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1巻
1-3
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「嫌だって……言ったじゃない!」
「そうか」と頷いた夏賀さんは、私のナカから指を抜き、頭上で纏めていた手首を放して、ベッドから降りる。そしてお湯で濡らしたタオルを持ってきて、私の胸を拭き、次にベトベトになった秘所を拭おうとしてきた。
慌ててタオルを引っ掴み、「あっち向いてて!」と叫んで自分で拭う。
冷静になったいま、ふたたびその場所を他人に触らせるなんてありえないわ!
「悪い。俺、てっきり……」
来る者拒まず、様々な男を渡り歩いていると噂されていたから……夏賀さんはそう言い訳をしたけれど、「でも俺、ドア開けるなよ、って忠告したよな」と開き直ってみせた。
「どうせ遊んでる女だって思ったんでしょ。だから嫌なのよ、男って」
「蒔山さんて……ソッチの人?」
「え? ……って、違うわよ!!」
ソッチ、と言われて一瞬首を傾げたが、それが同性愛者かと問われたのだと気づき、思わず怒鳴ってしまった。
「私は、見た目で判断されるのが大嫌いなのよ! えーえー、そうですよ。この年まで経験がないのも、ヤる目的ですぐ近づいてくる男が大っっ嫌いだからです!!」
乱れた衣服を直しながら、夏賀さんに怒りをぶつける。
ドアを開けた私も不注意だった。けれど、親切な男と思わせておいて襲ってきたのだから、絶対こいつが悪いに決まっている。
「もういいだろ。ちゃんと途中でやめたし」
「途中とか、そういう問題じゃない!」
「っていうか、俺の好みじゃないしな、蒔山さんて」
「は?」
「俺は、もっと……和風の、清楚で可憐で、黒髪ロングの、深窓のお嬢様ってタイプがいいんだ。ま、遊ぶのは、頭軽そうで見た目が派手なお前みたいなヤツだけどな。後腐れないし」
「……」
つまり、私は性欲発散のために選ばれたってわけか。清楚とは対極の派手な顔をしているというだけで。
「それにさ、好みのタイプだったら絶対処女がいいけど、遊び相手に処女なんて面倒くさいだけだろ」
「面倒くさい?」
そういえば、さっきもそんなことを言っていたような。マグロがどうとか……ん?
「マグロってなに?」
そう尋ねると、夏賀さんは、ぶはっとお腹を抱えて笑い出した。
「ちょ、マジ? マグロも知らねーの?」
「え、ちょ、どういう意味なの!?」
「なんにもしないで、ただされるがままってこと。まな板の上の鯉ってね。こっちは喘がせたくて頑張ってるのに、反応ないんじゃ萎えるよな?」
「萎えるよな、って私に同意を求めないでよ!」
腹が立って手元にあった枕を投げつけると、夏賀さんは難なく受け止めた。そして「処女じゃ、マグロの意味を知らなくてもしょうがないね」などと言って、ニヤニヤしながら私を見る。
「だいたい、夏賀さんだって本性隠してたじゃない。親切な人だと思ったから、信用……したのに」
「だーかーらー。それがお前の処女たるゆえんだな。甘いっつーの。だいたい俺ら、今日会ったばかりだろ? なに簡単に信用してんだよ。男ってのは、穴があったら挿れたいもんなの。お前、ほんとに世間知らずだな」
「さっきから、お、お、お前って!」
お前呼ばわりが気に入らず、怒鳴りつけてやろうと思ったら、夏賀さんはベッドにドサッと腰かけて、私の足首をひょいと掴んだ。
「きゃあっ! なにするの!」
「冷やすんだよ。挫いたんだろ? ……ちょっと氷、溶けかけてるけど、まあいいか」
そう言って、私の体を拭いたのとは別のタオルで氷の入った袋を包み、私の足に乗せた。
あ……ひんやりして気持ちがいい。さっきまでのゴタゴタで痛みを忘れていたけれど、やはり痛いものは痛い。
「そんなひどくないみたいだな、冷やしすぎもよくない。もうちょっとしたら冷湿布に取り替えて」
感謝なんてしたくないけれど、ここは素直に従っておこう。
「お前さ、見た目とずいぶん違うんだな。爪もギリギリまで切ってるし、甘ったるい香水もつけてないし……思ったより地味?」
私の爪の先を指でなぞって、そんなことを口にする。
「お前って呼ばないで。見た目と違うって、なに勝手にガッカリしてるの。私は最初から自分を偽ってなんかいないわ。見た目で判断したの、夏賀さんでしょう」
「見た目と噂かな。見た目、水商売のおねーちゃんみたいだし。合コンには参加するくせに好みの男がいないとすぐ消えるとか、愛人やってるとか、散々言われているのに否定しねーだろ」
「……しても無駄なの」
そう、いままで……うんと小さいころから、この濃い顔つきのために誤解され続けてきたのだ。何度となく誤解を解こうとしたが、女性の嫉妬は怖い。尾ひれがついてさらに広がってしまう。仲がいいと思っていた女友達に裏切られたことなど数知れず。だから、もう諦めたというか……
俯いた私の頭を、夏賀さんはぽんぽんと軽く叩いた。
「悪い」
言葉を濁した私の気持ちを、夏賀さんは汲み取ったようだ。あっさりと引き下がったので、肩透かしを食った気分だ。
……まあ、遊び相手の女性には深く立ち入らない、という夏賀さんのポリシーが表れているともいえるのか。
確かに、初対面でいきなり襲ってきた相手に話すことでもないわね。というか、なんで私は自分のコンプレックスを夏賀さんに話そうとしているんだろう。不思議に思いながらも、投げやりに呟いた。
「いまさらなに言われても……平気よ」
「慣れるなよ、そこは。だいたい嫌だったら、合コン出なきゃいいだろ。なんで出るんだよ?」
「え、と……。せ、節約のため、かな」
「は? 節約?」
「私が行けば、男性のランクが上がるとかで、食事代免除してくれるんですよ。だから」
「はぁ? ……お前さ、ばっかじゃねーの」
夏賀さんは私のおでこをピンと指ではじき、立ち上がってスーツのジャケットを脱いだ。そしてネクタイを外し――
「えっ、あの、あの! 服、服!!」
処女はめんどくさいから抱かないんじゃなかったの!? 安心しきったところでふたたび貞操の危機⁉
足の上に氷の入ったタオルを乗せたまま、ズリズリとヘッドボードまで後退する。そんな私に、夏賀さんはしれっと言った。
「もう夜遅いし、ここで寝てく」
「は?」
「ダブルだし、ちょうどいいじゃん」
「ちょうどいいって……え?」
「お前はもう少し、足冷やしておいた方がいいな。じゃあ俺、風呂先に入るわ」
「えっ、あの、ちょっと……」
いったいどういうこと?
