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2巻
2-3
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「えーと、滝浪さん、お世話になります」
「はーい。じゃあ、さっそく、社内の案内から始めますね」
後ろに二人を従えて、それぞれの部署やトイレの場所、資料室や会議室などを回る。
新井田君は初対面の私にもどんどん話しかけてくる。さっすが営業部、期待の新人なだけありますね!
あれこれと話しているうちに、ん? と気づいた。笹森さんはそうでもないけど、新井田君は方言がちょいちょい出る。聞けば、「ああ、俺は函館の田舎に実家があって、ばーちゃん子だったから」と爽やかな笑顔で答えた。
笹森さんは? と尋ねると、訛らないように練習したけれど、ふとした時に出ちゃうんです、と頬をピンクに染めながら言った。うおお、可愛いなあ!
案内中、新井田君は気になることをあれこれ私に質問し、笹森さんは手帳にサラサラとメモっている。それから電話を受けた時の対応、書類や事務用品のしまってある棚などを説明して回っていると、いつの間にか昼休みになってしまった。
大体は外へ食事に行ったり、お弁当を買ってきたりするけれど、今日は私、お弁当を作ってきたんだよね。二人にはどうしてもらおうかと考えていると、マメ橋センパイが戻ってきた。
「ただいまー」
「あ、お疲れ様です! そうだ、新井田君、笹森さん、こちらがマメは――じゃなかった、高橋センパイです。新井田君にこれから付いてくれるセンパイですよ」
「お久しぶりです先輩! その節はありがとうございました」
マメ橋センパイに向かって爽やかな笑顔を向ける新井田君。
「えーと、マメ橋センパイの後輩でしたよね?」
「そうそう。就職活動中に大学のOB会があって、そこで初めて高橋先輩と会ったんだ」
「教授からさ、おれとタイプが似てるし、営業向きだからって新井田を紹介されてね。だからうちの会社にナンパしたのさ」
大学の先輩後輩、男二人で笑いあう姿……おぉ……新たなネタ発見ですよ。
そう言われてみれば、確かに新井田君は人好きのする笑顔や、コミュニケーション能力の高さがマメ橋センパイと似てるかも。
ひとしきり雑談していると、マメ橋センパイが「あっ」と、腕時計を見た。
「やべ、もう昼過ぎてるのな。三人ともこれからお昼?」
「そうなんですよ。私、お弁当持ってきちゃったので、新井田君と笹森さんのお昼、どうしようかと思いまして……」
「じゃあ、おれもまだだし、二人を連れて昼行ってくるわ」
昼食はたいてい私と圭吾さんがお弁当を一緒に食べる、というのを知っているマメ橋センパイは、気を遣ってくれたのだ。
いってらっしゃーい! と送りだして、私は自分の席に戻り、お弁当を取り出す。大事に抱えて振り返ると、圭吾さんはちょうど電話中だった。カタカタとキーボードを叩きながらモニターを見て、通話している……うう、我が旦那様ながら超かっこいいですね! 背後の窓から太陽の光がキラキラと差していて、まるで後光のようです。
受話器を持つ手……真剣なお顔……ブルブル震えちゃうほど素敵です! それからキリッと引きしまった表情で仕事の話をしている声! その声で甘い言葉を吐かれてごらんなさいよ! 腰砕け、とはまさにこのこと、という体験ができますぜ!!
以前ならばこの萌えを漫画にすべてつぎこんだものですが、禁止令がでているもので……それでもまあ妄想するのは禁止されていないので、電話が終わるまで存分に楽しませていただきますぜ、旦那!
ゴスッ。
「ぎゃっ!」
「場所を考えろ、場所を」
「ちょ、早っ! いつの間に電話終わったんですかっ! っていうか、そこファイルの角! 角!」
目の前に星が飛びましたよ! うおぉぉぉ、痛いぃぃぃぃ!!
危うくお弁当箱を落とすところでした!!
圭吾さんは私の鼻をキュッとつまみ、小さくため息を吐いた。
「ユリ。今フロアに誰もいないからよかったが、その妄想中にだらしなくなる顔はどうにかならんのか」
「へ!? ほーひはっへ(どうにかって)?」
「封印しろ」
へっ? だらしない表情をした覚えはないんですけどねー?
「無自覚め。いいか、そういう素の顔は俺だけのものだ。少しは慎め」
「は……は、いぃ……?」
無自覚? 素の顔? 私は訳がわからずキョトンとする。すると、圭吾さんは顔を緩め、私の頭を大きな手でポンポンと撫でた。
「まあいい、それがユリだからな。腹減ったし、行くぞ」
「あっ……は、はいっ!」
私が抱えていた二人分のお弁当箱を圭吾さんはひょいと持ち、いつも一緒にお弁当を食べる時に使う小さな会議室へ足を向ける。
私は火照るほっぺたをペチペチと叩きながら、「待ってくださいーっ!」と圭吾さんの背中を追いかけていった。
午後になると、マメ橋センパイは新井田君を連れて再び外回りへ出た。
一方、渡辺センパイは終日不在なので、笹森さんは私と一緒に事務処理を始めることに。すでに他の支社で研修済なので、実際のところ、業務に関して教えることはあまりない。というか、私と同じレベルだと思う。
私は十六時からの源じぃ……じゃなかった、ゲンゾウ工房との打ち合わせに同席するので、それまでですが。
「――笹森さんは、もう大体のことはオッケーだよね?」
隣の席に座った笹森さんのほうを向いて問いかける。すらりと伸びた脚ってだけでもポイント高いっつーのに、お行儀よく膝小僧をきちんと合わせて座っている姿はますます可愛らしい。
チラッと見ながらムラムラしている私に、笹森さんは桜色の唇を開けて答えた。
「はい、おそらく滝浪さんよりできると思います」
――んっ?
