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始まりの鐘
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僕は目を覚ました。
脳も視界もまだ揺れている。けれども僕はコンビニの事務室(レジの奥にあるバックヤードをここではそう呼ぶ)にいると確かに理解できた。
見慣れた灰色の狭い部屋。小さな窓からわずかに光が入ってくる。僕はオフィスチェアに座ったまま、パソコンと書類の積み上げられた机で突っ伏していたようだ。
防犯カメラのモニター画面を確認する。レジでアルバイトの青年が1人立っているだけで、客の姿はない。
ああ。斎藤には悪いことをしたな。もう休憩の時間なのに、寝ている僕を気遣ってレジに立っていてくれたのだろう。斎藤が上がる時には新商品のスイーツでも持って帰らせよう。
壁にかかっている安物の時計は、午後2時を示していた。
突然。どこか切ないような、寂しいような、そんな感情が僕の胸を刺した。内容は全く覚えていないが、なにか気分の良い夢を見ていたような。
鈍い頭痛をじわじわと感じながら、僕は立ち上がって体をぐっと伸ばした。連日の疲れで体が軋んでいる。
これが34歳の誕生日か。去年あたりからだろうか、結婚はいつするんだと両親が急かすこともなくなった。諦めるにはまだ早いと思うのだけれど、彼女の1人もできそうにない僕に期待するのは無駄だと、両親はそう思うようになったのかもしれない。
僕は大きなため息をつく。脱サラし、コンビニオーナーを始めてからもう2年が過ぎた。休日なく働いてはいるものの、とても利益など出ない。立地のせいか、客足が悪すぎるのだ。かといって新しい店舗に移転する資金などないし、しばらくはこの店舗でなんとか頑張るしかない。
資本主義社会は好きだ、そう以前は思っていた。お金を稼ぐ道のりを考えたり試したり苦しんだりすることにワクワクした。しかし待っていたのは地獄の現実だけだった。
換気扇を回し、煙草に火をつける。僕はゆっくりと肺を煙で満たし、存分にニコチンを吸収してから一気に煙を吐き出した。大抵の悩みはこの一連の動作で多少緩和される。事務室が煙草臭いとアルバイトの子達に陰口を言われる問題を除けば。
エリアマネージャーが置いていった目標シートに目を落とす。
『あと3ヶ月の辛抱です。地道に用意して、しっかりとしたお店を作り上げましょう。隣のイベント施設が完成すれば、かなりの売り上げ増が見込めます』
そう甘くはないんだよ。あの新卒入社3年目みたいなエリマネにはわからんだろう。まあ、確かに今の頑張り次第で売上は多少変わるだろうが。
問題は僕の気力だ。体力もそうだが、もう殆ど限界と言ってもいい。店舗をオープンした2年前の情熱はもはやかけらも残っていなかった。
煙草の火を消し、僕はのそのそと歩いて事務室を出る。アルバイトの斎藤が僕を見て、疲れた表情をしながら言った。
「おはようございます。2時間は寝てましたね」
「ああ。すまないな」
「あの面倒なおじいちゃんの対応、俺1人でやったんですからね。時給上げてくださいよ」
「すまないな」
「すまないなマシーンで押し通す気ですね」
「レジ、変わるよ。休憩してくれ。悪いがその後は飲料類の品出しを頼む。2時間後までには発注かけなきゃいけなくてさ」
「わかりました」
斎藤はすたすたと事務室に入っていった。あっ、また煙草吸いましたね、という斎藤の声が聞こえてきたが、無視した。
客のいない店内で僕はレジに立った。
レジの真向かいにある、秋のフェアを宣伝するためのPOP広告を僕はぼんやりと眺める。綺麗な紅葉と、秋の果物、そしてトンボのイラスト。
見事なもんだ。斎藤は本当に絵が上手い。漫画家を目指しているというから当然なのかもしれないが、羨ましい才能だ。或いは努力の賜物なのだろうか。
僕にもあのトンボみたいな複眼があれば、もっと仕事がうまくできたはずだ。そうであればきっと、僕はあの会社でうまく立ち回り、脱サラなど考えていなかっただろう。
結局僕は、夢を見てコンビニオーナーになったわけではないのだ。どうしようもなく情けない駄目な自分、同僚や上司に疎まれる自分、後輩に追い抜かれていく自分。そういう自分を直視できずに逃げ出しただけだ。
