使っていた座卓を移動させて二組の布団の間に置き、仕切り代わりとする。それから敷布団、シーツなどテキパキと準備した。そして紅林さんが戻ってきたのと入れ替わりに、私も洗面所へ行く。
顔を洗ったり歯を磨いたりと寝支度を整え部屋に戻ると、すでに部屋は暗くなり、枕元に置かれた小さなライトのみが灯っていたが、紅林さんは座卓の前に座っていた。
「もう一杯だけ呑みたい」
あれだけ呑んでまだ呑むか、と一瞬思ったけれど、呑んで潰れてくれたら助かる。
「……じゃあ、少しだけ」
一応渋るふりを見せながら、しかし結局自分ももう一杯呑もうとしているのもたいがいだと思う。
冷蔵庫に置いてあるのは、もう日本酒のワンカップ利き酒三本セットだけだった。これなら少量でちょうどいいかなと手に持ち、座卓に並べる。
「隣、座らないか」
「いえ、こちらで」
隣に座るのは危険な気がする。しかし対面になるのもあからさま過ぎかと思い、机の角を挟んではす向かいに座ることにした。
「改めまして、乾杯」
一つを紅林さんへ、もう一つは自分の前に置き、ワンカップのふたを開けて乾杯する。最初の一口はすぐに呑み込まず、鼻に抜ける匂いを楽しんでから喉に流した。
「んー、これ好みですね。キツさがなくて」
「こっちも割と尖りが少ない気がする」
「味見させてください」
そう言って交換し、呑む。うん、これも大変美味しい。
……って、あれっ? なんで私はこんなことをしているんだろう。ついさっき、危険過ぎるとか思ったばかりなのに、回し呑みするなんてこの警戒心のなさはなんだ。
「あ~こっちも好みです。一升瓶で欲しくなっちゃった」
「蔵元は県内にあるから今度連れて行こうか?」
「わっ、うれしいです! ぜひお願いします!」
ちょっと待って、なんで私はこんな約束しているの?
「それにしても、どうしていままで結婚しなかったんですか? 万理さん可哀想」
待って待って、なんで私……!
頭の片隅で必死に制止するものの、滑る口は止まらない。
「こんなかっこいいんだから、モテてモテてよりどりみどりだろうし。それなのに万理さんを十二年も待たせて。……その間に、なんとかならなかったんですか?」
止まらない私は、つい疑問に思っていたことを直接本人に問いただす。理性はどこへ行った⁉
すると酒を呑んでいた紅林さんは、私を見ながら片眉を上げた。
「適当な相手じゃ不幸だろ。どちらにとっても」
「適当?」
「気持ちもないのに結婚しても、ということ」
ムスッと口をへの字に曲げて、ふいっと横を見た。
つまり、形式だけの結婚は嫌で、ちゃんと好きな人をと思ったけれど、その相手に巡り合わなかった、ということか。
「父親は企業の役員をやっててね。いまでこそ会社は軌道に乗っているけれど、俺たちが幼い頃は倒産しかかっていて、気持ちも家計もギリギリで苦労したんだ。そんな中でもきちんと育て上げてくれた両親に、一人前になって結婚しましたよ、って言って安心させてやりたい。けれど、だからこそいい加減な気持ちではいけない気がして」
結果、妹に悪いことをしているけどな、と紅林さんは苦笑いした。
私は、自分一人の力でどうにもならないことだから仕方がないとは思いつつ、だからって偽の婚約者を仕立てるのも騙すようなものじゃないかと考えてしまう。
私がそう言うと、紅林さんは図星なのかわざとらしい咳払いをした。
「騙すって人聞き悪いな。たとえ嘘だとしても、それを胸の内に収めておけば、誰も傷付かない」
「詭弁じゃないですか」
「まあな。だが、万理はもうじき三十になる。俺が結婚しないことは俺個人の自由だが、それによって長いこと待たせた負い目もある。だから、この案に乗る――が」
「が?」
座卓にコップを置く、たん、という音が、やけに耳に響く。
紅林さんは、それまでの爽やかな雰囲気から打って変わって、黒い笑みを浮かべて身を乗り出した。
「俺にとって、渡りに船だった」
「……はっ?」
俺にとって、とはなんだ。疑問符しか浮かばない。
紅林さんは私との間にあった座卓を、ずずっと横によけ、二人の空間を一瞬で詰めてきた。
「綾香、俺と付き合って」
正面から向き合うと、その目力に屈して頷いてしまいそうだ。わずかにのけぞりながら、なんとかかわそうと明後日の方向を見る。
「またその冗談ですか。お酒呑み過ぎましたね、もう寝ましょう」
ハハハ、と乾いた笑いを漏らしながら立ち上がろうとすると、グッと手首を掴まれ引き留められた。
「ちょ、ちょっと!」
「結婚するなら綾香がいい」
「酩酊状態の口説き文句なんて、誰が信じられるものですか」
「ほろ酔い程度だし、俺、本気だから」
「酔ってる人ほど酔ってないって言うんですよ!」
「綾香」
引っ張られる力に、酔った体が抵抗できるわけもなく、あっさりと紅林さんの胸元へ倒れ込んでしまった。
思った以上に厚くて硬い胸板に、どきりとする。
「やめて……ください」
「綾香」
電話を受けた時に感じた腰にくるあのバリトンボイスが、耳を直撃した。
鼓膜にじわっと広がる甘い声は、無意識に体を震わせる。
「くればやし、さん……」
抵抗する力は、ない。いまのでまさに腰砕けになり、堪らず縋るように紅林さんの浴衣を掴んだ。
「駄目です」
「俺では駄目か?」
駄目ではない。むしろ好条件の申し出だからこそ、うっかり乗るわけにはいかない。
そもそも、「万理さんのお兄さん」であり「会社の人」だけど、今日が初対面なのだ。いきなり付き合ってくれ、結婚してくれって言われても、その前に考えなければならないことは山積みである。だいたい、好きとか、そういう感情は――と、思っていたんだけど。
「……ふりをする……間に……」
めったにない酩酊状態の私の口は、頭で考えていることとは違う言葉を吐き出した。
「婚約者のふりをする間に、私が紅林さんを好きになれたら……付き合ってもいいです」
ちょっと待ってよ‼ 言葉と気持ちが真逆を行き、かろうじて残っている理性がパニックを起こした。
どうしてこうなったんだ。付き合ってもいいとか、どの口が言う!
