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第1章 人生最悪の一日の終わりに、おいしいマフィンを

13 美しい女(ひと)③

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「あの、そう言えば、彼氏さんは……?」

――もしかして。
 ううん、もしかしなくても、私がぶっ倒れたせいで、薫さんのデートの邪魔をしちゃったのは確実だ。

 こんなに親切にして貰って、何だか急に申し訳ない気持ちになってきた私は、おずおずと尋ねた。

「ああ。祐一郎ね」

 ユウイチロウ。
 確か、私が倒れた時に、薫さんが呼んでいた名前だと思い当たる。

「外せない仕事があるとかで、帰ったわ。あの朴念仁ぼくねんじんは」
「あ、す、すみませんっ。すっかりお邪魔しちゃって……」

 もう、馬にでもカバにでも、蹴られます。そんな気持ちで恐縮していると、薫さんは頬杖をついて、『うふふ』と少し少女めいた笑みを浮かべた。

「気にしないで、アイツも可愛い女の子をお姫様だっこ出来て、喜んでいたから」
「はあ……そうですか」

 ニッコリ満面の笑顔の薫さんに、何となく相槌を打ってから数秒後。私はその言葉の意味するところに気付いて、ギクリと固まった。

――え? お姫様……が、なんですって?

 ぽん! っと、私の脳裏に、子供の頃から大好きだった『シンデレラ』のラストシーンが甦えった。

 やっと巡り会えたガラスの靴の姫君に、王子は愛を告白する。
『姫、どうか私の后になってください』
 涙ながらに頷くシンデレラ。
 優しい包容。
 お姫様だっこ。

 見つめ合う瞳、近付く二人。
 そして――、情熱の、キス。

 浮かぶエレベーターの情景。
 鏡越しの、少し鋭さを感じさせる、瞳。
 愉快そうに細められた、黒い瞳。

――あの人に、お姫様だっこされた?
 ひ、ひ、ひゃーーーっ!!!

 頭の天辺からつま先まで、一気に熱くなる。特に顔は火を噴きそうだ。

「あ、え、う、あの、その、……重いのに、お手数をお掛けしました!」

 脳みそとっ散らかり状態の私は、意味不明なセリフを吐きながら、勢いよくペコリと頭を下げた。

――ああ、恥ずかしい。

 覗き趣味と思われたかも知れないことよりも。
 修羅場を目撃されたかも知れないことよりも。

 あの黒い瞳の持ち主に『お姫様だっこ』されたと言う事実が、どうしようもなく恥ずかしかった。

「だから、気にしない気にしない」

 薫さんは、一人で百面相している私を、優しい眼差しで見つめる。
 初対面なのに、全然そんな感じがしない不思議な人。

 お医者さんだから?
 ううん。

 それを抜きにしても、私はこの飾らない性格の、磯辺薫という美しい女性が好きになった。

「マフィンが食べたくなったら、いつでもいらっしゃい。また一緒に、お茶しましょ」

 その笑顔は、うわっ面だけの社交辞令には見えない。だから私は、薫さんのその言葉が素直に嬉しかった。

 美味しい食べ物と、楽しい会話。人間、これがあれば、大抵のことは乗り越えられるような気がする。

――あはは。
 食べ物で元気になるあたり、私ってゲンキン。

 人生最悪の一日の終わり。

 こうして私は、美味しいマフィンの食べられる場所と素敵な友人を得て、ちょっぴり幸せモードで家路についた。



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