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1巻
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1
『――以上、よろしくお願いします。
望月綾香』
タン、とパソコンのエンターキーを押し、私はメールを送信した。それから凝り固まった背中をほぐすべく、両手をググッと上げて伸びをする。すると、そんな私の様子を見ていたらしい先輩から、早速声がかかった。
「どう? 望月さん終わった?」
「あ、はーい! 先輩、確認お願いします」
私は提出書類をまとめ、先輩に渡した。四歳年上の綿貫郁美先輩は、私の指導をしてくれる人で、とても頼りになる。彼女は机に並べた書類をザッと見てから、にっこり笑って、ある一部分に指先をトン、と付けた。
「ここ、去年の数字」
「あっ!」
「あとは大丈夫よ。それを直したら、今日はもう仕事上がりましょうね」
「はい! ありがとうございます、先輩!」
急いで直し、保存する。これでいまやっている仕事の、一応の区切りはついた。また次の嵐が来るまで小休止できそうだ。
いま、私が作っていた資料は、来週から行われる『リーダー研修会』のためのもの。
リーダー研修会とは、新規事業計画を立てるにあたり、全国の支店でアイデアをまとめ、代表者を一名ずつ選出して本社で実施される社内コンペのことを言う。そしてそれは、二週間の短期決戦で行われる。前半の一週間は講師を招いて研修が、後半の一週間は研修参加者と審査員である本社の重役のみが出席できる極秘プレゼンが予定されている。
これは二年に一度行われるもので、コンペの優勝者には金一封が出るし、昇進の確約ももらえるそうだ。そして翌年度から本社勤務となり、先頭に立ってその企画を進めていくこととなる。更に、その企画者を送り出した支社にも、大きな恩恵があるようだ。だから研修期間中は、本社全体がピリピリしていて緊張感に包まれている。
本社勤務の私は、その研修会の運営メンバーの一員に選ばれて以来、かなり神経をすり減らしながら仕事をしていた。
……といっても、私は事務というか、裏方の一員なのだけれど。私は関係各所への連絡、日程の調整や宿泊場所、会議室の使用予約、講師や食事の手配などを担っている。
大学を卒業して以来、もう六年近く同じ部署にいるけれど、この研修会に直接関わるのは初めてだ。以前行われた時に、先輩の仕事を手伝い、それなりに手法は学んでいたからなんとかなっているけれど、無事最後まで乗り切れるか少々不安が残る。
「望月さん、変更できた?」
「はい、終わりました」
机の上に雑然と置かれた書類やカタログなどを片付けていたら、帰り支度を済ませた綿貫先輩が声をかけてきた。
「これから他部署の人と女子会があるんだけど、一緒に行かない? 来週から忙しくなるから、その前に呑もうよ」
綿貫先輩は私が入社して以来、公私ともにとてもよくしてくれている。地方から出てきた私にとってお姉さんのような存在で、仕事をする上での目標でもある。でも――
「ごめんなさい! 今日は『てまり』に行く約束をしてるんです」
「ああ、『てまり』に?」
「それに、明日はいつものトコに行くので、支度しないと」
「あー、あそこね、了解。それだけ気に入ってもらえたなんて紹介者冥利に尽きるわ。うん、わかった、また今度ね。それにしても望月さん、今回の仕事、ほんとよく捌けてるよ。今度、成長のお祝いとして美味しいお酒を奢るね!」
「ありがとうございます!」
手放しで褒められて、なんだかこそばゆい。
じゃあね、と先輩は手をヒラヒラさせながらフロアをあとにした。私も机を整頓し終えたので立ち上がる。そして忘れ物がないか確認したあとバッグを肩にかけ、会社のエントランスに向かう。
周りにはちらほらと残業する人たちがいるため、小声で「お先に失礼します」と挨拶をして歩き出した。
いまから行く『てまり』は、会社の最寄り駅近くの、行きつけの小料理屋だ。入社当時、へとへとになりながら立ち寄ったところ、そこの店主と年齢が近いこともあって意気投合。以来仲良くさせてもらっている。店主は一人暮らしの私のために、作り置きできる料理のレシピを教えてくれたり、お弁当作りのアドバイスをくれたり、野菜をちゃんと食べなさいよと惣菜を持ち帰らせてくれたりする。
たまに綿貫先輩と行くこともあるけれど、一人で行くのが常だ。
すっかり通いなれた道を歩く。帰宅ラッシュの時間帯より少し遅いので、人の波は食事や呑みに行くのだろうか、賑やかな雰囲気になっていた。
少し歩くと、小さな看板が見えてくる。カフェを目印に大通りから脇道へと曲がり、数十メートル行った先の、一階に雑貨屋が入っている建物で――その脇にある細い階段を上ったところ。言葉で伝えるには少々ややこしい場所に、『てまり』はある。
濃紺の暖簾をくぐり、引き戸をカラカラと開ける。すると、甘辛いたれの焦げる香りが漂い空腹を刺激する。その途端、お腹がきゅうっと小さく鳴った。
「綾ちゃん! 待ってたよ~!」
私が店内に入ると、カウンターの中にいた店主がパッと顔を輝かせた。
「万理さん、こんばんは」
勝手知ったるなんとやらで、出入り口付近にあるレジ横のハンガーにコートを掛け、カウンターの一番端に腰掛ける。ここは私の定位置で、カウンターの中にいる万理さんと話がしやすいのだ。