その時、入店音が鳴り響いた。小さな男の子だ。続いてそのお母さんらしき女性。
男の子は膝に絆創膏を貼っている。大方、無駄に駆け回ってどこかで転んだのだろう。お母さんの苦労がうかがい知れる。
5分程、その親子は店内を回ると、いくつかの商品をかかえてレジへとやってきた。僕が普段通りにレジ業務を進めていると。
「オニヤンマですね」
POP広告を見たお母さんらしき女性はそう言った。20代後半、いや30代だろうか。派手ではないが、美しい雰囲気を持つ女性だ。
「ええ。アルバイトの子が書いてくれたんです。お詳しいですね」
「私、幼い頃は田舎で育ったんです。オニヤンマとよく一緒に遊びましたから」
「奇遇ですね、僕もです」
彼女は支払いのために財布からクレジットカードを取り出し、暗証番号を打つ。そして僕が首からさげているネームプレートを見て。
「貴方、私と同じ歳くらいでしょうか。それなのにオーナーさんをされているんですね。オーナーさんの中ではかなりお若いのでは?」
「そうかもしれません。無茶をしているんですよ」
そうして彼女と会話をしているうちに、会計も袋詰めも全て終わってしまっていた。彼女はレジ袋を持ち、僕をじっと見つめた。
「そうですか。どうぞご自愛くださいますよう」
彼女はそう言うと男の子を連れ、出入口へと歩いた。彼女の左手の薬指で、指輪が輝く。そして彼女はくるりと僕の方へと振り返り。
「会えてよかったです。オーナーさん。またいつの日か」
男の子が自動ドアを開けながら、彼女に質問する。
「ママ、どうして笑ってるの?」
「ママもね、昔は女の子だったの」
ドアは閉まり、店内は再び客のいない空間となった。流行りのヒットナンバーが延々スピーカーから流れている。
僕は遠ざかっていく彼女の後ろ姿を呆然と見ていた。
理由はわからない。けれども何故か、気力が少し戻ったような気がする。
やってやろうじゃないか。この3ヶ月、徹底的に準備してやる。売り上げを伸ばして、店舗を増やそう。株式会社を立ち上げて、夢だった不動産事業にも手をかけるんだ。
コンビニの裏。雑草が生い茂るその敷地で、1匹のオニヤンマがざっ、と飛び立った。
(了)
脳も視界もまだ揺れている。けれども僕はコンビニの事務室(レジの奥にあるバックヤードをここではそう呼ぶ)にいると確かに理解できた。
見慣れた灰色の狭い部屋。小さな窓からわずかに光が入ってくる。僕はオフィスチェアに座ったまま、パソコンと書類の積み上げられた机で突っ伏していたようだ。
防犯カメラのモニター画面を確認する。レジでアルバイトの青年が1人立っているだけで、客の姿はない。
ああ。斎藤には悪いことをしたな。もう休憩の時間なのに、寝ている僕を気遣ってレジに立っていてくれたのだろう。斎藤が上がる時には新商品のスイーツでも持って帰らせよう。
壁にかかっている安物の時計は、午後2時を示していた。
突然。どこか切ないような、寂しいような、そんな感情が僕の胸を刺した。内容は全く覚えていないが、なにか気分の良い夢を見ていたような。
鈍い頭痛をじわじわと感じながら、僕は立ち上がって体をぐっと伸ばした。連日の疲れで体が軋んでいる。
これが34歳の誕生日か。去年あたりからだろうか、結婚はいつするんだと両親が急かすこともなくなった。諦めるにはまだ早いと思うのだけれど、彼女の1人もできそうにない僕に期待するのは無駄だと、両親はそう思うようになったのかもしれない。
僕は大きなため息をつく。脱サラし、コンビニオーナーを始めてからもう2年が過ぎた。休日なく働いてはいるものの、とても利益など出ない。立地のせいか、客足が悪すぎるのだ。かといって新しい店舗に移転する資金などないし、しばらくはこの店舗でなんとか頑張るしかない。
資本主義社会は好きだ、そう以前は思っていた。お金を稼ぐ道のりを考えたり試したり苦しんだりすることにワクワクした。しかし待っていたのは地獄の現実だけだった。
換気扇を回し、煙草に火をつける。僕はゆっくりと肺を煙で満たし、存分にニコチンを吸収してから一気に煙を吐き出した。大抵の悩みはこの一連の動作で多少緩和される。事務室が煙草臭いとアルバイトの子達に陰口を言われる問題を除けば。
エリアマネージャーが置いていった目標シートに目を落とす。
