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89【真意⑤】

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「どう……して?」

 そう、問わずにはいられなかった。
 今更、どうして、そんな瞳を私に向けるのかと。

 私とあなたは、ただの上司と部下。
 あなたは、私のプライベートには、関知しない。
 そう、言ったじゃないの。

 答えの変わりに、 
「良くできました。んじゃご褒美を」
 笑いを含んだ声と共に唇に走ったのは、懐かしい、柔らかい感触。

 そっと唇に触れただけの優しいキスなのに、その破壊力は絶大で。次の瞬間、私の涙腺は一気に崩壊した。

 ぽろぽろぽろと後から後からとめどなく溢れ出す涙の雫が、上気した頬の熱を奪って、音も無く滴り落ちていく。

「……っ……」

 泣くまいと、ギュッと唇を噛んで懸命に堪えるけれど、どうすることも出来ない。
 溢れ出したのは、涙に姿を変えた、消すことの出来ない恋心だ。再会したその時から、こういう瞬間が来ることは分っていた気がする。

 気付かないフリをしたって、その声を聞くたびその笑顔を見るたびに、心の天秤はいつだって大きく揺らいでいた。かろうじてとっていた危うい心のバランスは、今、たった一度のキスで、いとも簡単に崩れ去ってしまった。

 私は、この人が好きだ。
 今も昔と変わらずに、ううん、それ以上に、この人に恋い焦がれている。

 いつだって触れたいと、触れて欲しいと、心の奥底で願っていた。
 だけど――。
 あなたには、婚約者になる予定の人がいるのに。

「どう……して?」

 こんなふうに突然、心の中に踏み込んでくるの?
 私に、抗う術などないのに。

 こんなの、ずるい。
 ずるいよ。

「っ……」

 溢れ出る涙を止めようがない私は、課長の、東悟の胸に『パフン』と自ら顔を伏せた。

 頬から離れた彼の右手が、まるで私の涙に戸惑うように、そっと頭に乗せられる。大きな手のひらから伝わる温もりが、心の中にじんわりと染み込んで行く。

「どうして……だろうな」

 抑揚のない、でも苦渋の成分を色濃く含んだ低い呟きが、白く滲んだ世界に静かに溶けていく。

 この人も迷っているのだろうか?
 私と同じように、自分の気持ちがままならずに悩んでいるのだろうか?

「ごめん……」

 ほとんどささやくような贖罪しょくざいの言葉が、ポトリと心の中に小さな波紋を描く。
 それは、私を泣かせたことへのわびの言葉。
 同時に、これ以上は踏み込めないという言外の拒絶のサイン。

 私は榊東悟という元恋人の性格を、良く知っている。
 再会から数ヶ月課長補佐として、谷田部東悟と言う上司の昔と変わらない部分も変わった部分も、間近で見てきた。
 その上で悲しいことに私には、自分が拒絶されていることが理解できてしまう。
 今の私は、この人にとって部下以上の存在にはなれないと、肌で感じてしまう。

 なら、せめて。
 最高じゃなくてもいい。
 最良の部下でありたい。

 そう、思った。

 ふうっと、一つ、深呼吸めいた大きなため息をつき。
 私は、静かに課長の胸に伏せていた顔を上げた。

 そう。
 元・恋人の東悟ではなく、谷田部課長の胸から、顔を上げた。

 頬はまだ涙の跡で濡れているけれど、もう涙の元栓は、ぎゅっと締め切った。

 そして。

「課長、手、放してくださいね。以前言ったはずですよ? 今度やったら、狸親父に言いつけるって」

 こわばる口の端をどうにか引き上げて、自分でも、可愛くないと思わずにはいられない、辛辣な台詞を吐いた。


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