カウンターの上にある大鉢には、里芋の煮っ転がし、鯖の煮つけ、肉じゃが、ほうれん草としめじの胡麻和えなど、定番ものから季節のものまでずらりと料理が並ぶ。
「とりあえず生! それから、そこにある胡麻和えと、秋刀魚の梅煮と、桜海老入りの出し巻き卵が食べたいです!」
「あら珍しい。いつもだったら最初は『ガッツリ肉食べたい~』って注文するのに」
店の壁に貼られたメニューの短冊を見ながら注文する私に、おしぼりを持ってきた万理さんは目を丸くする。
「へへ。だって明日から一人慰安旅行ですもん。だから今日はちょっと軽めで」
「そうなの?」
「大きな仕事の準備がようやく終わったから、自分にご褒美ですよ」
話しながらも、万理さんはこんもりときめ細かな泡が載ったビールのジョッキと、秋茄子とシラスを煮た小鉢を私の前に並べる。今日のお通しは私の大好物で早速手を伸ばしたいところだけど、まずは――
「いただきます!」
ジョッキを持ち、ふわふわの泡に口を付けて黄金色の酒で喉を潤す。あっという間に半分まで呑んでしまい、喉越しの素晴らしさにふぅぅっと息をついた。
「相変わらず、いい呑みっぷりね」
「ええ、このためだけに生きていますから!」
お酒を呑み始めた当初は、ビールなんて苦くてまずい! と思っていたのに、いまでは欠かせないものになっている。
嬉々として呑む私に、万理さんは苦笑しながらキッチンに戻る。
私はいったんジョッキを置いて、箸を手に取り秋茄子をつまみつつ、明日のことを考えた。
一人慰安旅行――
行き先は綿貫先輩に紹介された民宿だ。数年前までは友人たちと行っていたのだけれど、そのうち彼ができた、結婚した、と一人ずつ都合が付きづらくなり、とうとう一緒に行けるメンバーがいなくなってしまった。しかし定宿にしていたそこの温泉と料理が大変好みで、えいっと勇気を出して一人で宿泊してみたら……ゆっくりと羽を伸ばせて快適だった。
それに気をよくして、思わず翌月の予約をその場で取ったほどだ。
それからは一人カフェ、一人ファミレス、一人ラーメン、などを次々と攻略し、行動範囲が広がっていった。いまでは一人居酒屋も行けるようになったので、日常が充実している。
やがて一人での行動は、時間の自由がとてもきくことに気付いた。
友人と過ごすのは楽しいけれど、日時をすり合わせ、食事などの場所もお互いの好みを探り……などは、一人での行動に慣れてくると正直ちょっと億劫だ。
とはいえ付き合いも大事にしたい、とランチやお茶など短時間で、友人と会うようにしていた。けれども最近では話題すら合わなくなってしまっている。
彼が、と言われても、私にはいない。
夫が、と言われても、私にはいない。
たとえば彼との結婚話が話題に出たとする。そんな時は既婚者に相談したいだろうし、既婚者も経験談を話せる。けれども私には、すごいね、おめでとう、と言う以外、出る幕がないのだ。
だから友人たちとは徐々に距離を取りつつ、代わりに一人での生活をどんどん充実させていった。
仕事もやりがいがあるし、早く終わる日はジムに行ったり、『てまり』で食事をしたり、万理さんに教わったレシピで常備菜を作ったり――という毎日を送っている。
一応、友人たちの動向を把握するため……というか、付き合いの一環としてSNSを眺める。けれども私は取り立てて書くことがないし、書いたところで「いいね、独身貴族は」「ほんと! 私なんて一人の自由な時間がなくて」――と余計な刺激を与えるだけなので、もっぱら読む専門となっていた。
ビールを呑みながら、スマートフォンを弄って日課のSNSサイト巡りをする。
それぞれの日常を切り取った写真と、それに続くどこまで本音かわからない賞賛コメントの数々。それらを、なかば義務的に追い、一通り読み終わるとスマートフォンをバッグにしまった。
常にテーブルに置いておくほど急ぎの用事はないし、SNSでの繋がりからは、できるだけ離れていたいのだ。
「いらっしゃいませ!」
「いらっしゃいませ! 何名様ですか? はい、ではコートをこちらでお預かりしますね!」
店は路地裏の二階というわかりにくい場所なのに、口コミで評判が広まっているのか、あっという間に席が埋まる。店主の万理さんはテキパキと配膳や調理をこなし、アルバイトの子も店内を行ったり来たりと大忙しだ。
そんな中、私は骨まで柔らかくなった秋刀魚の梅煮を堪能する。ついでに日本酒を注文し、どんどん盃を空けていく。
そうこうしているうちに店内の賑わいは落ち着き、何組かが退店していった。『てまり』は終電時間近くまでの営業なので、もう少しで閉店だ。
私が一人暮らしをするアパートはこの店から徒歩圏内だけど、明日もあることだし、そろそろここを出なければ。
そう思いつつ、やっぱりあと一本いこうかな、とお酒を注文する。すると、万理さんがクスクス笑いながらキッチンから出てきた。
「綾ちゃん、駄目じゃない。軽く呑むって言ってたのに、これじゃいつもと変わらないわ」
「あれ、そうでした?」
「お酒好きだし、強いよね~。私、綾ちゃんが前後不覚になるところ見てみたいわ」
「家に帰らなきゃ、って時はそれほど酔わないですね。でも、家呑みとか旅行先とか、寝る場所がちゃんとそこにあるって時は……うっ、頭が! 思い出したくないって言ってる!」
いまでこそザルと呼ばれる私だけど、お酒を嗜み始めた頃は潰れることが多々あった。いまでも布団などすぐに寝られる支度ができていると、かなり深酒をして、判断が鈍くなってしまう、そこは気を付けたいところだ。
