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最終章(葵)手紙
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春雄くんとお別れしてから、1ヶ月が過ぎた。
私はここ数日、ようやくのことで普通の生活ができるようになった。大学の近くにある部屋は退去して、実家でのんびり過ごしている。とはいえ、ほとんどはこうして自分の部屋にいるのだけれど。
春雄くんがいなくなってしまったのなら、やっぱり私が生きる理由もない。そう思っていたけれど、春雄くんがまたいつかと、そう言っていたから。だから私は、まだしばらくこの世界にいることにした。
何にせよ、私の命もそれほど残ってはいない。それなら少しここで生活して、それから春雄くんに会いに行けばいい。
春雄くんが倒れた時、私は春雄くんが余命に嘘をついていたのだと思った。でも、違った。確かに春雄くんはいつ命が消えるのかを知っていたようだったけれど、余命とは別に、心臓麻痺が起きてしまうということを言わなかっただけだった。
春雄くんはそれをあえて言わなかったのか、それとも言えなかったのか。私にはわからない。
でも、春雄くんは私のことを本当に想ってくれていた。そして私はそれを知っている。それだけが大切なこと。
真っ白な西山にいたあの時、春雄くんがこの鶴をくれた。この子がいてくれたから、私は今、なんとか自分を保っていられる。
春雄くんは私の望むことをいつでも知っているみたいだった。私の欲しい言葉を、私が望む想いを、春雄くんは全てを私に捧げてくれた。
でも。
わかっているのに。春雄くんがいなくなって、残りの時間をこんなに悲しく過ごすなんて、春雄くんは望んでいない。そんなこと、わかっているのに。
それでも私は、春雄くんがいなくなった世界で、どうして明るく生きられるだろう。どうやって楽しく生きられるだろう。
春雄くんしかいなかった私には、そんなことできるはずもない。
ごめんね、春雄くん。私はまだ頑張ってこの世界にいるけれど、でも本当は、早く春雄くんのところに行きたくて仕方がないの。
毎晩夢を見るんだ。
私は体も頭もなくなって、人間の形すらしていない魂のようなものになっている。そうして向こうの世界で春雄くんと再会する。そんな夢。
私がもし、自分で向こうに行ったのなら。優しい春雄くんはそんな私を許して、慰めてくれるかもしれない。優しい言葉をかけてくれるかもしれない。でも、喜んではくれないだろう。きっと少し悲しい顔をするのだと思う。
私、もう少し頑張るから。こんな私だけど、胸を張って春雄くんにまた会いたいから。
だけど。ねえ、春雄くん。
どうして春雄くんは先に行ってしまったの。どうして私を一人にするの。春雄くんだけが全ての私に、春雄くんがいない世界で一体どうやって生きろと言うの。
本当に頑張れるかな。私、私はもう。
私は。
「葵!」
階段の下から、葵を呼ぶ声がした。
「……お母さん! どうしたの?」
葵もまた、階段下にいるであろう彼女に向けて声を張り上げた。
階段を駆け上がる足音が葵の耳に届く。そして部屋のドアが勢いよく開いた。
「こ、これ……。葵に、葵に宛ててある。郵便受けに入ってたの。中身は、そうね、葵にしか読む権利はないと思うから」
そう言うと彼女は小さな封筒を葵に渡し、部屋を出て階段を降りていった。
葵はその封筒を見る。
藍原 葵 様
これだけ書かれている。宛先の住所すら書いていない。どういうことだろう。誰かが私に宛てて、直接郵便受けに入れた、ということになる。
それに、お母さんはどうしてあんなに慌てていたのかな。それにしてもこの字、どこかで……。
葵が封筒を裏返すと、そこには差出人の名前が書かれていた。
葵は目を見開いた。
佐倉 春雄
葵は震える手で、丁寧に封筒を開ける。中には小さな白い便箋が1枚入っていた。
『葵へ
こんなことになってしまって、本当にごめんね。
もう少し葵と一緒にいられると思っていたのだけれど。
こんなこと、言うまでもないことかもしれない。
でも、書いておこうと思う。
俺にとって、葵は全てだった。
葵と一緒にいられて、それだけが本当に幸せだった。
葵とは、きっとすぐに会えると思うから。
だからそれまでは、どうか楽しく、心を動かしてください。
葵らしく、輝いていてください。