「でもこちらの会社では初めてなので、渡辺先輩がいらっしゃるまではよろしくお願いします」
――んんっ?
なにか言葉に棘を感じましたが、気のせいでしょうか……
あ、あはは……と曖昧に笑っていると、電話が鳴った。おっと、二コール内で取りますよ! ――って! 私が手を伸ばそうとしたその矢先、笹森さんの手が受話器を取り上げた。
「はい、お電話ありがとうございます。――」
ハキハキと、聞き取りやすい声で話す笹森さんは、すでに歴戦の勇者並でした……
電話は取引先からの問い合わせだったようだけれど、笹森さんは一言も私に尋ねず、営業の担当者にサッサと電話を繋いだ。受話器を下ろした彼女を、ぽかんと眺めていたら、ふっと鼻で笑われた。
「一応、ここでの先輩ですよね? しっかりしてください」
「え……ていうか、取引先とか担当とか、まだ教えてなかったような……」
「午前中見せていただいた資料で、大体掴んでますから。基本中の基本です」
う、ううっ、笹森さんてハッキリ言う人だな……怖いっ。
……ムムム……なんだか一筋縄ではいかなそうな予感……
同い年ということもあって、もっとフレンドリーに付き合えるかなと思いましたが、ひょっとしてアレですか? 私のオタク臭が漏れていて、警戒させてしまっているのでしょうか?
書類作成時も私に見せることなく提出(内容は合ってる)、来客時の対応(言うことなし)、データ入力(私の半分の時間で終了)……
な、なんだよぉぉっ!
「滝浪さん、ゲンゾウ工房の過去のデータ出してもらえる?」
圭吾さんが私の机の傍らにやってきて、そう言った。
「あっ……はいっ!」
打ち合わせの準備をしなきゃいけなかった!
慌ててパソコンを操作していたら、横から「この資料で合ってますか?」と冊子が差し出された。
「……これは笹森さんが?」
「過去のデータと、それに関係する資料をいくつかまとめてあります……や、やだ! すみません! 出過ぎたマネをしてしまいまして……」
私をちらっと見ながら、頬をピンクに染める笹森さん。
――え、ちょ、その態度……ナニ!?
「いや、助かる。――なかなかよくできているじゃないか。今日さっそく使わせてもらおう」
「ありがとうございます。ウフフッ、憧れの袴田課長に褒めていただいて、とても嬉しいです」
「憧れ……? それは光栄だな」
「以前より噂に聞いておりまして……課長のお役に少しでも立てるよう色々勉強してきましたから。北海道でも一ヶ月ご一緒させていただくので、よろしくお願いします」
「ああ。期待してるよ」
おぉぉ……ピンク色のオーラが見えますよ! なんだ、この華やかさは!
こ、これが女子力というものか……っ!
圭吾さんが資料を持って応接ブースに向かったのを見届けると、笹森さんは黙ってパソコン操作に戻った。
「笹森さん、けい……ゴホン、袴田カチョーの噂ってどんな内容なの?」
すると笹森さんは、モニターから視線を外すことなく、面倒くさそうに口を開いた。
「あんなにできる人、なかなかいないわよ。研修先でも評判は散々聞いたわ。誰も思いつかないような素晴しい改革をするって」
そうですよ、ええ、そうでしょうとも! 圭吾さんはすごいお方なのです。
「人にも厳しいけれど、自分に対してはさらに厳しい。それに部下を育てるのも上手だって、課長と一緒に仕事をした人が口を揃えて言うわ」
あああ、それはもうよくわかります。ちょっとしたアドバイスで、ああこういうことかーって開眼できるのです。圭吾さんの部下として置いていただいたおかげで、我ながらとても成長したと思いますよ。まぁ……笹森さんを見ていると、その自信が消え失せますけど。
「おまけにあのビジュアルでしょ? 全国に彼女がいるとか、入れ喰いとか、ずいぶんなこと言われていたけど、実際は全く遊んでいる様子がなかったのよね。それとなく聞くと『心に決めた人がいる』なんて王子様みたいなセリフを、なんのためらいもなく言ってのけたりするらしいの!」
現地妻! 入れ喰い! わあああっっ!
いや、確かに私も入社当時は、そのようなことを思わないでもなかった。だってほんとに高スペックでステキな人なのに、彼女もいない独身男性なんて(バツイチですけども)、とっても希少ですからね。
――きっと遊んでるでしょーね、などと思わせといて、実はその相手は男の部下。決して知られてはいけないし、伝えてはならない秘めたる想いを胸に、日々業務をこなす……そう、それは男×男のメイクドラマ――っていう方向に妄想が働いてしまい、全三作ともなった『課長、深夜に愛を』ができあがったのです。
っていうか、笹森さん、口調がずいぶん砕けて……ま、まあいいですけど。
視線すらこちらに向けずに話していた笹森さんは、急にダン、と机を拳で叩いた。
「それが、よ? 急に結婚したっていうじゃないの! 私が入社した時は独身だって聞いていたのに、なんで……!」
「え……ええ?」
「バツイチってのは知っているけど、それ以降はフリーだったはずよ? 色々探りを入れていたけど、そんな気配全くなかったのに!」
怒りがキーボードへ向かったのか、ダダダダダダダダダッと恐ろしい速さでデータが入力されていく。
その様子を傍から見ていた私は慄きました。ま、まさか……!?
笹森さんはギシッと背もたれに体を預け、ゆっくりと私を見た。
「……ねえ、滝浪さん、袴田課長のお相手って知ってる?」
「ひっ……!」
ちょ、ちょ、ちょっと! えええ? ひょっとして…… 〝袴田課長〟と結婚した〝私〟のこと、知らない……んですか? そしてそして、えーっと、つまり、笹森さんてば、圭吾さんのことが……?