幸か不幸かわからないけれど、私は記憶をなくさないタイプだ。お陰で、それはそれは思い出したくもない黒歴史がずらずらと頭の中のアルバムに収められている。
しかも初対面の相手にはそれほど絡まないが、こと気を許した相手だと……うん。
地元の友達や会社の綿貫先輩は、私の酒癖を知っている。万理さんとは二度ほどお店の仕入れを兼ねた一泊旅行をしたけれど、この酒癖が発動するより早く万理さんが潰れたので知られていない。
……というか、万理さんと私は、いまだにお互いの苗字や住んでいるところを知らない。けれど不思議なことに、それがまったく気にならない。つまりそれらは、仲良くなる上で、どうしても必要な情報ではないのだ。こういうお付き合いは、気が楽なものである。
会社からも自宅からも近くて、私好みの料理を提供してくれるこの店を、私は第二の故郷のように思っている。だからこれからも足繁く通いたい。
「私は自力で帰らなきゃいけないから、外ではそれほど酔えないですけど、万理さんはいいですよね~。いざとなれば、白馬の王子が来てくれるから」
「あははっ! 白馬の王子って!」
万理さんは食器を片付けながら笑った。
その万理さんには、高校時代から付き合っている彼氏がいる。彼女は私より一つ上の二十九歳だから、もう十二年付き合っているらしい。ここに通うようになってから、私も何度かお会いしたことがある。仲睦まじい様子を見ているので、そんな相手がいるのっていいな、とちょっとうらやましく思っていた。
「ありがとうございました、またお越しください! ……でもさ、彼が白馬の王子だったら、私はとっくに結婚しているんだけどな~」
会計を終えた客を送り出し、テーブルの上を片付けながら、万理さんはそうぼやく。
万理さんが結婚できないのには、彼女のお兄さんが独身であることが関係している。
万理さんの家はなかなか古風な考えをお持ちのようで、『妹が年長者の兄より先に結婚してはならない』と、ご両親からお許しが出ないらしいのだ。
「古いのよね、うちの親って。あーあ、はやく兄貴が結婚しないかなぁ」
溜息を零しながら、万理さんは店の外の看板をしまう。店内に残る客はいつの間にか私だけ。アルバイトの子も洗い物を終え、私にも一声掛けてから帰宅した。
「ねえ綾ちゃん、あとちょっとだけ呑も?」
「んー……一杯だけなら付き合う」
こうして、私的な飲み会へと移行した。口調もだいぶ砕けたものとなる。
「明日も彼の家に行くんだけどね~……。むこうのご両親に、またせっつかれるのかなって、ちょっと憂鬱なの」
「結婚?」
「そう。すごくいい人たちで、私のことをもう家族の一員のように思ってくれているのはわかっているんだけど……」
万理さんは冷蔵庫の奥から取り出した特製の漬物を皿に盛り、店には出さない自分用の一升瓶をコップと一緒に持ってきた。お客さんに出す時は素敵な食器におしゃれに盛り付けるのに、自分のこととなると実用性重視になるのが面白い。
そうして万理さんはトクトクとコップに酒を注ぎ、「いただきます」と手を合わせて一口、二口と呑む。
「んん、おいっしい‼ 綾ちゃんもどうぞ~」
明日があるから、と控えていたけれど、なんだかんだでいつもと変わらぬ酒量になっている。気にするのもいまさらなので、お言葉に甘えて一杯いただく。やはり――美味しい。
「彼にね、『もういい大人なんだから自己責任ってことで、うちの親には黙って籍入れちゃう?』って私が言っても、ご両親にちゃんと認めてもらいたい、って言われちゃってさ~」
万理さんはよく漬かったきゅうりをコリコリと食べながら愚痴を零す。
「結婚するのも大変なんですね」
彼氏すらいない私には、当たり障りのない相槌しか打てない。しかし万理さんは愚痴を言えば少しスッキリするようなので、聞き役にまわって盃を重ねた。
2
……呑み過ぎたかな。
翌日、目覚めた私はやや重い頭を抱えながら、家を出発した。
そして宿へと向かうべく、バス停で睨むように時刻表を眺める。
十一月ともなれば、そろそろ冷たい風が冬の訪れを知らせる頃だというのに、降り注ぐ太陽の光は、まるで夏の日差しのようだ。
昨夜は結局、夜遅くまで『てまり』にいて、いつもよりほんの少し多く呑んだ。
ほんの少し……うん、ほんの少しよね。ビールを三杯と、日本酒二合、ワインを一本……くらいだから、ね。
アルコールには強いが、旅行前日に呑む量ではない自覚はある。でも今日はバス移動だから、着くまでの間に少し寝れば大丈夫だろう。
これから向かう先は、同じ市内にあるけれど、ここよりうんと奥地にある温泉付きの民宿だ。一部屋ごとに離れになっていて、部屋専用の源泉かけ流し温泉もある。
綿貫先輩に紹介されて以来、一人慰安旅行の定宿となった。初めの頃は女一人だと傷心旅行に来て、なにかするんじゃないかと警戒されていた。でも、いまではすっかり顔なじみで、予約の時も名前を言えばすぐに応じてもらえるのもうれしい。
市街地からバスで一時間ほど揺られていると、窓の外には田畑が広がり緑も濃くなる。徐々に道路も細くなり、のしかかるような木々の木漏れ日がキラキラと私を照らした。
行き交う車もまばらになり、くねくねと曲がる道に差し掛かる頃には昨夜の酒も抜け、今夜の食事に思いを馳せるまでに回復した。その土地の飾らない美味しさが楽しめる季節の料理に、また酒が進むのだ。
女将さんが漬けた自家製果実酒が美味しくて、それも楽しみにしている。