目を丸くしている私をよそに、夏賀さんはクローゼットを開けてハンガーにジャケットをかけ、ワイシャツを脱ぎ、ベルトを外し――
「えっち。見んな」
ズボンに手をかけたところで振り返り、そんな言葉を投げつけた。
そ、それは私の台詞でしょ!? そもそも、私、泊まっていいだなんて言ってないーー!
「ま、待って!」
手を伸ばして制止の声を上げたが、無情にも風呂場に続くドアは閉まり、カチャッと施錠の音が聞こえた。
――なんなの、あいつ! なんなの、あいつ!
その言葉を百二十三回唱えたところで、疲れからか、ふっつりと記憶が途切れてしまった。
「おはよう」
「……は?」
寝ぼけ眼に映し出されたのは、けだるげな表情をしているイケメンでした。
――って!
「誰⁉」
「へー、指の挿入までした俺のこと覚えてな――もごっ」
「そそそそれ以上言わないでーー!」
慌てて美形の口を手で塞ぐ。思い出した! 一瞬で思い出しましたとも!
「ど、ど、どうして同衾⁉ って、やあああ舐めないでぇぇっ!」
「同衾て……古式ゆかしいな。そんな言葉があること忘れてたわ」
掌に生温かいモノがぬるっと触れ、慌てて手を引く。すると夏賀さんは、笑いを噛み殺しながら髪を掻き上げた。
なんだろうこの人は。眼鏡を取ったら美人でした、ならわかるけれど、ダサ男が実はイケメンでした、ってなんなのそれは!
無駄に色気を放つ夏賀さんを直視できず、思わず顔を伏せたら、夏賀さんの下半身が目に飛びこんできた。
「や、やだっ! ちょ、服、というか……っ」
「だって皺になるだろう? ……じゃなくて? ああ、これ朝勃ち。男の生理現象だから気にすんな」
言わないでよ、その単語を!
涙目になって固まる私に、夏賀さんは「お前って面白いな。処女丸出しの言動じゃねーか」とニヤニヤしながらベッドから降りた。そしてズボンとワイシャツを……身に着けてくれているようだ。
ようだっていうのは、もちろん直視なんてできるはずがなく、枕に顔を埋めていたから。そしてなにやら、ペリペリとかカチャッとかピーとか、色々な音が聞こえてきたけれど、顔を上げるタイミングがわからず、とりあえず自分の体の状況を確認することにした。
――うん、特に『アレ』以上のことはされていないようだ。どうやら昨夜の私は、怒りの言葉を脳内で繰り返している間に寝落ちしたらしい。私ってば、案外神経図太いのね。
ふいに、コーヒーの香りが漂ってきた。
「おい、飲むか?」
え? と顔を上げると、そこにはカップを片手に持ち、コーヒーを私に差し出す夏賀さんの姿が。
よかった、もう着替えている。まずそこにホッとし、それから、あれ? と疑問を持つ。
彼が差し出しているのは、使い切りのドリップでカップに注がれたコーヒー。ここに湯沸かし器とカップがあるのは知っていたけど、コーヒーはなかったはずだ。いつの間に用意したんだろう? 首を傾げる私に気づいた夏賀さんが、自分用に淹れた一杯を口に運びながら答えた。
「熱っ! ……お前が寝てから、またコンビニ行ってきたんだよ。俺は朝、コーヒーがないと目が覚めないタイプなんだ。お前のはついでに淹れただけ」
くそ、冷めねぇな、などと言いながら、夏賀さんは私にカップを手渡した。
「あ、ありがと」
なんだかんだ言いながらも、私の分のコーヒーを用意してくれた。
そういえばと自分の足を見れば、綺麗に湿布が貼られており、腫れも痛みもあまり感じない。昨夜の行為はいただけないが、根は優しい人なのかもしれないと、複雑な心境に陥る。
「だから、お前って呼ぶのやめて下さい」
なんとなく礼を言う気分になれず、つい別のことを口走った。
「ん? 大概の女はお前って呼ぶと喜ぶけどな」
「私は、嫌なんです」
自分がその他大勢に含まれる気がするし、軽んじられているようで我慢ならないのだ。
そう言うと、コーヒーをふうふうと冷ましていた夏賀さんは「へぇ」と感心した声を上げた。
「そう受け取るんだ? 面白いね、蒔山さんて」
クスクスと笑いながら、ようやくカップに口をつける。
「女って、あなたのモノになりたい、あなたのモノにして、って言いながら俺のこと縛りたがるんだけど。蒔山さんは男になにを望むの?」
「さあ、知りません。興味ありませんし」
いまの私は、色恋に溺れている暇はないのだ。
眼鏡を取った本来の夏賀さんは、女遊びの激しいヤツらしい。普段なら絶対に近づきたくないタイプだ。……足さえ挫かなければ、こんなことにはならなかったのに。
チラッと枕元のデジタル時計を見れば、チェックアウトの時間が近づいていた。
なかなかコーヒーを飲み終わらない夏賀さんをほっといて、私はベッドに腰かけ、足をゆっくりと床に下ろす。