私の混乱をよそに、笹森さんはじーっと私の目を見て言った。
「袴田課長と結婚した相手よ。あなた、課長の補佐をしてるんでしょ? ほら、同い年のよしみで教えて。ねっ?」
「し、し……知って、どうするんですかっ!」
動揺する私に、笹森さんはにっこりと答える。
「奪うのよ」
「えっ」
「私ね、障害があった方が燃えるの。だいたい、私が今回の出張研修に立候補して、北海道からわざわざここにやってきたのは、袴田課長がいるからだもの。袴田課長の……ううん、まあいいわ。それはこっちのこと。で、どうなの? あんなにもできる人の妻だから手強そうだけど……」
いえ、むしろチョロいかと思います……じゃなくて!
「おおおおおおおくさまについてですがっ……!」
「どう? ユリちゃん納品書できた?」
私が意を決して、自ら名乗り出ようとしたところで清水係長――この秋から係長に就いた――が、私達のところへやってきた。
心臓が恐ろしい速さでリズムを刻んでいたところに、急に話しかけられた私は「うぎゃっ!」と椅子ごとひっくり返ってしまった。
「きゃあっ! 滝浪さん!」
「ユリちゃん!?」
ガターン、と盛大に転がったため、フロア中の視線が私にク・ギ・ヅ・ケ☆――ってそうじゃない!
「ううう……痛い……はっ! し、失礼しましたっ!」
ヨチヨチと這い上がり、こちらを見ているフロアの人々へ向かってペコペコと頭を下げた。トホホ、お恥ずかしい。
圭吾さんは電話中だったけど、こっちを見ながら口を動かし『阿呆』と……
そ、そうですよね。仕事中は私に対して、圭吾さんはあくまでも一社員として接するのです。
「滝浪さん、大丈夫ですか? 痛むところ、ありませんか?」
先ほどまでと打って変わって、笹森さんはいかにも〝同僚を心配する優しい女〟へと変身していた。おおお、す、すごい女優っぷり! 倒れた椅子を起こしたり、乱れた私の服をポンポンと叩いてくれたり……しかし私は知ってしまったのだ……これは、演技であると!
「優しいね、笹森さん。それにすっかり滝浪さんと打ち解けたようで安心したよ。渡辺さんが戻るまで、よろしく頼むね」
「あっ、あの――」
「はい! 色々勉強させてください、滝浪さん。――誰にでもできる簡単なお仕事、ですけどね」
花が綻んだように笑顔を見せていたけれど、清水係長が納品書を持って去ると、ほっこりした空気が一変する。
「誰にでもできる、って訳じゃ……」
思わずそう言いかけたけれど、笹森さんに鋭い視線を向けられて怖気づく。
い、い、言い出せない……怖いよ! おかーさーん!
どうやら仕事ぶりから、私は格下に認定されたらしい。
それにしても、笹森さんにいつどうやって圭吾さんの妻の存在を知らせましょう……これは困ったことになりましたね……。披露宴には、本社の社員ほぼ全員を招待しましたから、皆さん私が妻だと知っていますが、本社以外には知らない人もいますよね、そりゃ。本当の苗字についても、妻となった人についても。
いやぁ……これは早く言った方がいいですよね? 今ですらこんなに恐ろしいのですから、後から知れたら――地獄の一丁目へご案内~、ですよ!
「笹森さんっ! あのね――」
「あら、そろそろお客様が来る時間よ。早く支度してね」
「実は――あっ、あああ……」
「トロくさいわね。本当に袴田課長の補佐してるの? 今すぐ代わってあげてもいいのよ」
「うぇ……! ご、ごめんなさいっ」
……ん? なんで私、謝ってるんだろう? おかしいな、立場が逆転しているような気がします。せ、せめてここは対等にいきませんかー!?
私が口をパクパクさせている間に、笹森さんはプリントアウトした資料をテキパキとファイルにまとめ、椅子から立ち上がった。私もバタバタと書類を抱えて後を付いていく。う、うん、いいよね。打ち合わせが終わったら、折を見て話そう。
――とまあ、打ち合わせは、大体想像はできていましたが、まさに〝笹森無双〟でしたね……
源じぃとの打ち合わせにも同席した笹森さんは、ちゃっかり圭吾さんの横に座り、控えめながらも要所要所で資料を出し、彼女のナイスアシストのおかげで、とても順調に話し合いが進んだ。
「ユリちゃんやぁ、ちったぁ先輩見習ってまめったくな。せーでもえらいようだったら……そうだな。ほんなら、ちーっとずつやらざぁ」
「笹森さんは先輩じゃなくって、んーと、同期なようなもんです。……そんならさ、えらくなったら源じぃんとこで、またお菓子よばれてもええ?」
「えーよえーよ。嫁っこん在所からめんずらしいのが届いたからな。近くん来たら、ちょっくら寄ってけ」
私と源じぃで話が盛り上がる。初めの頃は、ちゃんと畏まった対応をしていたんだけど、素で話してくれ、と言われて以来、ついつい方言丸出しで話してしまうのです。うちの実家は田舎だし、おじーちゃん達と同居しているので、身に沁みついているんです。
呆然と私と源じぃの様子を見ていた笹森さんが、圭吾さんにコソコソと尋ねた。
「……課長……ええと、すみません、よくわからなくて……」
「『少しは先輩見習ってよく働きな。それでも大変だったら少しずつやればいい』、それと、『疲れたらお菓子ご馳走になってもいいか』『嫁の実家から珍しいのが届いたから、近くに来たらちょっと寄りな』、と言っているんですよ、笹森さん」
「すごぉい! 本社の辺りにもこんなに方言あるって知らなかったです。私も気づかず喋ってしまって、びっくりされますけど」
「北海道の方言で?」
「はい。タクシーに乗った時、『ああこわい』って呟いたら、『俺、怖いけ?』って運転手さんから聞かれちゃいました」
「それはどういう意味なんだ?」
「疲れた、です。ですから、私としては『あー疲れた』と言ったつもりなんですよ」
口元に手を当てて、クスクス笑う笹森さん。そして、圭吾さんの肩にさりげなく手を置いて……ってどういうことさ! そこ! ちゃっかり距離縮めてるんじゃなーーい!!