そこで、ふと視線の先にある物が目に入った。
布団。
あ、と私は口をぽかんと開ける。
そして、昨日『てまり』で万理さんに言った自分の言葉を思い出す。
――『家に帰らなきゃ、って時はそれほど酔わないですね。でも、家呑みとか旅行先とか、寝る場所がちゃんとそこにあるって時は……』
そうだ。私は、寝る場所がそこにあるとわかっていると、安心感から――確実に、酔う。
駄目じゃないか、そんな時にこんな約束しては!
しかし私の内心とは裏腹に、なぜか笑顔を紅林さんに向けてしまっていた。
「その笑顔、挑戦的だね」
「自信がないのですか?」
「いや、受けて立つよ」
紅林さんもにっこりと笑い、私の手を持ち上げ、掌にくちづけた。
「俺のものってことで、予約ね」
こちらを見上げながら、唇を落とされる。その場所が、火傷したかのように熱くなった。その熱が全身にじわじわと広がり、恥ずかしさが込み上げてきて、とてもいたたまれない。
「じゃ、そ、そういうことで!」
寝てしまえば、じきに朝が来る。朝が来たら万理さんも起きる。そこまでやり過ごせれば、何事もなかったように帰り、何事もなかったかのように明後日からの研修会で振る舞えるだろう。
「おやすみなさい」
そう言って体を離そうとしたけれど、いまだに手を掴まれたままなので動けない。これ以上触れていたらよくない気がして、早く離してほしかった。
「もう寝ましょう」
そう言っても手を掴まれたままで、どうしていいか途方に暮れる。やたらと密着するこの体勢も非常によろしくないから、距離を取りたいのに。
「ちょ、ちょっと、紅林さん」
「哲也」
「え?」
「お互い名前呼びじゃないと婚約者として格好付かないだろ? それに、ある程度、名前を呼び慣れてもらわなきゃ。もし街でばったり両親に会ったら、ぎこちなさばかりが目立つじゃないか」
そんなばったり会う機会なんてあるもんか……と思いつつ、口は「わかった」と答えていた。
「哲也、さん」
「呼び捨てがいいな」
「哲也……さん。うう、呼び捨ては、ちょっと……」
「まあいいか。でも、すごく親密さを感じるよ」
そういって、紅林さん……もとい、哲也さんは私の腰に手を回し、ぐっと抱き寄せた。体中が密着しているこの距離に、心臓が早鐘を打つ。恥ずかしくて体を離したいけど、なぜか力が入らない……これは、酔いのためか、それとも?
哲也さんは握った手を離し、今度は私の頬を包むように当てた。
「じゃあ、大人だしもっとわかり合おうか」
え、と思った時には、もう距離がゼロに詰められていた。
「あっ! ……ん、う……」
私の唇に触れたのは、私と同じか、それより少し硬い唇だった。少し斜めに触れ、また角度を変えて触れる。
キス。
私はいま、キスをされている。
脳裏には、その事実がぐるぐると回って焦ってるのに、それに対して抵抗らしきものを一切できずにいた。
それどころか触れられた直後には硬直していた体が、やがて火で炙られた蝋のようにドロドロに溶かされていく。
「んんっ……くれば……っ、ん、哲也さ……!」
何度も角度を変え、柔らかく食むように唇が重ねられ、堪らず声を上げる。すると、開いた私の口の中に、ぬめるなにかが滑り込んできた。
「っ、は、ぁ……!」
あまりのことに驚いた私は、歯を食いしばってしまい、ガチッと音がしてお互いの歯が当たる。不意打ちだったので、どうしていいのかわからなかったからだ。
「……っ」
これは哲也さんも想定外だった上に痛かったらしく、顔を離した。
「ご、ごめ……」
とっさに謝ろうと思ったけれど、いやいや先に無礼をしてきたのはそちらじゃないか。そう思ったら、自分が謝る必要はない気がして口を噤んだ。
「綾香ごめん。口、怪我してない?」
心配そうに私の唇へ親指を当てて傷がないかチェックしてくる。が、その指はなにかのスイッチかと思うくらい、心臓がバクバクする。
「大丈夫です。……でも、なんで……なんで私なんかに……」
キスを。
その言葉すら恥ずかしくて口に出せない。かああっと頬に熱が集まるのを感じた。
しかし哲也さんは、なんの躊躇もせず、さらりと口に出す。
「キスしたこと? それは綾香とキスしたいと思ったからだし、他には……うーん、相性を確かめるため、かな?」
「相性?」
「そう、体のね」
「かっ……!」
あけすけに言われ、ひっくり返りそうになった。こんな簡単なことなの? こんな当たり前の行為なの?