ん、痛みはだいぶ引いたから、歩けそうだ。試しに立ち上がってみても、昨夜ほどひどくはないので、今日と明日ゆっくりすれば、月曜から普段通りに動けるだろう。まだコーヒーを飲んでいる夏賀さんを一瞥し、バッグを持って洗面所に入る。トイレを済まし、洗面所の鏡で自分の顔をチェックする。
鏡の中の私は、相変わらず派手な目鼻立ちをしていた。今日はやけに不機嫌そうだ。
メイク落とし、洗顔、化粧水に乳液……と。ファンデーションしか塗っていなかったとはいえ、メイクしたまま一晩寝てしまったのは痛い。家に帰ったら、化粧水パックしようかなと思いながら、顔をよく洗い、化粧水と乳液で整え、唇には軽くグロスだけ塗って洗面所を出る。
夏賀さんは、椅子に腰かけながらスマホを操作していた。私が出てきたので、一瞬顔を上げたが、また画面に視線を落とす。
「手際いいんだな。思ってたより早かったよ」
「え?」
「化粧。女って時間かかるだろ?」
「へえ。そのあたりもよくご存じなんですね」
私はベッドの上も軽く整え、ルームキーを手に持ちながら答えた。
「まあな。待ってる間って暇でさ。だけど暇だって言うと怒られるし、男にとっちゃ理不尽な時間だよ」
たしかに、基礎化粧から始めて、あれやこれやと技術を駆使してフルメイク、そして髪もとなれば、人によっては軽く一時間はかかるだろう。
私は生まれつき濃い顔だから、普段のメイクの時間は五分もかからない。髪型だって、もともとの癖毛がゆるふわっぽく見えるパーマ要らずの髪質なので、軽くブラシで整えれば終わりだし。
「それだけ気合い入れているんでしょうね。でも、私には関係ないわ」
「必要ない? お前だってそんな化粧してるのに」
「いま、私してないわよ」
「は?」
「してないって言ってるの、化粧を。グロスを塗っただけ」
「え……」
夏賀さんは驚いて、目をぱちくりさせる。
「してな……? は? だって……」
「もういい? チェックアウトの時間だから。じゃあね」
部屋の鍵とバッグを持ち、まだコーヒーを飲んでいる夏賀さんを置いて部屋を出る。二度と会うことはないだろう。扉を閉める直前になにか言っていた気がするけれど、私は気にせずエレベーターを目指して歩き出した。
「へー! 蒔山にしてはやるじゃん」
「やめてよ……」
週明けのお昼休み。
テーブルの向かい側に座っている京子にあの日の出来事を愚痴ると、拍手でもしそうなほどに喜ばれてしまい、私はうんざりして箸を置く。
「その夏賀って人とホテルに? へええ、男のお持ち帰りなんて初じゃない?」
京子はニマニマと人の悪い笑みを浮かべながら、お味噌汁を啜る。
今日のお味噌汁の具は、先週、食堂のおばちゃんが言っていたワカメと筍。少しだけ気分は上昇したけれど、あの夜の記憶はそれぐらいで消えない。食欲はないものの、残すのはもったいないし、綺麗に食べたいんだけど……
「ちょ、声! 声!」
誰が聞いているかわからないから、慌てて京子に注意を促す。京子もいま話すには適当ではない内容だと気づいたらしく、背中を小さくしてゴメン、と謝った。そして改めて声を潜めて私に話す。
「あの蒔山がね~。男なんてフケツよ! って一切寄せつけなかったのに」
「冗談はやめて。あれは不可抗力だってば。足さえ挫かなかったら即行で帰っていたもの」
さすがに『服脱がされて指まで挿れられたのに、処女は面倒くさいと最後まで致さず、ただ同じベッドで寝て帰った』なんてことまでは言えない。
口が裂けても、言えない。一生の不覚だ。黒歴史だ。
足を挫いて、ホテルまでつき添ってもらったけれど、キスされてしまった――と、だいぶ話を削っての愚痴だった。それでも、京子は私にしては飛躍的進歩と捉えたようだ。
「でもさ、体支えてもらったんでしょ? トリハダどうだった?」
そういえば、夏賀さんに触れられたけれどトリハダは立たなかった……と思う。
京子はそう尋ねると私の返事を聞かずに、最後の一口を食べ、弁当箱を片付けた。私も食欲はないものの、身に染みついたもったいない精神で残りのご飯を胃袋に押しこむ。そして、お茶を飲みながら、『夏賀さん』という人物を改めて脳裏に思い浮かべた。
初対面は、確かに印象が悪かった。ボサボサ髪に安っぽい銀縁眼鏡、体型に合っていない着古してテラテラ光った安物スーツ。自己紹介で名前と年齢を言ったきり一言も言葉を発することなく終始不機嫌そうな表情を浮かべていて、後輩女子たちは「キモい」とヒソヒソ言い合っていたほど。
しかし、ベッドに押し倒され、眼鏡を外して髪を掻き上げた夏賀さんの色気溢れる表情に、一瞬目を奪われてしまった。これから捕食しようとする肉食獣のように瞳をギラギラさせて――
恐らく後者の姿が、夏賀さんの本性なのだろう。ダサい銀縁眼鏡のせいで気づかなかったけれど、一回見れば忘れられないほど整った顔立ち。そして腰が砕けてしまいそうなほどに低い――
「見つけた」
そう、こんな声……えっ!?