この道の途中に、地元の人たちから教わったパワースポットがある。いつもはそこに寄っていくのだけれど、今日はとてもそこまで体力が回復していないので、途中下車しないことにした。
やがて川端にあるバス停に着く。降りる客は私一人だけで、バスは地元の住人らしき二人を乗せて終点に向かって出発した。
あたりを見渡すとそこは道路と木と川だけ――つまり目印もなにもない場所だ。初めてここに来た時はかなり不安を覚えたけれど、慣れたいまでは迷いなく歩ける。
着替え一式と洗面道具、それと部屋で呑む分のお酒と、簡単な化粧ポーチと文庫本一冊だけ入った小さめのボストンバッグを肩にかける。あとは財布しか入れていないショルダーバッグが私の持ち物のすべてだ。
川のせせらぎと、さわさわと耳に心地よい葉擦れの音を楽しみながら、私は胸いっぱいに山の空気を吸う。五分ほど歩くと、舗装された道路から砂利道へ続く分岐があり、そこへ足を踏み入れる。砂利道を踏む音も仲間に加わり、一人でも賑やかな道中となった。
私を歓迎するように、秋の花々――コスモスやリンドウ、足元にはツワブキ、そして鼻をくすぐるこの特徴ある香りは金木犀だろう――が咲き誇っている。目や鼻でそれらを楽しんでいるうちに宿に到着した。
「こんにちは!」
古民家を改築したこの民宿は、引き戸を入ると土間が広くとられ、天井を仰げば梁がどっしりと横たわっている。どこかホッとする佇まいだ。
「いらっしゃいませ。望月様、お待ちしておりました。いいお天気でよかったですね」
「本当です! 紅葉はどうですか?」
「山の上のほうは、だいぶ色付いてきたのですが、このあたりは来週……か、再来週くらいになると思います」
「残念です。またその頃、見に来ようかなあ」
「ぜひいらしてください。もう少し下った滝のあたりがおすすめですよ」
「わ! いいですね、楽しみ!」
にこやかに出迎えてくれた女将さんから鍵を受け取り、いったん母屋を出て離れへ向かう。今日泊まるのは、六棟ある離れの中で一番奥の、私の一番好きな部屋だ。
部屋に着くと、備え付けの冷蔵庫に持参したお酒を次々に入れていく。料理とともに酒を呑むのも好きだけれど、温泉に入ったあとで文庫本片手に酒を呑むのは最高の贅沢だ。
夕飯の時間までまだ充分時間がある。私は浴衣を手に取り、まずは温泉に入ることにした。この部屋には、とても眺めのいい露天温泉が専用で付いているのだ。
いつでも入れるという気安さから、ひとまず汗を流す程度に風呂を終え、浴衣に着替えて髪を乾かした。それからくるりと髪留めのスティックでひとまとめにし、ポイントメイクだけ施す。
のんびり過ごしていたら、夕食開始の時間が近付いていたので、自室を出て大広間へ向かう。食事は部屋食ではなく、大広間で取る。囲炉裏のようなものが付いたテーブルが部屋数だけあり、それを囲んで鍋や焼き魚を楽しむのだ。
私は一人なので、自在鉤に鍋は吊るさず、鋳物でできた卓上コンロの一人鍋が用意された。夕食開始の時間早々に席へ着くと、次々と目の前に料理が並べられていく。女将さん手作りの胡麻豆腐や里芋の田楽、鴨とキノコの鍋に、ムカゴとキノコの天ぷら、冬瓜と鶏だんごのスープ、銀杏のおこわなどなど、どれから手を付けようか悩むほどだ。
まずは食前酒として女将さんの漬けた夏ミカンの酒を頼み、鍋が煮えるまで天ぷらに手を伸ばす。ムカゴの天ぷらは、ほくほくとしている。一方のキノコの天ぷらは、噛む度にじゅわっと旨みが口いっぱいに広がった。
夏ミカンの果実酒は、爽やかな柑橘の味と苦味が癖になる美味しさだが、ビールがやっぱり呑みたくなり、二杯目に頼む。
そうこうしているうちに、宿泊客がぞくぞくと囲炉裏を囲み始めた。
女性グループや夫婦などで席は占められ、一人客は私以外いない……かと思ったら――
最後に大広間へやってきたのは、背の高い一人の男性だった。鴨居をくぐって部屋へ入ってきた彼の顔は、ここが山奥というのを忘れるくらい、都会的でとても整っていて、私好みの面立ちをしている。私と同世代に見えるその男は、ここの浴衣を着ていた。連れを待っている様子もないので、私と同じように一人で宿泊する客らしい。
彼は奥まった席へどっかりと腰を下ろし、用意された料理を食べ始める。
そこで、男がふっと私のほうに顔を向けたので、慌てて顔を伏せた。無意識に男を凝視していたようだ。そんな姿に気付かれたようで私は急に恥ずかしくなり、目の前の料理を平らげることに専念した。
数十分後、食事を終えたグループが次々と大広間をあとにする中、私はまだまだ呑み続けていた。だって一人慰安旅行なのだ。呑まないでどうする。
女将さんも私が酒好きと知っているので、新作の果実酒や酒に合う漬物などを薦めてくれ、それがまた美味しくて更に酒量が増えた。
ここ最近は、ものすごくがんばった。あちこち駆けずり回ったお陰でリーダー研修会の準備も一応の形が整い、直属の上司である鷹森部長の決裁も下りた。あとは週明けから始まる研修会が滞りなく進行するようフォローし、最後にレポートを書けば私の仕事は終わる。ちなみにレポートは、二年後にまた行われる研修会のための、引継ぎ資料だ。
週明け――つまり、明後日の月曜日から始まる研修会。それに立ち向かう英気を養うべく、存分に楽しもうと思う。
ムカゴがもう少し食べたくなったので、素揚げに塩を振ってもらうか、それとも茹でただけのものをもらおうかと考えていたら、なにやら部屋の外が騒がしいことに気付いた。あの方向は玄関……かな?