「それって、普通?」
あまりに驚き過ぎて、つい口走った。
すると哲也さんは、顎に手を当てながら、「う~ん」と首をかしげる。
「普通かどうかって言ったら……どうだろうね。もうそれなりにいい年だし、ある程度年齢が上がるとただ恋愛を楽しむってことより、結婚という目的あっての付き合いになる。となると、体の相性って大事じゃないか?」
「相性……って聞かれても、わからないわ」
「え? 肌に馴染むとか、生理的にやっぱり無理、とか……本能で感じる部分があるだろ」
「馴染む……? 本能……?」
「綾香」
「……ごめんなさい、私にはわからないです」
肌に馴染むとか言われてもさっぱりわからない。だって――
じわりと瞼が熱くなる。目が潤みだした私に、哲也さんは目を見開き、おろおろと慌て始めた。
「ごめん。嫌だったか」
強引にことを進めた自覚はあるのだろう。私が涙ぐんだ理由をそう受け取ったらしい哲也さんは、抱き寄せた腰を離して体を引く。しかし私は、哲也さんの腿に手を当てて引き留めた。
「違うんです」
そう、違う。私がいま、こんな顔をしているのは、決して彼のことが本能的に嫌だからとか、そういう理由ではない。
「私が悪いんです」
「綾香が? どうして」
「…………私、男性と……そういうことしたこと、なくて……」
恥じらいで一瞬言葉が喉につかえたけど、酔いのせいで堪え切れない。
処女。
二十八歳で、処女。
決して守ってきたわけでも、誰かに捧げるために取っておいているわけでもなく。
「誰かと付き合ったことある?」
「あります。大学生の頃、ですが……」
あの頃でも、私の周りで処女らしき人はいなかったように思う。
女友達同士で旅行に行くと、きわどい話がよく飛び交っていたが、私には未知の分野過ぎて、ただ聞き役に徹していた。面白がって詳細に語る友人らの話を聞いていて理解したのは、恋人との付き合いに『行為』は当然ついて回るもの、という認識だけ――
怖かった。
すごく気持ちがいい、と言われても、処女を失う時がとても痛いなどの話を同時にされ、マイナス面ばかりが印象に残った。
当時の彼氏は同い年で、男性にも女性にも人気があり、大変モテていた人だ。そんな人から告白され、舞い上がって付き合い始めたけれど、行為を怖がってプラトニックな関係を一ヶ月、三ヶ月、半年と続けるうちに、とうとう言われた。
『なんでヤらせてくれないの?』
『は? 処女? いまどきそんな化石みたいなやつ、いんの?』
『随分我慢したけど、もう限界』
彼氏にとって当たり前だった行為なのに、それをさせない私に苛立ちが募り、別れを切り出され――
それきり、新しく彼氏を作ることもなく、そんな雰囲気が出たらスッと身を引いていた。
お付き合いしたくないわけでも、結婚したくないわけでもない。
ただ「して当然」と、求められるのがすごく嫌だったのだ。
そんな思いを口にすることができず、処女なことをまた面倒そうに言われるのが怖くなって男性とはどんどん疎遠になっていった。
その当時の思いを、俯きながらぽつぽつと話す。アルコールの力があってこそ、過去の恥部をさらけ出せたのだと思う。
私が語り終えると、哲也さんは自分の腿に置かれた私の手に手を重ねる。
「綾香は、これからどうしたらいいと思う?」
「え……?」
洗いざらい喋ったので、はい解散、朝までぐっすり寝ましょうね、という流れかと思ったけど、そうではないようだ。
どうしたらいい、と言われても、なにに対してかさっぱり見当がつかない。
「してみたいか、したくないか、どっちだ」
「えっ……」
ストレートに質問され、一瞬言葉に詰まる。
「体の、関係……ですか?」
「そう。興味は?」
「それは、まあ……もう二十八歳なので、若干あり、ます……けど……」
「じゃあ、してみればいいじゃないか。前の彼氏のことを気にしているんだったら、なおさらどんなものか知ってみてもいいだろ? そんな風に、二十八歳で処女だって気に病むんならさ」
「ちょ、ちょっと! 紅林さん!」
「哲也だよ、綾香」
名前呼びと言われていたのに、すっかり苗字に戻っていた私に釘をさす。
「あっ……。えっと……、て、哲也さん、そんな……」
「一人で思い悩んだところで結論は出ないし、だったら経験の一つもしてみないか? 相手が俺では不満というなら仕方がないけど」
彼の膝に置いていた私の手を取り、哲也さんは気障に手の甲へくちづけを落とした。
――それが熱情の導火線に火をつける。
その炎は、あっという間に熱を全身へ広げていく。熱くて、ドキドキして、なんだか……ムズムズする。
「単純に考えろ。――綾香はセックス、したい?」
耳から伝わった声に頭が判断を下す前に、気付いたらこくりと頷いていた。
ああ、熱に浮かされたみたいだ。
アルコールのせいもあるけれど、やたらと思考がふわふわして、通常の思考回路を保てていない。
とろんとした、だらしのない顔をしている自覚はある。
そんな私を見て、紅林さ……ううん、てつや……哲也さんは、口の端をクッと上げて意地悪な笑みを浮かべた。
「了解した。俺に任せろ」
ずしん、と下腹に響く声が耳元でしたと思ったら、あっという間に敷かれた布団の上へ運ばれる。え、え、と目を瞬かせていると、浴衣の袷から左右にがばりと剥かれ、両肩が露わとなった。
「わっ……! あれっ、あの、えっ、いまから、ですかっ」
「もちろんだよ」
「心の準備が!」
「心の準備を何年してた? 先でも後でも変わらないよ。もう腹を括れ」
彼の手が背に回り、肩をトンと押されて布団に転がされた。そこへ哲也さんが覆いかぶさり、身動きできなくなる。
「どうしても嫌ならやめる」
とても近い距離で、哲也さんと視線がぶつかる。熱を持ったその瞳は、私の凝った気持ちを溶かしてしまいそうだ。
でも、今日、会ったばかり……!
