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 私は、幼い頃から人参が嫌いだ。
 あの色、味、変な見た目、食感、臭い。もはや存在そのものが許せないレベル。
 こうなったきっかけは、些細なことだ。
 動物園の動物と触れ合えるスポットでウサギに人参の皮をあげようとした時に、誤ってウサギに指を食べられた。
 たったそれだけのことで、何故かウサギではなく人参が嫌いになってしまったのだ。
 小学校の給食では、毎日と言っていいほどの頻度で人参が出る。
 なんであんなに毎日出没するのか、給食の時間への不満は大きかったように思う。
 大人になり自分で料理をするようになってみれば、人参の彩と栄養価、そして金額を兼ね備えた汎用性の高さを理解し、白旗を上げざる負えなくなったのだが。
 給食での人参の使用頻度は致し方なかった。
「なぜ人参が出るんですか?」と給食便りの裏に書いて、匿名で学校の意見箱に放り込んだことを思い出し、苦笑をこぼす。人参は便利だった。
 まぁ便利であることが分かったからと言って、基本的には食べないのだが。
 当時の先生方は『アレルギーじゃなければ、全部食べましょう』という方針だったので、私は毎日給食の時間は最後まで残っていた。
 みんなが掃除をしている時間も私は1人で人参と戦っていた。
 器に残った人参たちを行儀悪く箸先でつついては、減らないか、どこかに消えないか、とひたすらに願っていた。
 あまりに私が人参嫌いなので、クラスのみんなは、私のお膳だけ最初から人参を減らして盛り付けてくれていた。
 それでも食べられない。やっと食べられても時間がかかる。
 最初は一緒に応援してくれていた友達も、毎日となるとサクッと私を放置して掃除に行ってしまう。
 学年を追うごとに、千切りや胃腸に切られた人参は、他のものと一緒に我慢して食べられるようになってきた。
 しかし、その日の人参は今までと規模が違っていた。
 一口大の巨大な人参を油と砂糖で甘く艶やかに煮詰めた料理。いわゆる【人参のグラッセ】が出たのだ。
 大きいのが2個。新メニューのフライドチキンの横に添えられている。

「う……」

 見た目だけでは絶対無理だ。
 まずは箸で少し割ってみる。人参はむちっとほぐれるように割れて、中からじゅわっと人参汁が出てくる。

「ううう……」

 小さく切ってみたが、何故だか食べられない欠片が増えただけのような気がする。
 致し方なく、いやいやながら欠片を口へ運ぶ。

「うう、くっ……んくっ、ごくん…………はぁ~」

 口に含むとほんのりとした砂糖の甘みと人参が香る。人参の何とも言えない味と匂いがが口いっぱいに広がる。
 私はつい、必殺噛まずに飲み込むを使い、ごくりと喉を鳴らして人参を食道に送り込んだ。
 
「うへ~。嫌だよ。後1個半もあるなんて……」

 お行儀悪く、つついたり、睨み合ったりしている間に時間は経過していく。



 キーンコーン カーンコーン――
 お昼が終わるチャイムの音が聞こえた。
 結局、給食の時間が終わっても、グラッセは食べられなかった。いつものように、掃除の時間に突入だ。

未来みくちゃん! また人参食べないの?」

 教室掃除担当の麗華ちゃんが、箒片手に聞いてくる。

「う、うん。どうしても人参が苦手で」

 私がそう言うと、麗華ちゃんは不思議そうに言った。

「変なの。あんなに美味しいのに。うちのパパもママも好き嫌いする人は、ろくな大人にならないって言ってたよ。将来困るし、人に迷惑かけちゃだめだよ」

 その時の麗華ちゃんの言葉は、私の心に深く突き刺さった。
 麗華ちゃんの言う通り、早く食べられたらどれほどいいだろう。
 私だって迷惑をかけている自覚はあった。好きで食べられないわけではないのだ。それなのに……。
 ジワリと目頭が熱くなる。こんなことで泣いてやるものか、心を落ち着けて返事をする。

「……う、うん。ごめんね」

「みんな掃除がやりにくいの。ずっと我慢してたんだよ。もう子供じゃないんだしさ。ねえ、近藤君もそう思うよね?」

「え? 僕?」

 いきなり話を振られたのは、麗華ちゃんと同じ教室掃除のグループだった近藤君だった。
 もくもくと床を掃いていた彼にはどうでもいいことだっただろう。むしろ聞いていたかも不明だ。
 彼は、泣きそうな顔でうつむいている私と、みんなを代表して言ってやったと自信満々な表情の麗華ちゃんを見比べてから、ゆっくり口を開く。

「僕は別に……好き嫌いは誰にでもあるし、他人が強制することじゃないと思うよ」

「なっ!!」

 麗華ちゃんは大きな声を出した。
 近藤君が絶対自分に味方してくれると、自信があったのだろう。

「ふんっ! もう知らない!!」

 プライドを傷つけられたと思ったのか、麗華ちゃんは教室を飛び出していった。
 教室に残ったのは私と近藤君だけだった。
 ほかの子はごみでも捨てに行ったのか、麗華ちゃんに付いて行ったのか分からないが。
 近藤君と2人きりになったのはこれが初めてだった。
 近藤君はあたりを見回し、誰もいないことを確認すると、私の皿に残っている人参を手でつかみ、そのまま食べてしまった。

「えっ!? 近藤君!?」

 私はびっくりして彼の行動を止めることもできず、ただただあれだけ憎たらしかった人参が彼の口で咀嚼されていくのをポカンと見つめていた。
 近藤君の喉がごくりと上下してから、彼は私にはにかむ様に笑いかけた。
 私にとって、近藤君が笑っているところを見るのは、これが初めてだ。

「近藤君、どうして……」

 近藤君は微笑むだけで理由は答えてくれなかった。
 彼は口元に人差し指を添えて、一言だけ囁くように言った。

「みんなには内緒だよ?」

 私たちに世界で2人だけの秘密が生まれた瞬間だった。
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