よくわからないけれど、まあいいや。とりあえずお手洗いに行くついでに厨房で注文してこようっと。
よいしょと立ち上がったその拍子に、テーブルのあたりでコツンと硬い音がした。なんだろうと腕を上げると、着物の袂に入れておいた部屋の鍵が当たったことに気付く。うっかり落としたら困るし、他のお客さんもほとんどいないから取られる心配はないので、まだここにいるよというアピールのため、鍵はテーブルに置いて席を立った。
そうして用を済ませ大広間に戻ってきたら、なにやら女の人の怒る声が聞こえてきた。
先ほど玄関のほうから聞こえた声の主かな、と察したが、できれば面倒事に関わりたくないので部屋の手前で止まり、こっそりと大広間を覗き見る。
するとそこには、囲炉裏のテーブル席に座る男と、その傍で腰に手を当てて立ち男を糾弾する女がいた……なぜか、私の席に。
『――以上、よろしくお願いします。
望月綾香』
タン、とパソコンのエンターキーを押し、私はメールを送信した。それから凝り固まった背中をほぐすべく、両手をググッと上げて伸びをする。すると、そんな私の様子を見ていたらしい先輩から、早速声がかかった。
「どう? 望月さん終わった?」
「あ、はーい! 先輩、確認お願いします」
私は提出書類をまとめ、先輩に渡した。四歳年上の綿貫郁美先輩は、私の指導をしてくれる人で、とても頼りになる。彼女は机に並べた書類をザッと見てから、にっこり笑って、ある一部分に指先をトン、と付けた。
「ここ、去年の数字」
「あっ!」
「あとは大丈夫よ。それを直したら、今日はもう仕事上がりましょうね」
「はい! ありがとうございます、先輩!」
急いで直し、保存する。これでいまやっている仕事の、一応の区切りはついた。また次の嵐が来るまで小休止できそうだ。
いま、私が作っていた資料は、来週から行われる『リーダー研修会』のためのもの。
リーダー研修会とは、新規事業計画を立てるにあたり、全国の支店でアイデアをまとめ、代表者を一名ずつ選出して本社で実施される社内コンペのことを言う。そしてそれは、二週間の短期決戦で行われる。前半の一週間は講師を招いて研修が、後半の一週間は研修参加者と審査員である本社の重役のみが出席できる極秘プレゼンが予定されている。
これは二年に一度行われるもので、コンペの優勝者には金一封が出るし、昇進の確約ももらえるそうだ。そして翌年度から本社勤務となり、先頭に立ってその企画を進めていくこととなる。更に、その企画者を送り出した支社にも、大きな恩恵があるようだ。だから研修期間中は、本社全体がピリピリしていて緊張感に包まれている。
本社勤務の私は、その研修会の運営メンバーの一員に選ばれて以来、かなり神経をすり減らしながら仕事をしていた。
……といっても、私は事務というか、裏方の一員なのだけれど。私は関係各所への連絡、日程の調整や宿泊場所、会議室の使用予約、講師や食事の手配などを担っている。
大学を卒業して以来、もう六年近く同じ部署にいるけれど、この研修会に直接関わるのは初めてだ。以前行われた時に、先輩の仕事を手伝い、それなりに手法は学んでいたからなんとかなっているけれど、無事最後まで乗り切れるか少々不安が残る。
「望月さん、変更できた?」
「はい、終わりました」
机の上に雑然と置かれた書類やカタログなどを片付けていたら、帰り支度を済ませた綿貫先輩が声をかけてきた。
「これから他部署の人と女子会があるんだけど、一緒に行かない? 来週から忙しくなるから、その前に呑もうよ」
綿貫先輩は私が入社して以来、公私ともにとてもよくしてくれている。地方から出てきた私にとってお姉さんのような存在で、仕事をする上での目標でもある。でも――
「ごめんなさい! 今日は『てまり』に行く約束をしてるんです」
「ああ、『てまり』に?」
「それに、明日はいつものトコに行くので、支度しないと」
「あー、あそこね、了解。それだけ気に入ってもらえたなんて紹介者冥利に尽きるわ。うん、わかった、また今度ね。それにしても望月さん、今回の仕事、ほんとよく捌けてるよ。今度、成長のお祝いとして美味しいお酒を奢るね!」
「ありがとうございます!」
手放しで褒められて、なんだかこそばゆい。
じゃあね、と先輩は手をヒラヒラさせながらフロアをあとにした。私も机を整頓し終えたので立ち上がる。そして忘れ物がないか確認したあとバッグを肩にかけ、会社のエントランスに向かう。
周りにはちらほらと残業する人たちがいるため、小声で「お先に失礼します」と挨拶をして歩き出した。
いまから行く『てまり』は、会社の最寄り駅近くの、行きつけの小料理屋だ。入社当時、へとへとになりながら立ち寄ったところ、そこの店主と年齢が近いこともあって意気投合。以来仲良くさせてもらっている。店主は一人暮らしの私のために、作り置きできる料理のレシピを教えてくれたり、お弁当作りのアドバイスをくれたり、野菜をちゃんと食べなさいよと惣菜を持ち帰らせてくれたりする。
たまに綿貫先輩と行くこともあるけれど、一人で行くのが常だ。
すっかり通いなれた道を歩く。帰宅ラッシュの時間帯より少し遅いので、人の波は食事や呑みに行くのだろうか、賑やかな雰囲気になっていた。
少し歩くと、小さな看板が見えてくる。カフェを目印に大通りから脇道へと曲がり、数十メートル行った先の、一階に雑貨屋が入っている建物で――その脇にある細い階段を上ったところ。言葉で伝えるには少々ややこしい場所に、『てまり』はある。
濃紺の暖簾をくぐり、引き戸をカラカラと開ける。すると、甘辛いたれの焦げる香りが漂い空腹を刺激する。その途端、お腹がきゅうっと小さく鳴った。
「綾ちゃん! 待ってたよ~!」
私が店内に入ると、カウンターの中にいた店主がパッと顔を輝かせた。
「万理さん、こんばんは」