「い……いや……」
「うん? その反応は、どうしても嫌って程じゃないようだな。じゃ、しようか」
「えええええっ!」
嫌、と一応伝えてみたものの、あっさりとかわされてしまう。
でも。正直な気持ちは……してみたい。
もしかして、それが透けて見えてしまったのか。
――メールと電話だけで交流のあった会社の人で、今日ほぼ初対面で、万理さんのお兄さん。
理性は、これらの情報を盾にやめておけ、とブレーキをかけている。けれど、自分でも気付かない本能の部分が、哲也さんに手を伸ばしたのだ。
哲也さんは、私のおでこに掛かる髪をサラッと掻き上げ、ちゅっと音を立ててキスをする。
「わっ! ……ね、哲也さん、私それ恥ずかしい」
「どうして?」
「おでこ……広いから」
子どもの頃からのコンプレックスで、普段からちょっと厚めに前髪を作ってあるのに、いきなりキスとか! と顔に火がついたように熱くなる。
そんな抗議の声を上げると、哲也さんは目を丸くし、次いでぷっと噴き出した。
「つるんとしてて、剥きたての卵みたくて可愛いよ、綾香」
その顔で、その声で、その笑顔で、その台詞はずるい。
「いつかは、と言っているうちに結婚どころか恋愛できなくなるぞ。ずっと処女でいることにコンプレックスあるなら、俺に託せ」
お盆を持って座卓まで運ぶと、コップをそれぞれの前に置いて缶を開け、二つのコップに注いでいく。
「じゃ、乾杯ということで」
「二次会だな」
「ふふっ、そうですね」
触れるだけに留めたコップが、コチ、と鈍く鳴る。私の視線はその振動を感じた途端、紅林さんのコップを持つ手に吸い込まれた。
小さめのコップが、更に小さく見えるほど大きな手――
ゴツゴツと骨張り、指の先までいかにも男らしさを感じる。
「――どうした?」
先にビールを呑み干した紅林さんが、コップを持ったまま動きを止めた私を訝しみ声をかける。
その言葉に、はっと我に返った私は、「い、いえ、なんでもありません!」と手に持ったビールを一気に呷った。
「ハイハイ、次! コップこっちに置いてください!」
二缶目のビールを慌てて開け、空いたコップ二つに注いでいく。
――彼の手を見て、男の人だ、って意識してしまったなんて、言えない。
改めて正面に座るこの人が、万理さんの兄とか同じ会社の人とかという以前に、眉目秀麗で……そして『やたらと声が腰にくる』と会社で噂になっていた男性なのだと思い知った。
その人が、目の前にいる。
「く、紅林さんてお酒強いんですね。びっくりしちゃった」
私は注いだばかりのビールをまたも一気に呷り、立ち上がって冷蔵庫からワインを持ち出した。部屋に着くなり冷やしておいたので、やけに火照っているいまの体にはちょうどいい。
「それを言うなら望月さんこそ。あ、俺がやるよ」
ワインのコルクがうまく抜けなくて、紅林さんにお任せする。
「でも、わりと酔っているかもです。ほら、現に力が入らなくて」
「それでもすごいと思うよ。女性でこれだけ呑める人、初めてだ」
「呑める女は、お嫌いですか?」
「いや、むしろ好きだよ」
ハハハ、と笑ってワインを注いだコップを持ち上げる。しかし私は、どうにも動悸が治まらない。
――むしろ好きだよ。
――好きだよ。
呑める女が好きかどうかと聞いたことに答えただけで、深い意味はない。
そう自分に言い聞かせるものの、男性とのお付き合いに枯れて久しい独身女には、その言葉は刺激が強かった。
深い意味はない。もう一度そう胸に刻みながら私もワインを呑んだ。
「話が合って、食の好みが似てて、一人を謳歌している。そういう人が好みだからな」
……ん?
