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炊事場2
しおりを挟むおまきが足音荒く去った後、子供は足傷をかばいながら立ち上がった。
そして、すまなそうに散らばった野菜を見回し、間に入ってくれた少女、笠鼓に礼を言った。
「助けてくれてありがとう、笠鼓。でも、わっちが悪いんだ。とろかったから。おまきさんは、あんまり悪くない。ぶすとか言っちゃ駄目だよ。……あれ? 笠鼓、起きるの全然早いね、禿ってもう起きてるの?」
「手」
子供は笠鼓に言われて、慌てて野菜を拾う#左手を引っ込めた。
「そだ、そだ。左手じゃだめだ。右手、右手……」
子供は自身の左手をぎゅっとつねると、改めて右手で野菜を拾い始めた。
この下働きの子供は、左利きを理由に、花魁の傍仕えである、禿にあげてもらえなかったのだ。
野菜を拾いながらも、何度も頭に響かせた、ダンナ様の言葉が聞こえてくる。
『顔は悪くないが、左手を使うのか。店には出せませんな。お客が嫌がる。下働きで治しなさい』
まだ、狭い良識が人々の基準とされていた時だった。
治さなくてはいけない。たとえそれが生まれ持った個性、資質であっても。
右にならえ。皆同じで皆安心。それが世間と人々の常識……。
言われた子供は、タヌキの様に肥えたダンナ様の顎を見つめながら、何度も左手をつねった。
(何で私の左手は、一番はじめに動く働き者なんだろう? 右手の仕事を、全部左手がかっさらってしまう……)
『その手を治したら、●●の禿に付きなさい。あれがそう望んでいる――』
(左手を治せば、お店に出られる。お店に出れる禿になったら……そしたら――)
子供は顔を上げ、禿の笠鼓を見た。
小さな唇はほんわりと赤く、揃えた黒髪と白い肌に、よく映えている。そしてその右手、着物の線に沿い下ろされた右手が、ゆっくりと上がり、少し眠そうに片目をこすった。
(いいなぁ。右手が一番の働き者で……)
子供は羨ましそうに、間に立つ笠鼓を見上げた。
「教えてくれてありがとう。早くこの手を治して、わっちも禿にあげてもらえたらなぁ……。
そう、そう、笠鼓はいつもこんな早く起きるの? 夕餉までまだ時間があるよ、お腹すかない?」
「足」
冷たい目をした愛らしい少女は、子供の話には付き合わず、一音ばかりで聞いて来る。しかし子供は、そんな態度も気にならないのか、にこにこと朗らかに返した。
「そう、ちょっと擦りむいちゃって……。
へへ、しかも膝が笑ってる。これじゃあ、ますますとろくなっちゃうよ」
「……」
子供はかくかくと笑う膝をぺちぺちと叩き、足裏の傷をかばいながら、慣れぬ右手で野菜を集めた。
ようやく全て拾いおわり、顔をあげると、いまだ笠鼓がこちらを見ていた。
禿の中でも抜きん出て器量のいい笠鼓。しかし彼女は、その器量よしの顔に、不釣り合いな恐ろしい眼差しを持っていた。
普通の人よりも黒目が薄いのだ。
灰色がかった瞳は、薄墨色と呼ばれた。
薄墨色。不幸事があると、筆に含ませられるその色合いを持ち出し、陰口を叩く者も、おまきのように面と向かって悪口を言う者もいた。
だが子供は、笠鼓のその目が好きだった。
真っ直ぐにこちらを見つめる薄墨の色は、山の稜線か白墨の時。人の手では作り出せない、広大な自然の美しさを思わせる。
だから恐ろしい。
だから美しい。
子供は、大人をもたじろがせるその目つきに、崇拝に似た気持ちさえ抱いていた。
その目を持って、笠鼓はいまだこちらを見ている。
人形のように瞬きもせず、愛らしい顔つきで、冷たい目がじっと子供を伺っていた。
子供は臆することなく、むしろ綺麗なものを崇めるように、薄墨色の目を見つめ返すと、首を傾げ聞いた。
「笠鼓、お腹すいたの?」
「お前、くさいよ」
「えっ? あ! ごめん、汗かいたから……。ごめんね! わぁ、わ」
「……」
子供は唐突に臭いと言われ、野菜かごと台拭きを抱え込むと、慌てて外へと飛び出た。
汗を流すべく、井戸へと向かったのだ。
子供がいなくなってから、笠鼓の腹がぐーっと鳴る。
「腹がへった」
いま言ってもしょうがない。
誰も彼もいなくなった土間に、煮炊きの準備はまだ整っていない。しかし誰もそうは教えてくれないので、しかたなく笠鼓は、土間の隅で転がったままのトマトを拾い上げ、歯を当てた。
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