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168【最愛⑦】

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 漆黒の闇の中、私は、必死で走っていた。
 背後から迫ってくる、黒い大きな影に追い立てられながら、必死で走っていた。

――あれは、蛇だ。
 私なんて、つるりと一飲みにしてしまうくらいに巨大な咢を持った、大蛇。

 振り返ったら、その凶悪な目に捕まってしまったら、きっと動けなくなってしまう。

 ハアハアと、息が上がる。
 酸素を求めて、大きく喘ぐけど、ますます苦しさは増すばかり。

――どうして?

 こんなに必死で走っているのに、走っているはずななのに。
 ぜんぜん、身体が言うことを聞かない。
 聞いてくれない。

 まるで、泥の海をかき分けて歩いているみたいに、身体がどんどん動かなくなる。とうとう動けなくなった私の右足に、ずるりと、何かがまとわりつく。それは、螺旋を描くように、ズルズルと私の体を這いあがってくる。

 ひやりとした感触と背筋を走る戦慄。
 襲ってくる恐怖に、私は声にならない悲鳴を上げる。

――いや。

 腰から鳩尾を通り、胸の真ん中をゆっくりと這い上がっていった『それ』は、あざけるような笑い声を上げながら、私の目の前で、生臭い息を吐く。

――やだ。嫌だ。

 あんたなんか、嫌い。大っ嫌い!
 放せ、このこの、このっ!

 目をつぶったまま、渾身の力を込めてジタバタと身じろぎをする。でも、ギリギリと締め付ける力が強まるだけで、一向に状況は好転する気配がない。

――喰われる!?

 頭上で、大蛇が鎌首をもたげる気配に、思わずギュッと身をすくめる。次の瞬間、

『こーらこら、悪さをしちゃ、だめでしょうが』

 なんとも、のんびりとした声とともに、私の体から、大蛇がスルスルと引きはがされてしまった。恐る恐る目を開ければ、目の前にいたのは、茶色いハンチング帽をかぶった等身大のキジ猫。どこかで見たような、そうまるで、某・名探偵ホームズのような格好だ。
 ひょうきんな丸メガネの奥のつぶらな瞳は、ニコニコと愉快そうに笑んでいる。

「あ、ありがとうございます……」
 
 命の恩人のキジ猫さんに深々と頭を下げれば、彼は、『いいえ、お礼なら、あの人に言ってあげてください。あなたの身を一番案じていた人物ですから』と、闇の向こう側を指さした。

「え……?」

 肌色のプ二プ二した肉球が付いたふさふさの手が指し示す先に、ゆるゆると視線を移す。

――まぶしい。

 そこだけ、後光が射しているみたいに光り輝いていて、まぶしくて何も見えなかった。ただ、そこにある懐かしい気配に、思わず熱いものがこみ上げる。

『    』

 私は、そこにいるはずの人の名前を呼ぶ。でも、自分の声が聞こえない。

『    』

 もう一度、名前を呼んでみる。でもやっぱり、自分の声は聞こえない。

――なんで?

 よく知っている名前なのに。
 ずっと呼びたかった名前なのに。
 ちゃんと声に出して呼んでいるのに、どうして聞こえないの?

 名前を呼ばなければ、あの人は、きっと私に気付かない。
 哀しくなって、ポロポロと涙があふれ出す。

『だいじょうぶ。君は言えるよ。彼もきっと君の言葉を待っているはずだから。勇気を出して言ってごらん?』

 ポフポフと、キジ猫さんが私の頭を優しくなでる。
 その言葉と温もりに励まされて、私は、もう一度勇気をふりしぼる。

「――と……ご」
『ほーら、もう一度』

 キジ猫さんの声に、よく知っている低音の声音がシンクロする。

「とう……ご」
『ほら、もう一度』

 キジ猫さんの声は消えて、はっきりと分かる、その声の主。

 ふっと、広い懐にすっぽりと包まれて、その温もりに身を預けている自分に気付く。

『梓、もう一度』

 耳元に落とされる、甘く優しい響き。
 こみ上げる熱い想いに押し出されるように、涙がぽろぽろと頬を伝う。

 私は、広い背にぎゅっと両腕を回して、再び言葉を紡ぐ。

「東悟……」
『うん』
「東悟が、好き」
『うん』
「誰よりも、大好き」

『――俺も、梓が好きだよ』

 甘い、甘い声が、耳朶を叩く。

『――大好きだ』

 そして落とされる、もっと甘いキスの雨。

 やっと、言えた安堵感。
 それを上回る想いが通じ合った幸福感に浸っていた私を、幸せな夢の底から引っ張り上げたのは、実にその場には不似合いな、よく知っている気がする女性の凛とした声。

「梓――」

――あれ?

 この声って、まさか。

「梓、いい加減に起きなさい!」

 威勢の良い声とともに肌掛け布団を引きはがされた私は、ぎょっと目を見開いた。




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