弾かれたように振り返ると、そこには例の地味な格好をして、口の端を愉快そうに歪めた夏賀さんが立っていた。
「な……どうしてここに?」
「同じビルだから、会社」
「へっ?」
「お話し中ごめんね? いまいいかな」
目を丸くしている私に、夏賀さんの斜め後ろにいた高橋さんが話しかけてきた。それに気づいた京子が、即座に返事をする。
「あっ、高橋さん! 大丈夫ですよ、どうぞ」
高橋さんは人好きのする笑みを浮かべながら、椅子を引っ張ってきて京子の隣に座った。なぜか夏賀さんも同じようにして、私の隣へ座る。
「お久し振りですね。あ、そうそう、うちの子すっごく喜んでたから、お礼言わなきゃって思ってたのよ、ちょうどよかった」
「それはよかったです。またいい店見つけたら、お知らせしますね」
京子は高橋さんに世話になったらしく、お礼を言ったあと、「子連れ歓迎のお店って――」などと話し始めた。話の盛り上がる二人とは対照的に私たちは……
「同じビルに勤めてるだなんて知らなかったわ。もう二度と会わないと思っていたのに」
「俺は知ってた。お前目立つもんな」
「はっ? なに見てんのよ、この変態男」
「うーわ、言っちゃう? なら俺も。蒔山さんて百戦錬磨な振りして、しょ――」
「キャー! だだだだだめえええ!」
とんでもないことを言い出すから、つい、叫んでしまった。食堂にいる人たちの視線が……痛い……
「し、失礼しました……」
赤くなった頬を押さえながら身を縮める。
「夏賀さん、蒔山さんと仲よくなったんだ? 急に一人都合悪くなったから、夏賀さんにピンチヒッターに入ってもらったんだけど、仲よくなったのならよかったよ」
「ちが……」
「えー! 蒔山、ひょっとしてこの人が?」
「初めまして、夏賀です。蒔山さんとは――」
「知り合いになっただけ! ――よね?」
それ以上言うな、とギロッと横目で睨む。好きにさせていたらなにを言い出すかわからないし、これ以上親交を深める気は一切ない。だから、京子や高橋さんに誤解されたくないのだ。
「いまのところはね」
「今後も、よ」
咳払いをして居住まいを正す。私たちのやりとりを見て、高橋さんはニコニコし、京子はニヤニヤしていた。
「夏賀さんは信頼できる人だから。それは俺が保証する」
頬を緩めて夏賀さんの人柄に太鼓判を捺す高橋さん。……あの、夏賀さんて……信頼ってやつからはほど遠いですよー!
夏賀さんの本性を身をもって知ってしまった私は、隣でいかにも凡庸そうに座っている男にイラッとして、つい周りから見えないよう蹴飛ばしてしまった。
「いっ!? ちょ、お前……!」
「高橋さん、是非次もまた呼んでくださいね」
夏賀さんの抗議を軽く流し、高橋さんに笑顔でお願いしておく。
入社して早五年。二十七歳となった私は、面の皮は厚くなり、心臓には鎧が装備されている。多少の陰口ではへこたれないし、私には目標がある。それに向かって頑張っている最中なので、この程度のことで落ちこんでいるわけにはいかないのだ。
「私がついて行ってあげたいのは山々なんだけどねー」
「それは絶対やめて。旦那様の嫉妬に一人じゃ耐えられそうにないわ」
京子の旦那様は大変嫉妬深い。私と一緒に出かけると言っても怪しまれ、常に連絡がすぐ取れる状況じゃないと大変な目に遭うそうだ。聞いた当初は心配したものだが、当の本人が『束縛されてるって思うだけで……ウフフ、いいわ~……』と、夫婦そろって同じ方向を向いていたので、生温かく見守ることにしている。
「おっと、俺いまから外回りなんだ。蒔山さん、また誘うね! えーと、小長井さんもよろしければどうぞ」
高橋さんは、京子の旦那様をよく知っているらしく社交辞令を口にする。京子は豪快に笑いながら弁当の包みを持って立ち上がった。
「なーに言ってんだか。それより、蒔山の今後が心配だわ。さて、じゃあ私も先に行かせてもらうね」
「ええっ? 私も行くわよ」
「お茶飲んでないじゃない。じゃ、夏賀さんもごゆっくり~」
どうやら京子は私と夏賀さんに気を遣ったようだ。
冗談でしょ! 男と二人きりでなんていたら、どんな噂が立つか! 「じゃ、失礼します」と私も京子に続いて立ち上がろうとしたら、夏賀さんが私の腕を掴んで引きとめた。
「やめて、離してよ」
「――イヤリングの忘れ物」
「え?」
「俺と一夜を明かしたとき、忘れていっただろ」
「その言い方やめてよっ! って、ああ! それ探してたの!」
夏賀さんがポケットから出したのは、ハンカチに包まれたイヤリングだ。初任給で買った、思い出のイヤリング。あのときは急いでいて忘れていたけれど、家に帰ってからないことに気づき、落ちこんでいたのだ。そうか、ホテルに置いてきてしまったのか。
「ありがとう、それ大切なイヤリングなの」
受け取ろうと手を出すと、なぜか夏賀さんは手をひっこめる。催促するようにもう一度グッと手を差し出しても、イヤリングを返そうとする気配はない。
「ちょっと……」
「取り引き、しないか?」
「は?」
眉を寄せて夏賀さんを見上げると、夏賀さんは意地の悪い笑みを浮かべて私を見ていた。
「取り引きってなによ。いいから返して」
「十九時、この間の店」
それだけ言うと、夏賀さんはイヤリングをハンカチで元通りに包み、サッとポケットにしまう。そして「待ってるね」とだけ言い残し、颯爽と去って行った。取り残された私は、しばらく呆然としていたが、思わず口をついてしまった。
――なんのつもりだ、と。
夏賀さんの誘いに乗るかどうか散々悩んだものの、結局答えが出なかった。京子に相談してみたところ、「あらーいいじゃない。行ってらっしゃいよ」などと笑顔で言われてしまった。おそらく高橋さんの言葉を信じての発言だと思うけど、だけど、だけど……
あいつの本性を知っている身としては、騙されるな! と声高に言いたい。が、それを言ったら、どうして彼の本性を知ることになったかの経緯も全て話さなければならなくなる。私は口を噤むしかないけど、なんだかムカムカする。
でも、あのイヤリングは初任給で買った思い出の品なので、どうしても返してもらいたい。
データをダカダカと打ちこみ、ようやく仕事を片付けたのが十九時を少し回ったところ。夏賀さんに時間と場所を指定されたけれど、連絡の取りようがなくて気ばかり焦る。勝手に決められたとはいえ、人を待たせるのが苦手な私としては心苦しいのだ。バタバタと出来上がったデータを上司に転送し、プリントアウトした資料をファイルに綴じこみ、急いで更衣室に駆けこんだ。
ロッカーの扉についた鏡を見ながら、一つに結んでいた髪を下ろし、グロスを塗り直していたら、ちょうど更衣室に入ってきた城之内さんに声をかけられた。
「あ、蒔山先輩、お疲れ様でーす。これからデートですか~?」
ゴホッ、となにも口に含んでいないのにむせてしまう。
い、いやいや、デートじゃないし。ただ忘れ物を受け取りに行くだけだし。そう自分に言い聞かせる。
「そうか」と頷いた夏賀さんは、私のナカから指を抜き、頭上で纏めていた手首を放して、ベッドから降りる。そしてお湯で濡らしたタオルを持ってきて、私の胸を拭き、次にベトベトになった秘所を拭おうとしてきた。
慌ててタオルを引っ掴み、「あっち向いてて!」と叫んで自分で拭う。
冷静になったいま、ふたたびその場所を他人に触らせるなんてありえないわ!