『あと3ヶ月の辛抱です。地道に用意して、しっかりとしたお店を作り上げましょう。隣のイベント施設が完成すれば、かなりの売り上げ増が見込めます』
そう甘くはないんだよ。あの新卒入社3年目みたいなエリマネにはわからんだろう。まあ、確かに今の頑張り次第で売上は多少変わるだろうが。
問題は僕の気力だ。体力もそうだが、もう殆ど限界と言ってもいい。店舗をオープンした2年前の情熱はもはやかけらも残っていなかった。
煙草の火を消し、僕はのそのそと歩いて事務室を出る。アルバイトの斎藤が僕を見て、疲れた表情をしながら言った。
「おはようございます。2時間は寝てましたね」
「ああ。すまないな」
「あの面倒なおじいちゃんの対応、俺1人でやったんですからね。時給上げてくださいよ」
「すまないな」
「すまないなマシーンで押し通す気ですね」
「レジ、変わるよ。休憩してくれ。悪いがその後は飲料類の品出しを頼む。2時間後までには発注かけなきゃいけなくてさ」
「わかりました」
斎藤はすたすたと事務室に入っていった。あっ、また煙草吸いましたね、という斎藤の声が聞こえてきたが、無視した。
客のいない店内で僕はレジに立った。
レジの真向かいにある、秋のフェアを宣伝するためのPOP広告を僕はぼんやりと眺める。綺麗な紅葉と、秋の果物、そしてトンボのイラスト。
見事なもんだ。斎藤は本当に絵が上手い。漫画家を目指しているというから当然なのかもしれないが、羨ましい才能だ。或いは努力の賜物なのだろうか。
僕にもあのトンボみたいな複眼があれば、もっと仕事がうまくできたはずだ。そうであればきっと、僕はあの会社でうまく立ち回り、脱サラなど考えていなかっただろう。
結局僕は、夢を見てコンビニオーナーになったわけではないのだ。どうしようもなく情けない駄目な自分、同僚や上司に疎まれる自分、後輩に追い抜かれていく自分。そういう自分を直視できずに逃げ出しただけだ。
その時、入店音が鳴り響いた。小さな男の子だ。続いてそのお母さんらしき女性。
男の子は膝に絆創膏を貼っている。大方、無駄に駆け回ってどこかで転んだのだろう。お母さんの苦労がうかがい知れる。
5分程、その親子は店内を回ると、いくつかの商品をかかえてレジへとやってきた。僕が普段通りにレジ業務を進めていると。
「オニヤンマですね」
POP広告を見たお母さんらしき女性はそう言った。20代後半、いや30代だろうか。派手ではないが、美しい雰囲気を持つ女性だ。
「ええ。アルバイトの子が書いてくれたんです。お詳しいですね」
「私、幼い頃は田舎で育ったんです。オニヤンマとよく一緒に遊びましたから」
「奇遇ですね、僕もです」
彼女は支払いのために財布からクレジットカードを取り出し、暗証番号を打つ。そして僕が首からさげているネームプレートを見て。
「貴方、私と同じ歳くらいでしょうか。それなのにオーナーさんをされているんですね。オーナーさんの中ではかなりお若いのでは?」
「そうかもしれません。無茶をしているんですよ」
そうして彼女と会話をしているうちに、会計も袋詰めも全て終わってしまっていた。彼女はレジ袋を持ち、僕をじっと見つめた。
「そうですか。どうぞご自愛くださいますよう」
彼女はそう言うと男の子を連れ、出入口へと歩いた。彼女の左手の薬指で、指輪が輝く。そして彼女はくるりと僕の方へと振り返り。
「会えてよかったです。オーナーさん。またいつの日か」
男の子が自動ドアを開けながら、彼女に質問する。
「ママ、どうして笑ってるの?」
「ママもね、昔は女の子だったの」
ドアは閉まり、店内は再び客のいない空間となった。流行りのヒットナンバーが延々スピーカーから流れている。
僕は遠ざかっていく彼女の後ろ姿を呆然と見ていた。
理由はわからない。けれども何故か、気力が少し戻ったような気がする。
やってやろうじゃないか。この3ヶ月、徹底的に準備してやる。売り上げを伸ばして、店舗を増やそう。株式会社を立ち上げて、夢だった不動産事業にも手をかけるんだ。
コンビニの裏。雑草が生い茂るその敷地で、1匹のオニヤンマがざっ、と飛び立った。
(了)
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