「丁寧に書類を整え、資料にはわかりやすく図をつけるなど気配りができ、更にはとてもかわいらしい声ではきはきと話す。そんな彼女に会ってみたかったし、こうして実現できたのはうれしい」
……え? なんだろう、急に、なにか、雰囲気が……
「その上、妹の頼みを聞いてくれて。……期間限定とはいえ婚約者になれたのは光栄だな」
……あの?
勘違いしないようにと必死に考えるけれど、どうしても私のことに聞こえて仕方がない。
いやいや、まさかまさか。
「だいぶ酔っておられますね。私はまだまだですよ!」
タン、とふたたびコップを空にしてテーブルに置き、紅林さんにワインを注ぐよう促した。
目の前の色男が、突然自分を褒め出し、あまつさえ婚約者になれて光栄だとか、なんの冗談だろう。彼は、平気なふりしてだいぶ酔いが回っているようだ。これ以上、惑わされるのは嫌なので、ここは潰すに限る。
紅林さんは私のコップに、トクトクと音を立てながらワインを注いだ。
「酔ってなんかいないよ。俺は綾香に興味があったから」
「あの、いきなり名前で、しかも呼び捨てはやめていただけませんか」
「婚約者だからいいだろう」
「紅林家の御両親の前だけだと認識しておりますが!」
「俺はこれが本当になってくれるとうれしい」
「……はっ?」
持っていたコップを危うく取り落とすところだった。
いま、なんて言った?
「本当って……」
「結婚しよう」
「……っ⁉ あ、の……? 婚約するふりなら、しますよ」
「だから、本当に……年前からずっと……」
「え?」
あまりよく聞こえなかったけれど、これは駄目だ、紅林さんは相当酔っていらっしゃる。
顔色一つ変えず冗談が言えるなど、タチの悪い酒癖だ。
もうここはさっさと布団を敷いて寝てしまうべきか。
「理由ならある。綾香の仕事の誠実さと、万理から聞いていた可愛い常連さんの情報と、あとは……前に食べた――」
「はいはい。それじゃ、お布団敷きますので支度済ませてくださいね。洗面所に予備の歯磨きセットがありますから」
適当に返事をしつつ寝る準備をさせようと声をかける。それから私はコップ一杯分のワインを、ごくごくと水のように呑み干した。
紅林さんはブツブツ言いながらも洗面所に行ったので、その隙にと布団を敷き始める。
一組はもう宿の人が敷いてくれていたけれど、紅林さんの分は自分で敷かなければならない。
使っていた座卓を移動させて二組の布団の間に置き、仕切り代わりとする。それから敷布団、シーツなどテキパキと準備した。そして紅林さんが戻ってきたのと入れ替わりに、私も洗面所へ行く。
顔を洗ったり歯を磨いたりと寝支度を整え部屋に戻ると、すでに部屋は暗くなり、枕元に置かれた小さなライトのみが灯っていたが、紅林さんは座卓の前に座っていた。
「もう一杯だけ呑みたい」
あれだけ呑んでまだ呑むか、と一瞬思ったけれど、呑んで潰れてくれたら助かる。
「……じゃあ、少しだけ」
一応渋るふりを見せながら、しかし結局自分ももう一杯呑もうとしているのもたいがいだと思う。
冷蔵庫に置いてあるのは、もう日本酒のワンカップ利き酒三本セットだけだった。これなら少量でちょうどいいかなと手に持ち、座卓に並べる。
「隣、座らないか」
「いえ、こちらで」
隣に座るのは危険な気がする。しかし対面になるのもあからさま過ぎかと思い、机の角を挟んではす向かいに座ることにした。
「改めまして、乾杯」
一つを紅林さんへ、もう一つは自分の前に置き、ワンカップのふたを開けて乾杯する。最初の一口はすぐに呑み込まず、鼻に抜ける匂いを楽しんでから喉に流した。
「んー、これ好みですね。キツさがなくて」
「こっちも割と尖りが少ない気がする」
「味見させてください」
そう言って交換し、呑む。うん、これも大変美味しい。
……って、あれっ? なんで私はこんなことをしているんだろう。ついさっき、危険過ぎるとか思ったばかりなのに、回し呑みするなんてこの警戒心のなさはなんだ。
「あ~こっちも好みです。一升瓶で欲しくなっちゃった」
「蔵元は県内にあるから今度連れて行こうか?」
「わっ、うれしいです! ぜひお願いします!」
ちょっと待って、なんで私はこんな約束しているの?
「それにしても、どうしていままで結婚しなかったんですか? 万理さん可哀想」
待って待って、なんで私……!
