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第九話 【帰宅】帰るべき場所へ。

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 その夜。
 私は、疲れ切った重い体を引きずるようにして、アパートへの帰路についた。

 明日は月曜日。しがないOLの身では、落ち込んでいるからと言って、月曜から会社を休むわけにはいかない。

 バスと電車を乗り継ぎ、アパートの最寄りの駅に着いたのは、夜の十一時を回っていた。

 体にまとわりつく湿気を含んだ生ぬるい夜風が、昼間の海での出来事を思い出させる。

 陰りのない、真っ直ぐな黒い瞳。
 少年の様な、屈託のない笑顔。
 頬に伝う涙を拭う、優しい指先。
 ヒンヤリと、心地よい体温。
 甘い香りと、そして――。
  
 アパートにほど近い路地裏で、唇に触れた柔らかい感触が蘇ってきてしまい、私はその場に立ち止まった。

 抱えていた荷物を足下に放り出すように落として、震える両手で、自分の唇をそっと覆い隠す。

 分かっている。
 あれは、特別な意味のある行為じゃない。

 ただの人命救助。

 私じゃなくったって、赤の他人だって、伊藤君は同じ行動をとっただろう。

 彼は、そういう人間ひとだ。

 恋人を、友人を平気で裏切れる、私みたいに最低な人間じゃない。

 私に、浩二をとやかく言う資格なんてありはしない。

 別に浩二に強制されたからじゃなく、私は、自分の意志で伊藤君と出かけたのだから。

 諦めも要領も悪くて、強欲。

 そいう意味では、私と浩二はよく似ている。ツンと、鼻の奥がきな臭くなる。

「さすが、いとこどうし!」

 胸に熱いモノが込み上げてきてしまった私は、気を紛らわすように軽口を叩いて空を振り仰いだ。

 夜空に浮かぶのは、ちょっとスリムな月と、綺麗な星屑。

 せっかく奇麗なのに、なんだか歪んで滲んだ。

――ああ、直也の声が聞きたいなぁ。あのほっとできるような優しい声が聞きたい。

 明日になったら、一番で直也に電話をかけよう。

 そう、思った。

「生まれて初めて救急車に乗っちゃったー!」

 そう言って、驚かせてあげよう。きっと目を丸めて驚いてくれるだろう。

「亜弓か?」

「え……?」

 直也の声が聞こえた気がして、私は慌てて周りを見渡した。

「ああ、やっぱり、亜弓か。どうしたんだ、そんな所に突っ立って?」

 聞き慣れた穏やかなトーンの優しい声音が、夜のとばりに包まれた路地裏に静かに染み渡る。

「直……也?」

 信じられない思い出視線を巡らせれば、コンビニの買い物袋を下げた、メガネの男性がいた。アパートの入り口から、ゆっくりとした足どりで歩み寄ってくる懐かしい人影を認めて、心の中に広がったのは、泣きたくなるような安堵感。

 私は荷物を路上に置いたまま、そのまま引き寄せられるように、ふらふらと歩き出した。


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