「ほぉか、笹森さんといったか。北海道の衆か?」
「ええそうです。こちらで研修を受けるために北海道から来ました。一ヶ月間という短い期間ですが……」
「笹森さんはすでに他の支社でも経験を積んでおり、大変優秀だと聞いております。滝浪も彼女から学ぶことが多いでしょう」
そういって圭吾さんは私達に微笑んだ――ちょっと、笑顔サービスしすぎなんじゃないですか? 圭吾さん! ていうか、ちょっと今、圭吾さんに寄って座り直したよね、笹森さんんん!?
――と、表面上は大変なごやかに打ち合わせは終わりました。
はぅぅ……
自宅に戻るなり、バッタリとソファに倒れこんだ。
気疲れです。精神的疲労です……私のライフはゼロよ!
今日はシフォン素材のブラウスに、ピンクのニットカーディガンを羽織り、小花プリントのフレアスカートを穿いています。皺になりにくい素材なので、ゴロゴロしても大丈夫です。圭吾さんは今日も遅くなると言っていました。だから安心して、寝ころんだまま、いよっ! とお尻を上げてストッキングを脱ぎ、ゴソゴソと背中に手を伸ばしてブラジャーのホックをはずす。ふう……ちょっと楽になりましたね。
だらしがないのは百も承知ですが、今はちょっと動きたくありません。
ほんっとに疲れた……
笹森さんが演技派女優だったとは。見た目は守ってあげたいタイプの可愛い子なのに、私への言葉はとんでもなく辛辣です。そんな恐ろしい相手に、実は……袴田課長の妻は私です! なんて言えますか? 言えませんよね。
言うなら早く、と意を決して告白するタイミングを見計らってはいたのですが、なかなかチャンスがなく、今日のところは断念しました。
いやいや、でも明日は渡辺センパイが出社します。もともと笹森さんは渡辺センパイに付く予定でしたからね。渡辺センパイというワンクッションがあれば、少しはあの毒も薄まるでしょう。
圭吾さん狙い、というのがハッキリとわかってしまい、内心穏やかではいられませんが、大丈夫です。私達夫婦の絆は固いですので、ちょっとやそっとじゃ揺るぎませんよ?
ちゃっちゃらー♪
おっと、メールの着信が。寝転がったまま、バッグの中のスマートフォンを取り出す。んーと、圭吾さんからですね。……ええっ?
――新井田と笹森を夕食に連れていく。
絆は固い、と安心しておりましたが、やはり敵もさるものです。この攻撃はぐっさりと刺さりますね……初日、ということで、きっと圭吾さんが連れ出したんだと思いますが。そう思いたいですが。
……ってことはあれか? 今夜はご飯いらないってことですね。大好きな夫のために作る料理は苦になりませんが、自分一人のためだと全くやる気が出ません。でもお腹は空いたので、簡単に済ませちゃいましょ。
のそのそと起き上がり、冷凍庫から一膳分の冷凍ご飯を取りだし、電子レンジに入れる。そして冷蔵庫から取り出したわさび漬けに、ほんの少し醤油を垂らし、ご飯の上に載せたらできあがり。……以上デス。洗い物も少なく、とてもシンプルな夕飯となりました。
洗い物を済ませ、風呂に入り、さあてなにをするか、ですよ。
圭吾さんは、まだ帰ってきません。きっとまた会社に戻ったんでしょうね。それじゃあってことで、サークルのサイトをちょっと弄りましょうか。
ノートパソコンを立ち上げてサイトを覗くと、ガクンとコメント数が減っていた。訪問者の数も以前と比べて半分……より少ない。
リーダーは、偉大ですね……
今さらながらに、リーダーのファンが多かったことを思い知る。
ポチポチとコメントに返信をした後、次回の同人誌即売に向けての申しこみの確認をするために、新リーダーにメールを打った。
次に自分のサイトを確認すると、こちらは固定の読者がいるので、特に増減はなかった。気が向いた時だけ更新するブログの方には、いつもの人からコメントが入っていた。
【シルミルク】―――お仕事お疲れ様です! 冬の新刊は描き下ろしですか? 待ってます♪
【パンダスメル】――課長のようなキャラを、またお願いします!(ハァハァ)
ああ、ありがたいですね。こんな私の漫画でも、待っていてくださる方がいるとは。そろそろ新作の準備も始めなくては。
前作シリーズは圭吾さんをオカズ……じゃなかった、モデルにしていたからこそ三作も描けたのですが、〝二次元化禁止令〟が下っている今、ちゃんと描けるかどうか……でも、ま、ボチボチ考えましょうかね。
ノートパソコンの電源を落とし、スマートフォンを持ってソファに寝ころぶ。うん、そうだよ、とにかくさ、萌えの補充ですよ。今日は精神的に疲れましたからね……乙女ゲームのアプリをダウンロードし、圭吾さんのいない間に、ニタニタしながら遊びます! うへへ……ゲームの主人公は女の子だけど、これを男の娘、と脳内変換すれば問題ありません。さあて、筋肉モリモリな彼にしようか、クール眼鏡にしようか……
……
……
「はーい。じゃあ、さっそく、社内の案内から始めますね」
後ろに二人を従えて、それぞれの部署やトイレの場所、資料室や会議室などを回る。
新井田君は初対面の私にもどんどん話しかけてくる。さっすが営業部、期待の新人なだけありますね!