頭の片隅で必死に制止するものの、滑る口は止まらない。
「こんなかっこいいんだから、モテてモテてよりどりみどりだろうし。それなのに万理さんを十二年も待たせて。……その間に、なんとかならなかったんですか?」
止まらない私は、つい疑問に思っていたことを直接本人に問いただす。理性はどこへ行った⁉
すると酒を呑んでいた紅林さんは、私を見ながら片眉を上げた。
「適当な相手じゃ不幸だろ。どちらにとっても」
「適当?」
「気持ちもないのに結婚しても、ということ」
ムスッと口をへの字に曲げて、ふいっと横を見た。
つまり、形式だけの結婚は嫌で、ちゃんと好きな人をと思ったけれど、その相手に巡り合わなかった、ということか。
「父親は企業の役員をやっててね。いまでこそ会社は軌道に乗っているけれど、俺たちが幼い頃は倒産しかかっていて、気持ちも家計もギリギリで苦労したんだ。そんな中でもきちんと育て上げてくれた両親に、一人前になって結婚しましたよ、って言って安心させてやりたい。けれど、だからこそいい加減な気持ちではいけない気がして」
結果、妹に悪いことをしているけどな、と紅林さんは苦笑いした。
私は、自分一人の力でどうにもならないことだから仕方がないとは思いつつ、だからって偽の婚約者を仕立てるのも騙すようなものじゃないかと考えてしまう。
私がそう言うと、紅林さんは図星なのかわざとらしい咳払いをした。
「騙すって人聞き悪いな。たとえ嘘だとしても、それを胸の内に収めておけば、誰も傷付かない」
「詭弁じゃないですか」
「まあな。だが、万理はもうじき三十になる。俺が結婚しないことは俺個人の自由だが、それによって長いこと待たせた負い目もある。だから、この案に乗る――が」
「が?」
座卓にコップを置く、たん、という音が、やけに耳に響く。
紅林さんは、それまでの爽やかな雰囲気から打って変わって、黒い笑みを浮かべて身を乗り出した。
「俺にとって、渡りに船だった」
「……はっ?」
俺にとって、とはなんだ。疑問符しか浮かばない。
紅林さんは私との間にあった座卓を、ずずっと横によけ、二人の空間を一瞬で詰めてきた。
「綾香、俺と付き合って」
正面から向き合うと、その目力に屈して頷いてしまいそうだ。わずかにのけぞりながら、なんとかかわそうと明後日の方向を見る。
「またその冗談ですか。お酒呑み過ぎましたね、もう寝ましょう」
ハハハ、と乾いた笑いを漏らしながら立ち上がろうとすると、グッと手首を掴まれ引き留められた。
「ちょ、ちょっと!」
「結婚するなら綾香がいい」
「酩酊状態の口説き文句なんて、誰が信じられるものですか」
「ほろ酔い程度だし、俺、本気だから」
「酔ってる人ほど酔ってないって言うんですよ!」
「綾香」
引っ張られる力に、酔った体が抵抗できるわけもなく、あっさりと紅林さんの胸元へ倒れ込んでしまった。
思った以上に厚くて硬い胸板に、どきりとする。
「やめて……ください」
「綾香」
電話を受けた時に感じた腰にくるあのバリトンボイスが、耳を直撃した。
鼓膜にじわっと広がる甘い声は、無意識に体を震わせる。
「くればやし、さん……」
抵抗する力は、ない。いまのでまさに腰砕けになり、堪らず縋るように紅林さんの浴衣を掴んだ。
「駄目です」
「俺では駄目か?」
駄目ではない。むしろ好条件の申し出だからこそ、うっかり乗るわけにはいかない。
そもそも、「万理さんのお兄さん」であり「会社の人」だけど、今日が初対面なのだ。いきなり付き合ってくれ、結婚してくれって言われても、その前に考えなければならないことは山積みである。だいたい、好きとか、そういう感情は――と、思っていたんだけど。
「……ふりをする……間に……」
めったにない酩酊状態の私の口は、頭で考えていることとは違う言葉を吐き出した。
「婚約者のふりをする間に、私が紅林さんを好きになれたら……付き合ってもいいです」
ちょっと待ってよ‼ 言葉と気持ちが真逆を行き、かろうじて残っている理性がパニックを起こした。
どうしてこうなったんだ。付き合ってもいいとか、どの口が言う!
そこで、ふと視線の先にある物が目に入った。
布団。
あ、と私は口をぽかんと開ける。
そして、昨日『てまり』で万理さんに言った自分の言葉を思い出す。
――『家に帰らなきゃ、って時はそれほど酔わないですね。でも、家呑みとか旅行先とか、寝る場所がちゃんとそこにあるって時は……』
そうだ。私は、寝る場所がそこにあるとわかっていると、安心感から――確実に、酔う。
駄目じゃないか、そんな時にこんな約束しては!
しかし私の内心とは裏腹に、なぜか笑顔を紅林さんに向けてしまっていた。
「その笑顔、挑戦的だね」
「自信がないのですか?」
「いや、受けて立つよ」
紅林さんもにっこりと笑い、私の手を持ち上げ、掌にくちづけた。
「俺のものってことで、予約ね」
こちらを見上げながら、唇を落とされる。その場所が、火傷したかのように熱くなった。その熱が全身にじわじわと広がり、恥ずかしさが込み上げてきて、とてもいたたまれない。
「じゃ、そ、そういうことで!」
寝てしまえば、じきに朝が来る。朝が来たら万理さんも起きる。そこまでやり過ごせれば、何事もなかったように帰り、何事もなかったかのように明後日からの研修会で振る舞えるだろう。
「おやすみなさい」
そう言って体を離そうとしたけれど、いまだに手を掴まれたままなので動けない。これ以上触れていたらよくない気がして、早く離してほしかった。
「もう寝ましょう」
そう言っても手を掴まれたままで、どうしていいか途方に暮れる。やたらと密着するこの体勢も非常によろしくないから、距離を取りたいのに。
「ちょ、ちょっと、紅林さん」
「哲也」
「え?」
「お互い名前呼びじゃないと婚約者として格好付かないだろ? それに、ある程度、名前を呼び慣れてもらわなきゃ。もし街でばったり両親に会ったら、ぎこちなさばかりが目立つじゃないか」
そんなばったり会う機会なんてあるもんか……と思いつつ、口は「わかった」と答えていた。
「哲也、さん」
「呼び捨てがいいな」
「哲也……さん。うう、呼び捨ては、ちょっと……」
「まあいいか。でも、すごく親密さを感じるよ」
そういって、紅林さん……もとい、哲也さんは私の腰に手を回し、ぐっと抱き寄せた。体中が密着しているこの距離に、心臓が早鐘を打つ。恥ずかしくて体を離したいけど、なぜか力が入らない……これは、酔いのためか、それとも?