「悪い。俺、てっきり……」
来る者拒まず、様々な男を渡り歩いていると噂されていたから……夏賀さんはそう言い訳をしたけれど、「でも俺、ドア開けるなよ、って忠告したよな」と開き直ってみせた。
「どうせ遊んでる女だって思ったんでしょ。だから嫌なのよ、男って」
「蒔山さんて……ソッチの人?」
「え? ……って、違うわよ!!」
ソッチ、と言われて一瞬首を傾げたが、それが同性愛者かと問われたのだと気づき、思わず怒鳴ってしまった。
「私は、見た目で判断されるのが大嫌いなのよ! えーえー、そうですよ。この年まで経験がないのも、ヤる目的ですぐ近づいてくる男が大っっ嫌いだからです!!」
乱れた衣服を直しながら、夏賀さんに怒りをぶつける。
ドアを開けた私も不注意だった。けれど、親切な男と思わせておいて襲ってきたのだから、絶対こいつが悪いに決まっている。
「もういいだろ。ちゃんと途中でやめたし」
「途中とか、そういう問題じゃない!」
「っていうか、俺の好みじゃないしな、蒔山さんて」
「は?」
「俺は、もっと……和風の、清楚で可憐で、黒髪ロングの、深窓のお嬢様ってタイプがいいんだ。ま、遊ぶのは、頭軽そうで見た目が派手なお前みたいなヤツだけどな。後腐れないし」
「……」
つまり、私は性欲発散のために選ばれたってわけか。清楚とは対極の派手な顔をしているというだけで。
「それにさ、好みのタイプだったら絶対処女がいいけど、遊び相手に処女なんて面倒くさいだけだろ」
「面倒くさい?」
そういえば、さっきもそんなことを言っていたような。マグロがどうとか……ん?
「マグロってなに?」
そう尋ねると、夏賀さんは、ぶはっとお腹を抱えて笑い出した。
「ちょ、マジ? マグロも知らねーの?」
「え、ちょ、どういう意味なの!?」
「なんにもしないで、ただされるがままってこと。まな板の上の鯉ってね。こっちは喘がせたくて頑張ってるのに、反応ないんじゃ萎えるよな?」
「萎えるよな、って私に同意を求めないでよ!」
腹が立って手元にあった枕を投げつけると、夏賀さんは難なく受け止めた。そして「処女じゃ、マグロの意味を知らなくてもしょうがないね」などと言って、ニヤニヤしながら私を見る。
「だいたい、夏賀さんだって本性隠してたじゃない。親切な人だと思ったから、信用……したのに」
「だーかーらー。それがお前の処女たるゆえんだな。甘いっつーの。だいたい俺ら、今日会ったばかりだろ? なに簡単に信用してんだよ。男ってのは、穴があったら挿れたいもんなの。お前、ほんとに世間知らずだな」
「さっきから、お、お、お前って!」
お前呼ばわりが気に入らず、怒鳴りつけてやろうと思ったら、夏賀さんはベッドにドサッと腰かけて、私の足首をひょいと掴んだ。
「きゃあっ! なにするの!」
「冷やすんだよ。挫いたんだろ? ……ちょっと氷、溶けかけてるけど、まあいいか」
そう言って、私の体を拭いたのとは別のタオルで氷の入った袋を包み、私の足に乗せた。
あ……ひんやりして気持ちがいい。さっきまでのゴタゴタで痛みを忘れていたけれど、やはり痛いものは痛い。
「そんなひどくないみたいだな、冷やしすぎもよくない。もうちょっとしたら冷湿布に取り替えて」
感謝なんてしたくないけれど、ここは素直に従っておこう。
「お前さ、見た目とずいぶん違うんだな。爪もギリギリまで切ってるし、甘ったるい香水もつけてないし……思ったより地味?」
私の爪の先を指でなぞって、そんなことを口にする。
「お前って呼ばないで。見た目と違うって、なに勝手にガッカリしてるの。私は最初から自分を偽ってなんかいないわ。見た目で判断したの、夏賀さんでしょう」
「見た目と噂かな。見た目、水商売のおねーちゃんみたいだし。合コンには参加するくせに好みの男がいないとすぐ消えるとか、愛人やってるとか、散々言われているのに否定しねーだろ」
「……しても無駄なの」
そう、いままで……うんと小さいころから、この濃い顔つきのために誤解され続けてきたのだ。何度となく誤解を解こうとしたが、女性の嫉妬は怖い。尾ひれがついてさらに広がってしまう。仲がいいと思っていた女友達に裏切られたことなど数知れず。だから、もう諦めたというか……
俯いた私の頭を、夏賀さんはぽんぽんと軽く叩いた。
「悪い」
言葉を濁した私の気持ちを、夏賀さんは汲み取ったようだ。あっさりと引き下がったので、肩透かしを食った気分だ。
……まあ、遊び相手の女性には深く立ち入らない、という夏賀さんのポリシーが表れているともいえるのか。
確かに、初対面でいきなり襲ってきた相手に話すことでもないわね。というか、なんで私は自分のコンプレックスを夏賀さんに話そうとしているんだろう。不思議に思いながらも、投げやりに呟いた。
「いまさらなに言われても……平気よ」
「慣れるなよ、そこは。だいたい嫌だったら、合コン出なきゃいいだろ。なんで出るんだよ?」
「え、と……。せ、節約のため、かな」
「は? 節約?」
「私が行けば、男性のランクが上がるとかで、食事代免除してくれるんですよ。だから」
「はぁ? ……お前さ、ばっかじゃねーの」
夏賀さんは私のおでこをピンと指ではじき、立ち上がってスーツのジャケットを脱いだ。そしてネクタイを外し――
「えっ、あの、あの! 服、服!!」
処女はめんどくさいから抱かないんじゃなかったの!? 安心しきったところでふたたび貞操の危機⁉
足の上に氷の入ったタオルを乗せたまま、ズリズリとヘッドボードまで後退する。そんな私に、夏賀さんはしれっと言った。
「もう夜遅いし、ここで寝てく」
「は?」
「ダブルだし、ちょうどいいじゃん」
「ちょうどいいって……え?」
「お前はもう少し、足冷やしておいた方がいいな。じゃあ俺、風呂先に入るわ」
「えっ、あの、ちょっと……」
いったいどういうこと?