あれこれと話しているうちに、ん? と気づいた。笹森さんはそうでもないけど、新井田君は方言がちょいちょい出る。聞けば、「ああ、俺は函館の田舎に実家があって、ばーちゃん子だったから」と爽やかな笑顔で答えた。
笹森さんは? と尋ねると、訛らないように練習したけれど、ふとした時に出ちゃうんです、と頬をピンクに染めながら言った。うおお、可愛いなあ!
案内中、新井田君は気になることをあれこれ私に質問し、笹森さんは手帳にサラサラとメモっている。それから電話を受けた時の対応、書類や事務用品のしまってある棚などを説明して回っていると、いつの間にか昼休みになってしまった。
大体は外へ食事に行ったり、お弁当を買ってきたりするけれど、今日は私、お弁当を作ってきたんだよね。二人にはどうしてもらおうかと考えていると、マメ橋センパイが戻ってきた。
「ただいまー」
「あ、お疲れ様です! そうだ、新井田君、笹森さん、こちらがマメは――じゃなかった、高橋センパイです。新井田君にこれから付いてくれるセンパイですよ」
「お久しぶりです先輩! その節はありがとうございました」
マメ橋センパイに向かって爽やかな笑顔を向ける新井田君。
「えーと、マメ橋センパイの後輩でしたよね?」
「そうそう。就職活動中に大学のOB会があって、そこで初めて高橋先輩と会ったんだ」
「教授からさ、おれとタイプが似てるし、営業向きだからって新井田を紹介されてね。だからうちの会社にナンパしたのさ」
大学の先輩後輩、男二人で笑いあう姿……おぉ……新たなネタ発見ですよ。
そう言われてみれば、確かに新井田君は人好きのする笑顔や、コミュニケーション能力の高さがマメ橋センパイと似てるかも。
ひとしきり雑談していると、マメ橋センパイが「あっ」と、腕時計を見た。
「やべ、もう昼過ぎてるのな。三人ともこれからお昼?」
「そうなんですよ。私、お弁当持ってきちゃったので、新井田君と笹森さんのお昼、どうしようかと思いまして……」
「じゃあ、おれもまだだし、二人を連れて昼行ってくるわ」
昼食はたいてい私と圭吾さんがお弁当を一緒に食べる、というのを知っているマメ橋センパイは、気を遣ってくれたのだ。
いってらっしゃーい! と送りだして、私は自分の席に戻り、お弁当を取り出す。大事に抱えて振り返ると、圭吾さんはちょうど電話中だった。カタカタとキーボードを叩きながらモニターを見て、通話している……うう、我が旦那様ながら超かっこいいですね! 背後の窓から太陽の光がキラキラと差していて、まるで後光のようです。
受話器を持つ手……真剣なお顔……ブルブル震えちゃうほど素敵です! それからキリッと引きしまった表情で仕事の話をしている声! その声で甘い言葉を吐かれてごらんなさいよ! 腰砕け、とはまさにこのこと、という体験ができますぜ!!
以前ならばこの萌えを漫画にすべてつぎこんだものですが、禁止令がでているもので……それでもまあ妄想するのは禁止されていないので、電話が終わるまで存分に楽しませていただきますぜ、旦那!
ゴスッ。
「ぎゃっ!」
「場所を考えろ、場所を」
「ちょ、早っ! いつの間に電話終わったんですかっ! っていうか、そこファイルの角! 角!」
目の前に星が飛びましたよ! うおぉぉぉ、痛いぃぃぃぃ!!
危うくお弁当箱を落とすところでした!!
圭吾さんは私の鼻をキュッとつまみ、小さくため息を吐いた。
「ユリ。今フロアに誰もいないからよかったが、その妄想中にだらしなくなる顔はどうにかならんのか」
「へ!? ほーひはっへ(どうにかって)?」
「封印しろ」
へっ? だらしない表情をした覚えはないんですけどねー?
「無自覚め。いいか、そういう素の顔は俺だけのものだ。少しは慎め」
「は……は、いぃ……?」
無自覚? 素の顔? 私は訳がわからずキョトンとする。すると、圭吾さんは顔を緩め、私の頭を大きな手でポンポンと撫でた。
「まあいい、それがユリだからな。腹減ったし、行くぞ」
「あっ……は、はいっ!」
私が抱えていた二人分のお弁当箱を圭吾さんはひょいと持ち、いつも一緒にお弁当を食べる時に使う小さな会議室へ足を向ける。
私は火照るほっぺたをペチペチと叩きながら、「待ってくださいーっ!」と圭吾さんの背中を追いかけていった。
午後になると、マメ橋センパイは新井田君を連れて再び外回りへ出た。
一方、渡辺センパイは終日不在なので、笹森さんは私と一緒に事務処理を始めることに。すでに他の支社で研修済なので、実際のところ、業務に関して教えることはあまりない。というか、私と同じレベルだと思う。
私は十六時からの源じぃ……じゃなかった、ゲンゾウ工房との打ち合わせに同席するので、それまでですが。
「――笹森さんは、もう大体のことはオッケーだよね?」
隣の席に座った笹森さんのほうを向いて問いかける。すらりと伸びた脚ってだけでもポイント高いっつーのに、お行儀よく膝小僧をきちんと合わせて座っている姿はますます可愛らしい。
チラッと見ながらムラムラしている私に、笹森さんは桜色の唇を開けて答えた。
「はい、おそらく滝浪さんよりできると思います」
――んっ?