哲也さんは握った手を離し、今度は私の頬を包むように当てた。
「じゃあ、大人だしもっとわかり合おうか」
え、と思った時には、もう距離がゼロに詰められていた。
「あっ! ……ん、う……」
私の唇に触れたのは、私と同じか、それより少し硬い唇だった。少し斜めに触れ、また角度を変えて触れる。
キス。
私はいま、キスをされている。
脳裏には、その事実がぐるぐると回って焦ってるのに、それに対して抵抗らしきものを一切できずにいた。
それどころか触れられた直後には硬直していた体が、やがて火で炙られた蝋のようにドロドロに溶かされていく。
「んんっ……くれば……っ、ん、哲也さ……!」
何度も角度を変え、柔らかく食むように唇が重ねられ、堪らず声を上げる。すると、開いた私の口の中に、ぬめるなにかが滑り込んできた。
「っ、は、ぁ……!」
あまりのことに驚いた私は、歯を食いしばってしまい、ガチッと音がしてお互いの歯が当たる。不意打ちだったので、どうしていいのかわからなかったからだ。
「……っ」
これは哲也さんも想定外だった上に痛かったらしく、顔を離した。
「ご、ごめ……」
とっさに謝ろうと思ったけれど、いやいや先に無礼をしてきたのはそちらじゃないか。そう思ったら、自分が謝る必要はない気がして口を噤んだ。
「綾香ごめん。口、怪我してない?」
心配そうに私の唇へ親指を当てて傷がないかチェックしてくる。が、その指はなにかのスイッチかと思うくらい、心臓がバクバクする。
「大丈夫です。……でも、なんで……なんで私なんかに……」
キスを。
その言葉すら恥ずかしくて口に出せない。かああっと頬に熱が集まるのを感じた。
しかし哲也さんは、なんの躊躇もせず、さらりと口に出す。
「キスしたこと? それは綾香とキスしたいと思ったからだし、他には……うーん、相性を確かめるため、かな?」
「相性?」
「そう、体のね」
「かっ……!」
あけすけに言われ、ひっくり返りそうになった。こんな簡単なことなの? こんな当たり前の行為なの?
「それって、普通?」
あまりに驚き過ぎて、つい口走った。
すると哲也さんは、顎に手を当てながら、「う~ん」と首をかしげる。
「普通かどうかって言ったら……どうだろうね。もうそれなりにいい年だし、ある程度年齢が上がるとただ恋愛を楽しむってことより、結婚という目的あっての付き合いになる。となると、体の相性って大事じゃないか?」
「相性……って聞かれても、わからないわ」
「え? 肌に馴染むとか、生理的にやっぱり無理、とか……本能で感じる部分があるだろ」
「馴染む……? 本能……?」
「綾香」
「……ごめんなさい、私にはわからないです」
肌に馴染むとか言われてもさっぱりわからない。だって――
じわりと瞼が熱くなる。目が潤みだした私に、哲也さんは目を見開き、おろおろと慌て始めた。
「ごめん。嫌だったか」
強引にことを進めた自覚はあるのだろう。私が涙ぐんだ理由をそう受け取ったらしい哲也さんは、抱き寄せた腰を離して体を引く。しかし私は、哲也さんの腿に手を当てて引き留めた。
「違うんです」
そう、違う。私がいま、こんな顔をしているのは、決して彼のことが本能的に嫌だからとか、そういう理由ではない。
「私が悪いんです」
「綾香が? どうして」
「…………私、男性と……そういうことしたこと、なくて……」
恥じらいで一瞬言葉が喉につかえたけど、酔いのせいで堪え切れない。
処女。
二十八歳で、処女。
決して守ってきたわけでも、誰かに捧げるために取っておいているわけでもなく。
「誰かと付き合ったことある?」
「あります。大学生の頃、ですが……」
あの頃でも、私の周りで処女らしき人はいなかったように思う。
女友達同士で旅行に行くと、きわどい話がよく飛び交っていたが、私には未知の分野過ぎて、ただ聞き役に徹していた。面白がって詳細に語る友人らの話を聞いていて理解したのは、恋人との付き合いに『行為』は当然ついて回るもの、という認識だけ――
怖かった。
すごく気持ちがいい、と言われても、処女を失う時がとても痛いなどの話を同時にされ、マイナス面ばかりが印象に残った。
当時の彼氏は同い年で、男性にも女性にも人気があり、大変モテていた人だ。そんな人から告白され、舞い上がって付き合い始めたけれど、行為を怖がってプラトニックな関係を一ヶ月、三ヶ月、半年と続けるうちに、とうとう言われた。
『なんでヤらせてくれないの?』
『は? 処女? いまどきそんな化石みたいなやつ、いんの?』
『随分我慢したけど、もう限界』
彼氏にとって当たり前だった行為なのに、それをさせない私に苛立ちが募り、別れを切り出され――