目を丸くしている私をよそに、夏賀さんはクローゼットを開けてハンガーにジャケットをかけ、ワイシャツを脱ぎ、ベルトを外し――
「えっち。見んな」
ズボンに手をかけたところで振り返り、そんな言葉を投げつけた。
そ、それは私の台詞でしょ!? そもそも、私、泊まっていいだなんて言ってないーー!
「ま、待って!」
手を伸ばして制止の声を上げたが、無情にも風呂場に続くドアは閉まり、カチャッと施錠の音が聞こえた。
――なんなの、あいつ! なんなの、あいつ!
その言葉を百二十三回唱えたところで、疲れからか、ふっつりと記憶が途切れてしまった。
「おはよう」
「……は?」
寝ぼけ眼に映し出されたのは、けだるげな表情をしているイケメンでした。
――って!
「誰⁉」
「へー、指の挿入までした俺のこと覚えてな――もごっ」
「そそそそれ以上言わないでーー!」
慌てて美形の口を手で塞ぐ。思い出した! 一瞬で思い出しましたとも!
「ど、ど、どうして同衾⁉ って、やあああ舐めないでぇぇっ!」
「同衾て……古式ゆかしいな。そんな言葉があること忘れてたわ」
掌に生温かいモノがぬるっと触れ、慌てて手を引く。すると夏賀さんは、笑いを噛み殺しながら髪を掻き上げた。
なんだろうこの人は。眼鏡を取ったら美人でした、ならわかるけれど、ダサ男が実はイケメンでした、ってなんなのそれは!
無駄に色気を放つ夏賀さんを直視できず、思わず顔を伏せたら、夏賀さんの下半身が目に飛びこんできた。
「や、やだっ! ちょ、服、というか……っ」
「だって皺になるだろう? ……じゃなくて? ああ、これ朝勃ち。男の生理現象だから気にすんな」
言わないでよ、その単語を!
涙目になって固まる私に、夏賀さんは「お前って面白いな。処女丸出しの言動じゃねーか」とニヤニヤしながらベッドから降りた。そしてズボンとワイシャツを……身に着けてくれているようだ。
ようだっていうのは、もちろん直視なんてできるはずがなく、枕に顔を埋めていたから。そしてなにやら、ペリペリとかカチャッとかピーとか、色々な音が聞こえてきたけれど、顔を上げるタイミングがわからず、とりあえず自分の体の状況を確認することにした。
――うん、特に『アレ』以上のことはされていないようだ。どうやら昨夜の私は、怒りの言葉を脳内で繰り返している間に寝落ちしたらしい。私ってば、案外神経図太いのね。
ふいに、コーヒーの香りが漂ってきた。
「おい、飲むか?」
え? と顔を上げると、そこにはカップを片手に持ち、コーヒーを私に差し出す夏賀さんの姿が。
よかった、もう着替えている。まずそこにホッとし、それから、あれ? と疑問を持つ。
彼が差し出しているのは、使い切りのドリップでカップに注がれたコーヒー。ここに湯沸かし器とカップがあるのは知っていたけど、コーヒーはなかったはずだ。いつの間に用意したんだろう? 首を傾げる私に気づいた夏賀さんが、自分用に淹れた一杯を口に運びながら答えた。
「熱っ! ……お前が寝てから、またコンビニ行ってきたんだよ。俺は朝、コーヒーがないと目が覚めないタイプなんだ。お前のはついでに淹れただけ」
くそ、冷めねぇな、などと言いながら、夏賀さんは私にカップを手渡した。
「あ、ありがと」
なんだかんだ言いながらも、私の分のコーヒーを用意してくれた。
そういえばと自分の足を見れば、綺麗に湿布が貼られており、腫れも痛みもあまり感じない。昨夜の行為はいただけないが、根は優しい人なのかもしれないと、複雑な心境に陥る。
「だから、お前って呼ぶのやめて下さい」
なんとなく礼を言う気分になれず、つい別のことを口走った。
「ん? 大概の女はお前って呼ぶと喜ぶけどな」
「私は、嫌なんです」
自分がその他大勢に含まれる気がするし、軽んじられているようで我慢ならないのだ。
そう言うと、コーヒーをふうふうと冷ましていた夏賀さんは「へぇ」と感心した声を上げた。
「そう受け取るんだ? 面白いね、蒔山さんて」
クスクスと笑いながら、ようやくカップに口をつける。
「女って、あなたのモノになりたい、あなたのモノにして、って言いながら俺のこと縛りたがるんだけど。蒔山さんは男になにを望むの?」
「さあ、知りません。興味ありませんし」
いまの私は、色恋に溺れている暇はないのだ。
眼鏡を取った本来の夏賀さんは、女遊びの激しいヤツらしい。普段なら絶対に近づきたくないタイプだ。……足さえ挫かなければ、こんなことにはならなかったのに。
チラッと枕元のデジタル時計を見れば、チェックアウトの時間が近づいていた。
なかなかコーヒーを飲み終わらない夏賀さんをほっといて、私はベッドに腰かけ、足をゆっくりと床に下ろす。