「でもこちらの会社では初めてなので、渡辺先輩がいらっしゃるまではよろしくお願いします」
――んんっ?
なにか言葉に棘を感じましたが、気のせいでしょうか……
あ、あはは……と曖昧に笑っていると、電話が鳴った。おっと、二コール内で取りますよ! ――って! 私が手を伸ばそうとしたその矢先、笹森さんの手が受話器を取り上げた。
「はい、お電話ありがとうございます。――」
ハキハキと、聞き取りやすい声で話す笹森さんは、すでに歴戦の勇者並でした……
電話は取引先からの問い合わせだったようだけれど、笹森さんは一言も私に尋ねず、営業の担当者にサッサと電話を繋いだ。受話器を下ろした彼女を、ぽかんと眺めていたら、ふっと鼻で笑われた。
「一応、ここでの先輩ですよね? しっかりしてください」
「え……ていうか、取引先とか担当とか、まだ教えてなかったような……」
「午前中見せていただいた資料で、大体掴んでますから。基本中の基本です」
う、ううっ、笹森さんてハッキリ言う人だな……怖いっ。
……ムムム……なんだか一筋縄ではいかなそうな予感……
同い年ということもあって、もっとフレンドリーに付き合えるかなと思いましたが、ひょっとしてアレですか? 私のオタク臭が漏れていて、警戒させてしまっているのでしょうか?
書類作成時も私に見せることなく提出(内容は合ってる)、来客時の対応(言うことなし)、データ入力(私の半分の時間で終了)……
な、なんだよぉぉっ!
「滝浪さん、ゲンゾウ工房の過去のデータ出してもらえる?」
圭吾さんが私の机の傍らにやってきて、そう言った。
「あっ……はいっ!」
打ち合わせの準備をしなきゃいけなかった!
慌ててパソコンを操作していたら、横から「この資料で合ってますか?」と冊子が差し出された。
「……これは笹森さんが?」
「過去のデータと、それに関係する資料をいくつかまとめてあります……や、やだ! すみません! 出過ぎたマネをしてしまいまして……」
私をちらっと見ながら、頬をピンクに染める笹森さん。
――え、ちょ、その態度……ナニ!?
「いや、助かる。――なかなかよくできているじゃないか。今日さっそく使わせてもらおう」
「ありがとうございます。ウフフッ、憧れの袴田課長に褒めていただいて、とても嬉しいです」
「憧れ……? それは光栄だな」
「以前より噂に聞いておりまして……課長のお役に少しでも立てるよう色々勉強してきましたから。北海道でも一ヶ月ご一緒させていただくので、よろしくお願いします」
「ああ。期待してるよ」
おぉぉ……ピンク色のオーラが見えますよ! なんだ、この華やかさは!
こ、これが女子力というものか……っ!
圭吾さんが資料を持って応接ブースに向かったのを見届けると、笹森さんは黙ってパソコン操作に戻った。
「笹森さん、けい……ゴホン、袴田カチョーの噂ってどんな内容なの?」
すると笹森さんは、モニターから視線を外すことなく、面倒くさそうに口を開いた。
「あんなにできる人、なかなかいないわよ。研修先でも評判は散々聞いたわ。誰も思いつかないような素晴しい改革をするって」
そうですよ、ええ、そうでしょうとも! 圭吾さんはすごいお方なのです。
「人にも厳しいけれど、自分に対してはさらに厳しい。それに部下を育てるのも上手だって、課長と一緒に仕事をした人が口を揃えて言うわ」
あああ、それはもうよくわかります。ちょっとしたアドバイスで、ああこういうことかーって開眼できるのです。圭吾さんの部下として置いていただいたおかげで、我ながらとても成長したと思いますよ。まぁ……笹森さんを見ていると、その自信が消え失せますけど。
「おまけにあのビジュアルでしょ? 全国に彼女がいるとか、入れ喰いとか、ずいぶんなこと言われていたけど、実際は全く遊んでいる様子がなかったのよね。それとなく聞くと『心に決めた人がいる』なんて王子様みたいなセリフを、なんのためらいもなく言ってのけたりするらしいの!」
現地妻! 入れ喰い! わあああっっ!
いや、確かに私も入社当時は、そのようなことを思わないでもなかった。だってほんとに高スペックでステキな人なのに、彼女もいない独身男性なんて(バツイチですけども)、とっても希少ですからね。
――きっと遊んでるでしょーね、などと思わせといて、実はその相手は男の部下。決して知られてはいけないし、伝えてはならない秘めたる想いを胸に、日々業務をこなす……そう、それは男×男のメイクドラマ――っていう方向に妄想が働いてしまい、全三作ともなった『課長、深夜に愛を』ができあがったのです。
っていうか、笹森さん、口調がずいぶん砕けて……ま、まあいいですけど。
視線すらこちらに向けずに話していた笹森さんは、急にダン、と机を拳で叩いた。
「それが、よ? 急に結婚したっていうじゃないの! 私が入社した時は独身だって聞いていたのに、なんで……!」
「え……ええ?」
「バツイチってのは知っているけど、それ以降はフリーだったはずよ? 色々探りを入れていたけど、そんな気配全くなかったのに!」
怒りがキーボードへ向かったのか、ダダダダダダダダダッと恐ろしい速さでデータが入力されていく。
その様子を傍から見ていた私は慄きました。ま、まさか……!?
笹森さんはギシッと背もたれに体を預け、ゆっくりと私を見た。
「……ねえ、滝浪さん、袴田課長のお相手って知ってる?」
「ひっ……!」
ちょ、ちょ、ちょっと! えええ? ひょっとして…… 〝袴田課長〟と結婚した〝私〟のこと、知らない……んですか? そしてそして、えーっと、つまり、笹森さんてば、圭吾さんのことが……?