勝手知ったるなんとやらで、出入り口付近にあるレジ横のハンガーにコートを掛け、カウンターの一番端に腰掛ける。ここは私の定位置で、カウンターの中にいる万理さんと話がしやすいのだ。
カウンターの上にある大鉢には、里芋の煮っ転がし、鯖の煮つけ、肉じゃが、ほうれん草としめじの胡麻和えなど、定番ものから季節のものまでずらりと料理が並ぶ。
「とりあえず生! それから、そこにある胡麻和えと、秋刀魚の梅煮と、桜海老入りの出し巻き卵が食べたいです!」
「あら珍しい。いつもだったら最初は『ガッツリ肉食べたい~』って注文するのに」
店の壁に貼られたメニューの短冊を見ながら注文する私に、おしぼりを持ってきた万理さんは目を丸くする。
「へへ。だって明日から一人慰安旅行ですもん。だから今日はちょっと軽めで」
「そうなの?」
「大きな仕事の準備がようやく終わったから、自分にご褒美ですよ」
話しながらも、万理さんはこんもりときめ細かな泡が載ったビールのジョッキと、秋茄子とシラスを煮た小鉢を私の前に並べる。今日のお通しは私の大好物で早速手を伸ばしたいところだけど、まずは――
「いただきます!」
ジョッキを持ち、ふわふわの泡に口を付けて黄金色の酒で喉を潤す。あっという間に半分まで呑んでしまい、喉越しの素晴らしさにふぅぅっと息をついた。
「相変わらず、いい呑みっぷりね」
「ええ、このためだけに生きていますから!」
お酒を呑み始めた当初は、ビールなんて苦くてまずい! と思っていたのに、いまでは欠かせないものになっている。
嬉々として呑む私に、万理さんは苦笑しながらキッチンに戻る。
私はいったんジョッキを置いて、箸を手に取り秋茄子をつまみつつ、明日のことを考えた。
一人慰安旅行――
行き先は綿貫先輩に紹介された民宿だ。数年前までは友人たちと行っていたのだけれど、そのうち彼ができた、結婚した、と一人ずつ都合が付きづらくなり、とうとう一緒に行けるメンバーがいなくなってしまった。しかし定宿にしていたそこの温泉と料理が大変好みで、えいっと勇気を出して一人で宿泊してみたら……ゆっくりと羽を伸ばせて快適だった。
それに気をよくして、思わず翌月の予約をその場で取ったほどだ。
それからは一人カフェ、一人ファミレス、一人ラーメン、などを次々と攻略し、行動範囲が広がっていった。いまでは一人居酒屋も行けるようになったので、日常が充実している。
やがて一人での行動は、時間の自由がとてもきくことに気付いた。
友人と過ごすのは楽しいけれど、日時をすり合わせ、食事などの場所もお互いの好みを探り……などは、一人での行動に慣れてくると正直ちょっと億劫だ。
とはいえ付き合いも大事にしたい、とランチやお茶など短時間で、友人と会うようにしていた。けれども最近では話題すら合わなくなってしまっている。
彼が、と言われても、私にはいない。
夫が、と言われても、私にはいない。
たとえば彼との結婚話が話題に出たとする。そんな時は既婚者に相談したいだろうし、既婚者も経験談を話せる。けれども私には、すごいね、おめでとう、と言う以外、出る幕がないのだ。
だから友人たちとは徐々に距離を取りつつ、代わりに一人での生活をどんどん充実させていった。
仕事もやりがいがあるし、早く終わる日はジムに行ったり、『てまり』で食事をしたり、万理さんに教わったレシピで常備菜を作ったり――という毎日を送っている。
一応、友人たちの動向を把握するため……というか、付き合いの一環としてSNSを眺める。けれども私は取り立てて書くことがないし、書いたところで「いいね、独身貴族は」「ほんと! 私なんて一人の自由な時間がなくて」――と余計な刺激を与えるだけなので、もっぱら読む専門となっていた。
ビールを呑みながら、スマートフォンを弄って日課のSNSサイト巡りをする。
それぞれの日常を切り取った写真と、それに続くどこまで本音かわからない賞賛コメントの数々。それらを、なかば義務的に追い、一通り読み終わるとスマートフォンをバッグにしまった。
常にテーブルに置いておくほど急ぎの用事はないし、SNSでの繋がりからは、できるだけ離れていたいのだ。
「いらっしゃいませ!」
「いらっしゃいませ! 何名様ですか? はい、ではコートをこちらでお預かりしますね!」
店は路地裏の二階というわかりにくい場所なのに、口コミで評判が広まっているのか、あっという間に席が埋まる。店主の万理さんはテキパキと配膳や調理をこなし、アルバイトの子も店内を行ったり来たりと大忙しだ。
そんな中、私は骨まで柔らかくなった秋刀魚の梅煮を堪能する。ついでに日本酒を注文し、どんどん盃を空けていく。
そうこうしているうちに店内の賑わいは落ち着き、何組かが退店していった。『てまり』は終電時間近くまでの営業なので、もう少しで閉店だ。
私が一人暮らしをするアパートはこの店から徒歩圏内だけど、明日もあることだし、そろそろここを出なければ。
そう思いつつ、やっぱりあと一本いこうかな、とお酒を注文する。すると、万理さんがクスクス笑いながらキッチンから出てきた。
「綾ちゃん、駄目じゃない。軽く呑むって言ってたのに、これじゃいつもと変わらないわ」
「あれ、そうでした?」
「お酒好きだし、強いよね~。私、綾ちゃんが前後不覚になるところ見てみたいわ」
「家に帰らなきゃ、って時はそれほど酔わないですね。でも、家呑みとか旅行先とか、寝る場所がちゃんとそこにあるって時は……うっ、頭が! 思い出したくないって言ってる!」
いまでこそザルと呼ばれる私だけど、お酒を嗜み始めた頃は潰れることが多々あった。いまでも布団などすぐに寝られる支度ができていると、かなり深酒をして、判断が鈍くなってしまう、そこは気を付けたいところだ。
幸か不幸かわからないけれど、私は記憶をなくさないタイプだ。お陰で、それはそれは思い出したくもない黒歴史がずらずらと頭の中のアルバムに収められている。