ん、痛みはだいぶ引いたから、歩けそうだ。試しに立ち上がってみても、昨夜ほどひどくはないので、今日と明日ゆっくりすれば、月曜から普段通りに動けるだろう。まだコーヒーを飲んでいる夏賀さんを一瞥し、バッグを持って洗面所に入る。トイレを済まし、洗面所の鏡で自分の顔をチェックする。
鏡の中の私は、相変わらず派手な目鼻立ちをしていた。今日はやけに不機嫌そうだ。
メイク落とし、洗顔、化粧水に乳液……と。ファンデーションしか塗っていなかったとはいえ、メイクしたまま一晩寝てしまったのは痛い。家に帰ったら、化粧水パックしようかなと思いながら、顔をよく洗い、化粧水と乳液で整え、唇には軽くグロスだけ塗って洗面所を出る。
夏賀さんは、椅子に腰かけながらスマホを操作していた。私が出てきたので、一瞬顔を上げたが、また画面に視線を落とす。
「手際いいんだな。思ってたより早かったよ」
「え?」
「化粧。女って時間かかるだろ?」
「へえ。そのあたりもよくご存じなんですね」
私はベッドの上も軽く整え、ルームキーを手に持ちながら答えた。
「まあな。待ってる間って暇でさ。だけど暇だって言うと怒られるし、男にとっちゃ理不尽な時間だよ」
たしかに、基礎化粧から始めて、あれやこれやと技術を駆使してフルメイク、そして髪もとなれば、人によっては軽く一時間はかかるだろう。
私は生まれつき濃い顔だから、普段のメイクの時間は五分もかからない。髪型だって、もともとの癖毛がゆるふわっぽく見えるパーマ要らずの髪質なので、軽くブラシで整えれば終わりだし。
「それだけ気合い入れているんでしょうね。でも、私には関係ないわ」
「必要ない? お前だってそんな化粧してるのに」
「いま、私してないわよ」
「は?」
「してないって言ってるの、化粧を。グロスを塗っただけ」
「え……」
夏賀さんは驚いて、目をぱちくりさせる。
「してな……? は? だって……」
「もういい? チェックアウトの時間だから。じゃあね」
部屋の鍵とバッグを持ち、まだコーヒーを飲んでいる夏賀さんを置いて部屋を出る。二度と会うことはないだろう。扉を閉める直前になにか言っていた気がするけれど、私は気にせずエレベーターを目指して歩き出した。
「へー! 蒔山にしてはやるじゃん」
「やめてよ……」
週明けのお昼休み。
テーブルの向かい側に座っている京子にあの日の出来事を愚痴ると、拍手でもしそうなほどに喜ばれてしまい、私はうんざりして箸を置く。
「その夏賀って人とホテルに? へええ、男のお持ち帰りなんて初じゃない?」
京子はニマニマと人の悪い笑みを浮かべながら、お味噌汁を啜る。
今日のお味噌汁の具は、先週、食堂のおばちゃんが言っていたワカメと筍。少しだけ気分は上昇したけれど、あの夜の記憶はそれぐらいで消えない。食欲はないものの、残すのはもったいないし、綺麗に食べたいんだけど……
「ちょ、声! 声!」
誰が聞いているかわからないから、慌てて京子に注意を促す。京子もいま話すには適当ではない内容だと気づいたらしく、背中を小さくしてゴメン、と謝った。そして改めて声を潜めて私に話す。
「あの蒔山がね~。男なんてフケツよ! って一切寄せつけなかったのに」
「冗談はやめて。あれは不可抗力だってば。足さえ挫かなかったら即行で帰っていたもの」
さすがに『服脱がされて指まで挿れられたのに、処女は面倒くさいと最後まで致さず、ただ同じベッドで寝て帰った』なんてことまでは言えない。
口が裂けても、言えない。一生の不覚だ。黒歴史だ。
足を挫いて、ホテルまでつき添ってもらったけれど、キスされてしまった――と、だいぶ話を削っての愚痴だった。それでも、京子は私にしては飛躍的進歩と捉えたようだ。
「でもさ、体支えてもらったんでしょ? トリハダどうだった?」
そういえば、夏賀さんに触れられたけれどトリハダは立たなかった……と思う。
京子はそう尋ねると私の返事を聞かずに、最後の一口を食べ、弁当箱を片付けた。私も食欲はないものの、身に染みついたもったいない精神で残りのご飯を胃袋に押しこむ。そして、お茶を飲みながら、『夏賀さん』という人物を改めて脳裏に思い浮かべた。
初対面は、確かに印象が悪かった。ボサボサ髪に安っぽい銀縁眼鏡、体型に合っていない着古してテラテラ光った安物スーツ。自己紹介で名前と年齢を言ったきり一言も言葉を発することなく終始不機嫌そうな表情を浮かべていて、後輩女子たちは「キモい」とヒソヒソ言い合っていたほど。
しかし、ベッドに押し倒され、眼鏡を外して髪を掻き上げた夏賀さんの色気溢れる表情に、一瞬目を奪われてしまった。これから捕食しようとする肉食獣のように瞳をギラギラさせて――
恐らく後者の姿が、夏賀さんの本性なのだろう。ダサい銀縁眼鏡のせいで気づかなかったけれど、一回見れば忘れられないほど整った顔立ち。そして腰が砕けてしまいそうなほどに低い――
「見つけた」
そう、こんな声……えっ!?