私の混乱をよそに、笹森さんはじーっと私の目を見て言った。
「袴田課長と結婚した相手よ。あなた、課長の補佐をしてるんでしょ? ほら、同い年のよしみで教えて。ねっ?」
「し、し……知って、どうするんですかっ!」
動揺する私に、笹森さんはにっこりと答える。
「奪うのよ」
「えっ」
「私ね、障害があった方が燃えるの。だいたい、私が今回の出張研修に立候補して、北海道からわざわざここにやってきたのは、袴田課長がいるからだもの。袴田課長の……ううん、まあいいわ。それはこっちのこと。で、どうなの? あんなにもできる人の妻だから手強そうだけど……」
いえ、むしろチョロいかと思います……じゃなくて!
「おおおおおおおくさまについてですがっ……!」
「どう? ユリちゃん納品書できた?」
私が意を決して、自ら名乗り出ようとしたところで清水係長――この秋から係長に就いた――が、私達のところへやってきた。
心臓が恐ろしい速さでリズムを刻んでいたところに、急に話しかけられた私は「うぎゃっ!」と椅子ごとひっくり返ってしまった。
「きゃあっ! 滝浪さん!」
「ユリちゃん!?」
ガターン、と盛大に転がったため、フロア中の視線が私にク・ギ・ヅ・ケ☆――ってそうじゃない!
「ううう……痛い……はっ! し、失礼しましたっ!」
ヨチヨチと這い上がり、こちらを見ているフロアの人々へ向かってペコペコと頭を下げた。トホホ、お恥ずかしい。
圭吾さんは電話中だったけど、こっちを見ながら口を動かし『阿呆』と……
そ、そうですよね。仕事中は私に対して、圭吾さんはあくまでも一社員として接するのです。
「滝浪さん、大丈夫ですか? 痛むところ、ありませんか?」
先ほどまでと打って変わって、笹森さんはいかにも〝同僚を心配する優しい女〟へと変身していた。おおお、す、すごい女優っぷり! 倒れた椅子を起こしたり、乱れた私の服をポンポンと叩いてくれたり……しかし私は知ってしまったのだ……これは、演技であると!
「優しいね、笹森さん。それにすっかり滝浪さんと打ち解けたようで安心したよ。渡辺さんが戻るまで、よろしく頼むね」
「あっ、あの――」
「はい! 色々勉強させてください、滝浪さん。――誰にでもできる簡単なお仕事、ですけどね」
花が綻んだように笑顔を見せていたけれど、清水係長が納品書を持って去ると、ほっこりした空気が一変する。
「誰にでもできる、って訳じゃ……」
思わずそう言いかけたけれど、笹森さんに鋭い視線を向けられて怖気づく。
い、い、言い出せない……怖いよ! おかーさーん!
どうやら仕事ぶりから、私は格下に認定されたらしい。
それにしても、笹森さんにいつどうやって圭吾さんの妻の存在を知らせましょう……これは困ったことになりましたね……。披露宴には、本社の社員ほぼ全員を招待しましたから、皆さん私が妻だと知っていますが、本社以外には知らない人もいますよね、そりゃ。本当の苗字についても、妻となった人についても。
いやぁ……これは早く言った方がいいですよね? 今ですらこんなに恐ろしいのですから、後から知れたら――地獄の一丁目へご案内~、ですよ!
「笹森さんっ! あのね――」
「あら、そろそろお客様が来る時間よ。早く支度してね」
「実は――あっ、あああ……」
「トロくさいわね。本当に袴田課長の補佐してるの? 今すぐ代わってあげてもいいのよ」
「うぇ……! ご、ごめんなさいっ」
……ん? なんで私、謝ってるんだろう? おかしいな、立場が逆転しているような気がします。せ、せめてここは対等にいきませんかー!?
私が口をパクパクさせている間に、笹森さんはプリントアウトした資料をテキパキとファイルにまとめ、椅子から立ち上がった。私もバタバタと書類を抱えて後を付いていく。う、うん、いいよね。打ち合わせが終わったら、折を見て話そう。
――とまあ、打ち合わせは、大体想像はできていましたが、まさに〝笹森無双〟でしたね……
源じぃとの打ち合わせにも同席した笹森さんは、ちゃっかり圭吾さんの横に座り、控えめながらも要所要所で資料を出し、彼女のナイスアシストのおかげで、とても順調に話し合いが進んだ。
「ユリちゃんやぁ、ちったぁ先輩見習ってまめったくな。せーでもえらいようだったら……そうだな。ほんなら、ちーっとずつやらざぁ」
「笹森さんは先輩じゃなくって、んーと、同期なようなもんです。……そんならさ、えらくなったら源じぃんとこで、またお菓子よばれてもええ?」
「えーよえーよ。嫁っこん在所からめんずらしいのが届いたからな。近くん来たら、ちょっくら寄ってけ」
私と源じぃで話が盛り上がる。初めの頃は、ちゃんと畏まった対応をしていたんだけど、素で話してくれ、と言われて以来、ついつい方言丸出しで話してしまうのです。うちの実家は田舎だし、おじーちゃん達と同居しているので、身に沁みついているんです。
呆然と私と源じぃの様子を見ていた笹森さんが、圭吾さんにコソコソと尋ねた。
「……課長……ええと、すみません、よくわからなくて……」
「『少しは先輩見習ってよく働きな。それでも大変だったら少しずつやればいい』、それと、『疲れたらお菓子ご馳走になってもいいか』『嫁の実家から珍しいのが届いたから、近くに来たらちょっと寄りな』、と言っているんですよ、笹森さん」
「すごぉい! 本社の辺りにもこんなに方言あるって知らなかったです。私も気づかず喋ってしまって、びっくりされますけど」
「北海道の方言で?」
「はい。タクシーに乗った時、『ああこわい』って呟いたら、『俺、怖いけ?』って運転手さんから聞かれちゃいました」
「それはどういう意味なんだ?」
「疲れた、です。ですから、私としては『あー疲れた』と言ったつもりなんですよ」
口元に手を当てて、クスクス笑う笹森さん。そして、圭吾さんの肩にさりげなく手を置いて……ってどういうことさ! そこ! ちゃっかり距離縮めてるんじゃなーーい!!
