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旦那様3
しおりを挟むカワセミは、旦那様が目を離したと同時にぎゅっと目を瞑り、目を休めた。
仄暗い炎が瞼のうらでちらちらと見えるほどに、文字通り、旦那様の気配が焼き付いている。
目の奥がじりじりと痛む。頭の芯に鈴虫のすすり鳴く声が響く。果物の香りがそこへと沁み込み、神経を嬲る。
(引き際だ)
喧嘩慣れした心と体が警告を出している。
「音を上げるな」
「っ……」
カワセミの体がびくりと揺れた。低い声に目を開ければ、いつの間にか旦那様が、膝を寄せ目前へと迫っていた。
果物の息がかかる。旦那様が低い声で説いて来る。
「女に生まれて、惜しまれたことだろう、力で勝てぬ時に、その細腕を呪っただろう。……だが、それは間違いだ。お前はお前のままでいい」
ちゃぷり
カワセミの鼻先に硝子の盃が掲げられる。
その中を、ひらりと泳ぐ、赤く薄い金魚が二匹。強い酒の香り。盃の向こうに旦那様の仄暗い炎。
「人の世に馴染めぬなら、人で無くなればいい。人の道理なんぞ、人が守っていればいい。この世もあの世も、その身しだい」
旦那様は硝子の盃に口を当てると、酒と泳ぐ金魚を一匹のんだ。
濡れた唇がにやりと笑う。
視線が向かって来る、仄暗い炎が、巻き込み燃やすものを探している。
「酒落臭ぇ」
カワセミの両目が力強く炎を押しやると、旦那様から硝子の盃を奪い取った。
ぐい、と残りの酒と赤い金魚を一息に飲んでしまうと、酒に濡れた赤い唇を拳で拭い、盃を緋毛氈の上へと伏せて叩き置いた。
喉を滑り胃の腑に落ちる金魚を感じながらも、カワセミは凛とした表情のまま、つんと言い返す。
「昼間から盃事なんざして、夜までどう通すんだよ」
「威勢のいい。安心しろ、殴り込まれるほどの恨みは買っていない。営業許可もある、客も売り手も、安心、安全、安泰のはと錦だ」
旦那様の言葉に何を思ったのか、物書きが一生懸命にその科白を書き付け出した。
カワセミはそれをちらりとだけ見やる。
「あほらし」
カワセミはすっくと立ち上ると、「ごちそうさん」と言い放ち、旦那様への断りなしに座敷を出た。
残された旦那様は水煙草を寄せ、しばらくぶくぶくとやっていたが、ふいに物書きを振り返り言った。
「その掴み文句を掲げる気はないぞ」
それを聞き、「営業許可もある」に、嬉々として朱色をさしていた物書きは、酷く悲しそうに筆を置いた。
◇◇◇◇
カワセミは、はと錦の正門を大股で出た。
あまりにも堂々と店を抜け出るものだから、何を勘違いしたか、正門に控えていた若い衆がきちんと頭を下げて見送る。
店を挟む大通りをよぎり、道をはずれて昼の光を遮る路地にたどり着くと、カワセミは路地壁に片手をつき、口へと指を入れた。そして、黒い土へと酒と金魚を吐き出した。
飲んだ時から胃の腑をつつきまわっていた金魚は、いまだ元気がよく、濡れた土を跳ねている。
痛む目でそれをぼんやり眺めていると、いつの間からいたのか、どこかの小僧が怪訝そうにカワセミを見ていた。
「よっぱらい」
小僧が吐き戻したカワセミを指し、非難気に言う。
「こいつがな」
カワセミも負けじと、酒に酔って暴れる金魚を指さす。そして、袖からいくらかの銭を取り出すと小僧に渡した。
「酔っ払い金魚を川にでも放ってやれ、素面に戻れば、ついで、鮒に戻るやもしれない」
「うちで飼っていいか」
「好きにしろ」
小僧はカワセミを見上げた。
きりりとした目元は、吐き戻して少し病んだのかほんのりと朱を差している。
ぽっと赤い唇が、少し緩み、見上げる角度から白い歯が微かに覗ける。
泣き黒子を備えたまなじりが、小僧を見下ろしてくる。
赤い金魚を吐いた、艶めかしい女。
「……姉さん、何処のお店だい。俺が大人になったら、必ず通う」
「阿呆が」
カワセミはけらけらと笑い、小僧を軽く蹴るとてくてくと去って行った。
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