しかも初対面の相手にはそれほど絡まないが、こと気を許した相手だと……うん。
地元の友達や会社の綿貫先輩は、私の酒癖を知っている。万理さんとは二度ほどお店の仕入れを兼ねた一泊旅行をしたけれど、この酒癖が発動するより早く万理さんが潰れたので知られていない。
……というか、万理さんと私は、いまだにお互いの苗字や住んでいるところを知らない。けれど不思議なことに、それがまったく気にならない。つまりそれらは、仲良くなる上で、どうしても必要な情報ではないのだ。こういうお付き合いは、気が楽なものである。
会社からも自宅からも近くて、私好みの料理を提供してくれるこの店を、私は第二の故郷のように思っている。だからこれからも足繁く通いたい。
「私は自力で帰らなきゃいけないから、外ではそれほど酔えないですけど、万理さんはいいですよね~。いざとなれば、白馬の王子が来てくれるから」
「あははっ! 白馬の王子って!」
万理さんは食器を片付けながら笑った。
その万理さんには、高校時代から付き合っている彼氏がいる。彼女は私より一つ上の二十九歳だから、もう十二年付き合っているらしい。ここに通うようになってから、私も何度かお会いしたことがある。仲睦まじい様子を見ているので、そんな相手がいるのっていいな、とちょっとうらやましく思っていた。
「ありがとうございました、またお越しください! ……でもさ、彼が白馬の王子だったら、私はとっくに結婚しているんだけどな~」
会計を終えた客を送り出し、テーブルの上を片付けながら、万理さんはそうぼやく。
万理さんが結婚できないのには、彼女のお兄さんが独身であることが関係している。
万理さんの家はなかなか古風な考えをお持ちのようで、『妹が年長者の兄より先に結婚してはならない』と、ご両親からお許しが出ないらしいのだ。
「古いのよね、うちの親って。あーあ、はやく兄貴が結婚しないかなぁ」
溜息を零しながら、万理さんは店の外の看板をしまう。店内に残る客はいつの間にか私だけ。アルバイトの子も洗い物を終え、私にも一声掛けてから帰宅した。
「ねえ綾ちゃん、あとちょっとだけ呑も?」
「んー……一杯だけなら付き合う」
こうして、私的な飲み会へと移行した。口調もだいぶ砕けたものとなる。
「明日も彼の家に行くんだけどね~……。むこうのご両親に、またせっつかれるのかなって、ちょっと憂鬱なの」
「結婚?」
「そう。すごくいい人たちで、私のことをもう家族の一員のように思ってくれているのはわかっているんだけど……」
万理さんは冷蔵庫の奥から取り出した特製の漬物を皿に盛り、店には出さない自分用の一升瓶をコップと一緒に持ってきた。お客さんに出す時は素敵な食器におしゃれに盛り付けるのに、自分のこととなると実用性重視になるのが面白い。
そうして万理さんはトクトクとコップに酒を注ぎ、「いただきます」と手を合わせて一口、二口と呑む。
「んん、おいっしい‼ 綾ちゃんもどうぞ~」
明日があるから、と控えていたけれど、なんだかんだでいつもと変わらぬ酒量になっている。気にするのもいまさらなので、お言葉に甘えて一杯いただく。やはり――美味しい。
「彼にね、『もういい大人なんだから自己責任ってことで、うちの親には黙って籍入れちゃう?』って私が言っても、ご両親にちゃんと認めてもらいたい、って言われちゃってさ~」
万理さんはよく漬かったきゅうりをコリコリと食べながら愚痴を零す。
「結婚するのも大変なんですね」
彼氏すらいない私には、当たり障りのない相槌しか打てない。しかし万理さんは愚痴を言えば少しスッキリするようなので、聞き役にまわって盃を重ねた。
2
……呑み過ぎたかな。
翌日、目覚めた私はやや重い頭を抱えながら、家を出発した。
そして宿へと向かうべく、バス停で睨むように時刻表を眺める。
十一月ともなれば、そろそろ冷たい風が冬の訪れを知らせる頃だというのに、降り注ぐ太陽の光は、まるで夏の日差しのようだ。
昨夜は結局、夜遅くまで『てまり』にいて、いつもよりほんの少し多く呑んだ。
ほんの少し……うん、ほんの少しよね。ビールを三杯と、日本酒二合、ワインを一本……くらいだから、ね。
アルコールには強いが、旅行前日に呑む量ではない自覚はある。でも今日はバス移動だから、着くまでの間に少し寝れば大丈夫だろう。
これから向かう先は、同じ市内にあるけれど、ここよりうんと奥地にある温泉付きの民宿だ。一部屋ごとに離れになっていて、部屋専用の源泉かけ流し温泉もある。
綿貫先輩に紹介されて以来、一人慰安旅行の定宿となった。初めの頃は女一人だと傷心旅行に来て、なにかするんじゃないかと警戒されていた。でも、いまではすっかり顔なじみで、予約の時も名前を言えばすぐに応じてもらえるのもうれしい。
市街地からバスで一時間ほど揺られていると、窓の外には田畑が広がり緑も濃くなる。徐々に道路も細くなり、のしかかるような木々の木漏れ日がキラキラと私を照らした。
行き交う車もまばらになり、くねくねと曲がる道に差し掛かる頃には昨夜の酒も抜け、今夜の食事に思いを馳せるまでに回復した。その土地の飾らない美味しさが楽しめる季節の料理に、また酒が進むのだ。
女将さんが漬けた自家製果実酒が美味しくて、それも楽しみにしている。
この道の途中に、地元の人たちから教わったパワースポットがある。いつもはそこに寄っていくのだけれど、今日はとてもそこまで体力が回復していないので、途中下車しないことにした。
やがて川端にあるバス停に着く。降りる客は私一人だけで、バスは地元の住人らしき二人を乗せて終点に向かって出発した。
あたりを見渡すとそこは道路と木と川だけ――つまり目印もなにもない場所だ。初めてここに来た時はかなり不安を覚えたけれど、慣れたいまでは迷いなく歩ける。
