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85【真意①】

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「もう、こんな時間ですね」

 壁掛け時計の針は二時半を回っている。いくらなんでも、寝ないと明日に差し障ってしまう。

 美加ちゃんは休ませるにしても、課長と私は、そうはいかない。
『二人仲良く寝不足顔で遅刻』なんてことになったら、噂好きな女子社員の間で、どんな尾ひれが付いて話が広まるか、分かったものじゃない。

 可愛いメダカ並の尾ひれが、瞬く間にシーラカンス並に進化する様が、ありありと目に浮かぶ。その渦中に立たされる課長と自分の姿を、チラリと想像しただけでも……。

――笑えない。
 かなり高確率で当たるはずの予想なだけに、笑えない。
 そんな困ったことにならないためにも、ここは、さっさと寝るに限る。

「テーブルの脇に布団を敷きますから、課長は、そこで寝てもらえますか?」
「――ああ。手間をかけるな」

 もしかしたら、代行で帰ると言い出すかと心配したけど、さすがに課長もお疲れモードなのだろう。素直に頷いてくれたので、ほっとする。
 DKで寝かせるのは気が引けるけど、他に布団を敷ける場所がないからこの際我慢していただこう。

 客用の布団は母が来た時のためにと一組しか用意していないから、とにかく課長にはそれを使って貰って、私は適当にタオルケットでも掛けて、美香ちゃんの隣の床でごろ寝でもしよう。

 そう算段を付けて布団を敷き終わった所で、「もう少し、飲まないか?」と、課長が誘いをかけてきた。

 私もさすがに疲れていたし、なにより美加ちゃんが抜けたこのシチュエーションで二人きりで酒盛りするのは、ちょっと気まずい。と言うか、別の意味でもまずい気がする。シーラカンスの尾ひれが、虚像ではなく実体化しそうでますます笑えない。

 こ、ここは、きっぱりお断りしよう。
 と、思いつつも、口から出たのは、まったくきっぱりしていない言葉で、
「でも、課長、明日も早いので……」
 と、語尾を濁していたら、 
「少しだけ。ほら、もうこれでビールも打ち止めだから」
 なんて、テーブルに残されている最後の未開封缶ビールを掲げながらニッコリと微笑まれて、根性なしにも思わず向かい側の自分の席に、ちょこんと座ってしまった。

 私は、この笑顔攻撃には絶対勝てない気がする。
 もっとも、笑顔なしで言われても、勝てないだろうけど。

 思えば、初めて出会ったときから、そうだったなぁ。

 あの日、大学で水溜りに足を取られてすっ転んで、半べそをかいていた私に声を掛けてきた、奇特な先輩。少し怖いと感じていた、その鋭い雰囲気が一転し、浮かんだこの上なく優しい笑顔。

 たぶん、私はあの瞬間から、この人に囚われている。

「はい、どうぞ」
「あ、はい、いただきます」

 コップに満たされた金色の液体を、コクリと一口口に含むと、独特のほろ苦い味わいが舌先から喉に流れ込み、身体全体が清涼感に満たされる。

 うん。美味しいや。
 やっぱり、夏の夜は、キンと冷えたビールにかぎるね。

 ちょっと、オヤジくさい感慨にふけっていたら、課長が愉快そうにクスクスと笑い出した。

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