それきり、新しく彼氏を作ることもなく、そんな雰囲気が出たらスッと身を引いていた。
お付き合いしたくないわけでも、結婚したくないわけでもない。
ただ「して当然」と、求められるのがすごく嫌だったのだ。
そんな思いを口にすることができず、処女なことをまた面倒そうに言われるのが怖くなって男性とはどんどん疎遠になっていった。
その当時の思いを、俯きながらぽつぽつと話す。アルコールの力があってこそ、過去の恥部をさらけ出せたのだと思う。
私が語り終えると、哲也さんは自分の腿に置かれた私の手に手を重ねる。
「綾香は、これからどうしたらいいと思う?」
「え……?」
洗いざらい喋ったので、はい解散、朝までぐっすり寝ましょうね、という流れかと思ったけど、そうではないようだ。
どうしたらいい、と言われても、なにに対してかさっぱり見当がつかない。
「してみたいか、したくないか、どっちだ」
「えっ……」
ストレートに質問され、一瞬言葉に詰まる。
「体の、関係……ですか?」
「そう。興味は?」
「それは、まあ……もう二十八歳なので、若干あり、ます……けど……」
「じゃあ、してみればいいじゃないか。前の彼氏のことを気にしているんだったら、なおさらどんなものか知ってみてもいいだろ? そんな風に、二十八歳で処女だって気に病むんならさ」
「ちょ、ちょっと! 紅林さん!」
「哲也だよ、綾香」
名前呼びと言われていたのに、すっかり苗字に戻っていた私に釘をさす。
「あっ……。えっと……、て、哲也さん、そんな……」
「一人で思い悩んだところで結論は出ないし、だったら経験の一つもしてみないか? 相手が俺では不満というなら仕方がないけど」
彼の膝に置いていた私の手を取り、哲也さんは気障に手の甲へくちづけを落とした。
――それが熱情の導火線に火をつける。
その炎は、あっという間に熱を全身へ広げていく。熱くて、ドキドキして、なんだか……ムズムズする。
「単純に考えろ。――綾香はセックス、したい?」
耳から伝わった声に頭が判断を下す前に、気付いたらこくりと頷いていた。
ああ、熱に浮かされたみたいだ。
アルコールのせいもあるけれど、やたらと思考がふわふわして、通常の思考回路を保てていない。
とろんとした、だらしのない顔をしている自覚はある。
そんな私を見て、紅林さ……ううん、てつや……哲也さんは、口の端をクッと上げて意地悪な笑みを浮かべた。
「了解した。俺に任せろ」
ずしん、と下腹に響く声が耳元でしたと思ったら、あっという間に敷かれた布団の上へ運ばれる。え、え、と目を瞬かせていると、浴衣の袷から左右にがばりと剥かれ、両肩が露わとなった。
「わっ……! あれっ、あの、えっ、いまから、ですかっ」
「もちろんだよ」
「心の準備が!」
「心の準備を何年してた? 先でも後でも変わらないよ。もう腹を括れ」
彼の手が背に回り、肩をトンと押されて布団に転がされた。そこへ哲也さんが覆いかぶさり、身動きできなくなる。
「どうしても嫌ならやめる」
とても近い距離で、哲也さんと視線がぶつかる。熱を持ったその瞳は、私の凝った気持ちを溶かしてしまいそうだ。
でも、今日、会ったばかり……!
「い……いや……」
「うん? その反応は、どうしても嫌って程じゃないようだな。じゃ、しようか」
「えええええっ!」
嫌、と一応伝えてみたものの、あっさりとかわされてしまう。
でも。正直な気持ちは……してみたい。
もしかして、それが透けて見えてしまったのか。
――メールと電話だけで交流のあった会社の人で、今日ほぼ初対面で、万理さんのお兄さん。
理性は、これらの情報を盾にやめておけ、とブレーキをかけている。けれど、自分でも気付かない本能の部分が、哲也さんに手を伸ばしたのだ。
哲也さんは、私のおでこに掛かる髪をサラッと掻き上げ、ちゅっと音を立ててキスをする。
「わっ! ……ね、哲也さん、私それ恥ずかしい」
「どうして?」
「おでこ……広いから」
子どもの頃からのコンプレックスで、普段からちょっと厚めに前髪を作ってあるのに、いきなりキスとか! と顔に火がついたように熱くなる。
そんな抗議の声を上げると、哲也さんは目を丸くし、次いでぷっと噴き出した。
「つるんとしてて、剥きたての卵みたくて可愛いよ、綾香」
その顔で、その声で、その笑顔で、その台詞はずるい。
「いつかは、と言っているうちに結婚どころか恋愛できなくなるぞ。ずっと処女でいることにコンプレックスあるなら、俺に託せ」
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