着替え一式と洗面道具、それと部屋で呑む分のお酒と、簡単な化粧ポーチと文庫本一冊だけ入った小さめのボストンバッグを肩にかける。あとは財布しか入れていないショルダーバッグが私の持ち物のすべてだ。
川のせせらぎと、さわさわと耳に心地よい葉擦れの音を楽しみながら、私は胸いっぱいに山の空気を吸う。五分ほど歩くと、舗装された道路から砂利道へ続く分岐があり、そこへ足を踏み入れる。砂利道を踏む音も仲間に加わり、一人でも賑やかな道中となった。
私を歓迎するように、秋の花々――コスモスやリンドウ、足元にはツワブキ、そして鼻をくすぐるこの特徴ある香りは金木犀だろう――が咲き誇っている。目や鼻でそれらを楽しんでいるうちに宿に到着した。
「こんにちは!」
古民家を改築したこの民宿は、引き戸を入ると土間が広くとられ、天井を仰げば梁がどっしりと横たわっている。どこかホッとする佇まいだ。
「いらっしゃいませ。望月様、お待ちしておりました。いいお天気でよかったですね」
「本当です! 紅葉はどうですか?」
「山の上のほうは、だいぶ色付いてきたのですが、このあたりは来週……か、再来週くらいになると思います」
「残念です。またその頃、見に来ようかなあ」
「ぜひいらしてください。もう少し下った滝のあたりがおすすめですよ」
「わ! いいですね、楽しみ!」
にこやかに出迎えてくれた女将さんから鍵を受け取り、いったん母屋を出て離れへ向かう。今日泊まるのは、六棟ある離れの中で一番奥の、私の一番好きな部屋だ。
部屋に着くと、備え付けの冷蔵庫に持参したお酒を次々に入れていく。料理とともに酒を呑むのも好きだけれど、温泉に入ったあとで文庫本片手に酒を呑むのは最高の贅沢だ。
夕飯の時間までまだ充分時間がある。私は浴衣を手に取り、まずは温泉に入ることにした。この部屋には、とても眺めのいい露天温泉が専用で付いているのだ。
いつでも入れるという気安さから、ひとまず汗を流す程度に風呂を終え、浴衣に着替えて髪を乾かした。それからくるりと髪留めのスティックでひとまとめにし、ポイントメイクだけ施す。
のんびり過ごしていたら、夕食開始の時間が近付いていたので、自室を出て大広間へ向かう。食事は部屋食ではなく、大広間で取る。囲炉裏のようなものが付いたテーブルが部屋数だけあり、それを囲んで鍋や焼き魚を楽しむのだ。
私は一人なので、自在鉤に鍋は吊るさず、鋳物でできた卓上コンロの一人鍋が用意された。夕食開始の時間早々に席へ着くと、次々と目の前に料理が並べられていく。女将さん手作りの胡麻豆腐や里芋の田楽、鴨とキノコの鍋に、ムカゴとキノコの天ぷら、冬瓜と鶏だんごのスープ、銀杏のおこわなどなど、どれから手を付けようか悩むほどだ。
まずは食前酒として女将さんの漬けた夏ミカンの酒を頼み、鍋が煮えるまで天ぷらに手を伸ばす。ムカゴの天ぷらは、ほくほくとしている。一方のキノコの天ぷらは、噛む度にじゅわっと旨みが口いっぱいに広がった。
夏ミカンの果実酒は、爽やかな柑橘の味と苦味が癖になる美味しさだが、ビールがやっぱり呑みたくなり、二杯目に頼む。
そうこうしているうちに、宿泊客がぞくぞくと囲炉裏を囲み始めた。
女性グループや夫婦などで席は占められ、一人客は私以外いない……かと思ったら――
最後に大広間へやってきたのは、背の高い一人の男性だった。鴨居をくぐって部屋へ入ってきた彼の顔は、ここが山奥というのを忘れるくらい、都会的でとても整っていて、私好みの面立ちをしている。私と同世代に見えるその男は、ここの浴衣を着ていた。連れを待っている様子もないので、私と同じように一人で宿泊する客らしい。
彼は奥まった席へどっかりと腰を下ろし、用意された料理を食べ始める。
そこで、男がふっと私のほうに顔を向けたので、慌てて顔を伏せた。無意識に男を凝視していたようだ。そんな姿に気付かれたようで私は急に恥ずかしくなり、目の前の料理を平らげることに専念した。
数十分後、食事を終えたグループが次々と大広間をあとにする中、私はまだまだ呑み続けていた。だって一人慰安旅行なのだ。呑まないでどうする。
女将さんも私が酒好きと知っているので、新作の果実酒や酒に合う漬物などを薦めてくれ、それがまた美味しくて更に酒量が増えた。
ここ最近は、ものすごくがんばった。あちこち駆けずり回ったお陰でリーダー研修会の準備も一応の形が整い、直属の上司である鷹森部長の決裁も下りた。あとは週明けから始まる研修会が滞りなく進行するようフォローし、最後にレポートを書けば私の仕事は終わる。ちなみにレポートは、二年後にまた行われる研修会のための、引継ぎ資料だ。
週明け――つまり、明後日の月曜日から始まる研修会。それに立ち向かう英気を養うべく、存分に楽しもうと思う。
ムカゴがもう少し食べたくなったので、素揚げに塩を振ってもらうか、それとも茹でただけのものをもらおうかと考えていたら、なにやら部屋の外が騒がしいことに気付いた。あの方向は玄関……かな?
よくわからないけれど、まあいいや。とりあえずお手洗いに行くついでに厨房で注文してこようっと。
よいしょと立ち上がったその拍子に、テーブルのあたりでコツンと硬い音がした。なんだろうと腕を上げると、着物の袂に入れておいた部屋の鍵が当たったことに気付く。うっかり落としたら困るし、他のお客さんもほとんどいないから取られる心配はないので、まだここにいるよというアピールのため、鍵はテーブルに置いて席を立った。
そうして用を済ませ大広間に戻ってきたら、なにやら女の人の怒る声が聞こえてきた。
先ほど玄関のほうから聞こえた声の主かな、と察したが、できれば面倒事に関わりたくないので部屋の手前で止まり、こっそりと大広間を覗き見る。
するとそこには、囲炉裏のテーブル席に座る男と、その傍で腰に手を当てて立ち男を糾弾する女がいた……なぜか、私の席に。
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