「ほぉか、笹森さんといったか。北海道の衆か?」
「ええそうです。こちらで研修を受けるために北海道から来ました。一ヶ月間という短い期間ですが……」
「笹森さんはすでに他の支社でも経験を積んでおり、大変優秀だと聞いております。滝浪も彼女から学ぶことが多いでしょう」
そういって圭吾さんは私達に微笑んだ――ちょっと、笑顔サービスしすぎなんじゃないですか? 圭吾さん! ていうか、ちょっと今、圭吾さんに寄って座り直したよね、笹森さんんん!?
――と、表面上は大変なごやかに打ち合わせは終わりました。
はぅぅ……
自宅に戻るなり、バッタリとソファに倒れこんだ。
気疲れです。精神的疲労です……私のライフはゼロよ!
今日はシフォン素材のブラウスに、ピンクのニットカーディガンを羽織り、小花プリントのフレアスカートを穿いています。皺になりにくい素材なので、ゴロゴロしても大丈夫です。圭吾さんは今日も遅くなると言っていました。だから安心して、寝ころんだまま、いよっ! とお尻を上げてストッキングを脱ぎ、ゴソゴソと背中に手を伸ばしてブラジャーのホックをはずす。ふう……ちょっと楽になりましたね。
だらしがないのは百も承知ですが、今はちょっと動きたくありません。
ほんっとに疲れた……
笹森さんが演技派女優だったとは。見た目は守ってあげたいタイプの可愛い子なのに、私への言葉はとんでもなく辛辣です。そんな恐ろしい相手に、実は……袴田課長の妻は私です! なんて言えますか? 言えませんよね。
言うなら早く、と意を決して告白するタイミングを見計らってはいたのですが、なかなかチャンスがなく、今日のところは断念しました。
いやいや、でも明日は渡辺センパイが出社します。もともと笹森さんは渡辺センパイに付く予定でしたからね。渡辺センパイというワンクッションがあれば、少しはあの毒も薄まるでしょう。
圭吾さん狙い、というのがハッキリとわかってしまい、内心穏やかではいられませんが、大丈夫です。私達夫婦の絆は固いですので、ちょっとやそっとじゃ揺るぎませんよ?
ちゃっちゃらー♪
おっと、メールの着信が。寝転がったまま、バッグの中のスマートフォンを取り出す。んーと、圭吾さんからですね。……ええっ?
――新井田と笹森を夕食に連れていく。
絆は固い、と安心しておりましたが、やはり敵もさるものです。この攻撃はぐっさりと刺さりますね……初日、ということで、きっと圭吾さんが連れ出したんだと思いますが。そう思いたいですが。
……ってことはあれか? 今夜はご飯いらないってことですね。大好きな夫のために作る料理は苦になりませんが、自分一人のためだと全くやる気が出ません。でもお腹は空いたので、簡単に済ませちゃいましょ。
のそのそと起き上がり、冷凍庫から一膳分の冷凍ご飯を取りだし、電子レンジに入れる。そして冷蔵庫から取り出したわさび漬けに、ほんの少し醤油を垂らし、ご飯の上に載せたらできあがり。……以上デス。洗い物も少なく、とてもシンプルな夕飯となりました。
洗い物を済ませ、風呂に入り、さあてなにをするか、ですよ。
圭吾さんは、まだ帰ってきません。きっとまた会社に戻ったんでしょうね。それじゃあってことで、サークルのサイトをちょっと弄りましょうか。
ノートパソコンを立ち上げてサイトを覗くと、ガクンとコメント数が減っていた。訪問者の数も以前と比べて半分……より少ない。
リーダーは、偉大ですね……
今さらながらに、リーダーのファンが多かったことを思い知る。
ポチポチとコメントに返信をした後、次回の同人誌即売に向けての申しこみの確認をするために、新リーダーにメールを打った。
次に自分のサイトを確認すると、こちらは固定の読者がいるので、特に増減はなかった。気が向いた時だけ更新するブログの方には、いつもの人からコメントが入っていた。
【シルミルク】―――お仕事お疲れ様です! 冬の新刊は描き下ろしですか? 待ってます♪
【パンダスメル】――課長のようなキャラを、またお願いします!(ハァハァ)
ああ、ありがたいですね。こんな私の漫画でも、待っていてくださる方がいるとは。そろそろ新作の準備も始めなくては。
前作シリーズは圭吾さんをオカズ……じゃなかった、モデルにしていたからこそ三作も描けたのですが、〝二次元化禁止令〟が下っている今、ちゃんと描けるかどうか……でも、ま、ボチボチ考えましょうかね。
ノートパソコンの電源を落とし、スマートフォンを持ってソファに寝ころぶ。うん、そうだよ、とにかくさ、萌えの補充ですよ。今日は精神的に疲れましたからね……乙女ゲームのアプリをダウンロードし、圭吾さんのいない間に、ニタニタしながら遊びます! うへへ……ゲームの主人公は女の子だけど、これを男の娘、と脳内変換すれば問題ありません。さあて、筋肉モリモリな彼にしようか、クール眼鏡にしようか……
……
……
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