弾かれたように振り返ると、そこには例の地味な格好をして、口の端を愉快そうに歪めた夏賀さんが立っていた。
「な……どうしてここに?」
「同じビルだから、会社」
「へっ?」
「お話し中ごめんね? いまいいかな」
目を丸くしている私に、夏賀さんの斜め後ろにいた高橋さんが話しかけてきた。それに気づいた京子が、即座に返事をする。
「あっ、高橋さん! 大丈夫ですよ、どうぞ」
高橋さんは人好きのする笑みを浮かべながら、椅子を引っ張ってきて京子の隣に座った。なぜか夏賀さんも同じようにして、私の隣へ座る。
「お久し振りですね。あ、そうそう、うちの子すっごく喜んでたから、お礼言わなきゃって思ってたのよ、ちょうどよかった」
「それはよかったです。またいい店見つけたら、お知らせしますね」
京子は高橋さんに世話になったらしく、お礼を言ったあと、「子連れ歓迎のお店って――」などと話し始めた。話の盛り上がる二人とは対照的に私たちは……
「同じビルに勤めてるだなんて知らなかったわ。もう二度と会わないと思っていたのに」
「俺は知ってた。お前目立つもんな」
「はっ? なに見てんのよ、この変態男」
「うーわ、言っちゃう? なら俺も。蒔山さんて百戦錬磨な振りして、しょ――」
「キャー! だだだだだめえええ!」
とんでもないことを言い出すから、つい、叫んでしまった。食堂にいる人たちの視線が……痛い……
「し、失礼しました……」
赤くなった頬を押さえながら身を縮める。
「夏賀さん、蒔山さんと仲よくなったんだ? 急に一人都合悪くなったから、夏賀さんにピンチヒッターに入ってもらったんだけど、仲よくなったのならよかったよ」
「ちが……」
「えー! 蒔山、ひょっとしてこの人が?」
「初めまして、夏賀です。蒔山さんとは――」
「知り合いになっただけ! ――よね?」
それ以上言うな、とギロッと横目で睨む。好きにさせていたらなにを言い出すかわからないし、これ以上親交を深める気は一切ない。だから、京子や高橋さんに誤解されたくないのだ。
「いまのところはね」
「今後も、よ」
咳払いをして居住まいを正す。私たちのやりとりを見て、高橋さんはニコニコし、京子はニヤニヤしていた。
「夏賀さんは信頼できる人だから。それは俺が保証する」
頬を緩めて夏賀さんの人柄に太鼓判を捺す高橋さん。……あの、夏賀さんて……信頼ってやつからはほど遠いですよー!
夏賀さんの本性を身をもって知ってしまった私は、隣でいかにも凡庸そうに座っている男にイラッとして、つい周りから見えないよう蹴飛ばしてしまった。
「いっ!? ちょ、お前……!」
「高橋さん、是非次もまた呼んでくださいね」
夏賀さんの抗議を軽く流し、高橋さんに笑顔でお願いしておく。
入社して早五年。二十七歳となった私は、面の皮は厚くなり、心臓には鎧が装備されている。多少の陰口ではへこたれないし、私には目標がある。それに向かって頑張っている最中なので、この程度のことで落ちこんでいるわけにはいかないのだ。
「私がついて行ってあげたいのは山々なんだけどねー」
「それは絶対やめて。旦那様の嫉妬に一人じゃ耐えられそうにないわ」
京子の旦那様は大変嫉妬深い。私と一緒に出かけると言っても怪しまれ、常に連絡がすぐ取れる状況じゃないと大変な目に遭うそうだ。聞いた当初は心配したものだが、当の本人が『束縛されてるって思うだけで……ウフフ、いいわ~……』と、夫婦そろって同じ方向を向いていたので、生温かく見守ることにしている。
「おっと、俺いまから外回りなんだ。蒔山さん、また誘うね! えーと、小長井さんもよろしければどうぞ」
高橋さんは、京子の旦那様をよく知っているらしく社交辞令を口にする。京子は豪快に笑いながら弁当の包みを持って立ち上がった。
「なーに言ってんだか。それより、蒔山の今後が心配だわ。さて、じゃあ私も先に行かせてもらうね」
「ええっ? 私も行くわよ」
「お茶飲んでないじゃない。じゃ、夏賀さんもごゆっくり~」
どうやら京子は私と夏賀さんに気を遣ったようだ。
冗談でしょ! 男と二人きりでなんていたら、どんな噂が立つか! 「じゃ、失礼します」と私も京子に続いて立ち上がろうとしたら、夏賀さんが私の腕を掴んで引きとめた。
「やめて、離してよ」
「――イヤリングの忘れ物」
「え?」
「俺と一夜を明かしたとき、忘れていっただろ」
「その言い方やめてよっ! って、ああ! それ探してたの!」
夏賀さんがポケットから出したのは、ハンカチに包まれたイヤリングだ。初任給で買った、思い出のイヤリング。あのときは急いでいて忘れていたけれど、家に帰ってからないことに気づき、落ちこんでいたのだ。そうか、ホテルに置いてきてしまったのか。
「ありがとう、それ大切なイヤリングなの」
受け取ろうと手を出すと、なぜか夏賀さんは手をひっこめる。催促するようにもう一度グッと手を差し出しても、イヤリングを返そうとする気配はない。
「ちょっと……」
「取り引き、しないか?」
「は?」
眉を寄せて夏賀さんを見上げると、夏賀さんは意地の悪い笑みを浮かべて私を見ていた。
「取り引きってなによ。いいから返して」
「十九時、この間の店」
それだけ言うと、夏賀さんはイヤリングをハンカチで元通りに包み、サッとポケットにしまう。そして「待ってるね」とだけ言い残し、颯爽と去って行った。取り残された私は、しばらく呆然としていたが、思わず口をついてしまった。
――なんのつもりだ、と。
夏賀さんの誘いに乗るかどうか散々悩んだものの、結局答えが出なかった。京子に相談してみたところ、「あらーいいじゃない。行ってらっしゃいよ」などと笑顔で言われてしまった。おそらく高橋さんの言葉を信じての発言だと思うけど、だけど、だけど……
あいつの本性を知っている身としては、騙されるな! と声高に言いたい。が、それを言ったら、どうして彼の本性を知ることになったかの経緯も全て話さなければならなくなる。私は口を噤むしかないけど、なんだかムカムカする。
でも、あのイヤリングは初任給で買った思い出の品なので、どうしても返してもらいたい。
データをダカダカと打ちこみ、ようやく仕事を片付けたのが十九時を少し回ったところ。夏賀さんに時間と場所を指定されたけれど、連絡の取りようがなくて気ばかり焦る。勝手に決められたとはいえ、人を待たせるのが苦手な私としては心苦しいのだ。バタバタと出来上がったデータを上司に転送し、プリントアウトした資料をファイルに綴じこみ、急いで更衣室に駆けこんだ。
ロッカーの扉についた鏡を見ながら、一つに結んでいた髪を下ろし、グロスを塗り直していたら、ちょうど更衣室に入ってきた城之内さんに声をかけられた。
「あ、蒔山先輩、お疲れ様でーす。これからデートですか~?」
ゴホッ、となにも口に含んでいないのにむせてしまう。
い、いやいや、デートじゃないし。ただ忘れ物を受け取りに行くだけだし。そう自分に言い聞かせる。
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