この手紙を葵が読んでいる時も、俺は葵のことを愛しています。
いつかまた、会いましょう。』
小さな便箋に、いくつもの水滴が落ちた。
春雄くん。春雄くん。私が間違えるはずもない、これは確かに春雄くんの字だ。
春雄くんが私に書いてくれたんだ。今の私を見かねて。やっぱり春雄くんはいつでも私のことを見てくれている。向こうの世界で手紙を書いて、私のところへ届けてくれたんだ。
ううん、違う。そんなはずない。これは春雄くんが死ぬ前に書いたんだ。どうやったのかはわからないけれど、1ヶ月後にこの手紙が私の元へと届くように。
そうだ。
春雄くんは死んだ。
そして私は生きている。
余命はあと2ヶ月。春雄くんには早く会いたいのだけれど、でも桜は見ておきたいな。桜が咲くまで私の命は持つだろうか。
いや、というより、春雄くんなんかより桜の方が大事だ。だって私、桜見たいもの。
春になって、それでお花見をしたらそっちに行くから。そうしたらまたゆっくりお話しよう。
だから春雄くん、悪いけれどちょっと待っててね。まあ春雄くんは私のことが大好きだから、少しくらい遅れても怒りはしないよね。
葵は手紙をそっと机の上に置いた。それからスウェットを脱ぎ捨てて洋服に着替え、クローゼットからロングコートを引っ張り出す。そのコートを肩にかけるとドアを開け、部屋を出ていった。
春雄くん。また、あとでね。
(了)
私はここ数日、ようやくのことで普通の生活ができるようになった。大学の近くにある部屋は退去して、実家でのんびり過ごしている。とはいえ、ほとんどはこうして自分の部屋にいるのだけれど。
春雄くんがいなくなってしまったのなら、やっぱり私が生きる理由もない。そう思っていたけれど、春雄くんがまたいつかと、そう言っていたから。だから私は、まだしばらくこの世界にいることにした。
何にせよ、私の命もそれほど残ってはいない。それなら少しここで生活して、それから春雄くんに会いに行けばいい。
春雄くんが倒れた時、私は春雄くんが余命に嘘をついていたのだと思った。でも、違った。確かに春雄くんはいつ命が消えるのかを知っていたようだったけれど、余命とは別に、心臓麻痺が起きてしまうということを言わなかっただけだった。
春雄くんはそれをあえて言わなかったのか、それとも言えなかったのか。私にはわからない。
でも、春雄くんは私のことを本当に想ってくれていた。そして私はそれを知っている。それだけが大切なこと。
真っ白な西山にいたあの時、春雄くんがこの鶴をくれた。この子がいてくれたから、私は今、なんとか自分を保っていられる。
春雄くんは私の望むことをいつでも知っているみたいだった。私の欲しい言葉を、私が望む想いを、春雄くんは全てを私に捧げてくれた。
でも。
わかっているのに。春雄くんがいなくなって、残りの時間をこんなに悲しく過ごすなんて、春雄くんは望んでいない。そんなこと、わかっているのに。
それでも私は、春雄くんがいなくなった世界で、どうして明るく生きられるだろう。どうやって楽しく生きられるだろう。
春雄くんしかいなかった私には、そんなことできるはずもない。
ごめんね、春雄くん。私はまだ頑張ってこの世界にいるけれど、でも本当は、早く春雄くんのところに行きたくて仕方がないの。
毎晩夢を見るんだ。
私は体も頭もなくなって、人間の形すらしていない魂のようなものになっている。そうして向こうの世界で春雄くんと再会する。そんな夢。
私がもし、自分で向こうに行ったのなら。優しい春雄くんはそんな私を許して、慰めてくれるかもしれない。優しい言葉をかけてくれるかもしれない。でも、喜んではくれないだろう。きっと少し悲しい顔をするのだと思う。
私、もう少し頑張るから。こんな私だけど、胸を張って春雄くんにまた会いたいから。
だけど。ねえ、春雄くん。
どうして春雄くんは先に行ってしまったの。どうして私を一人にするの。春雄くんだけが全ての私に、春雄くんがいない世界で一体どうやって生きろと言うの。
本当に頑張れるかな。私、私はもう。
私は。
「葵!」
階段の下から、葵を呼ぶ声がした。
「……お母さん! どうしたの?」
葵もまた、階段下にいるであろう彼女に向けて声を張り上げた。
階段を駆け上がる足音が葵の耳に届く。そして部屋のドアが勢いよく開いた。
「こ、これ……。葵に、葵に宛ててある。郵便受けに入ってたの。中身は、そうね、葵にしか読む権利はないと思うから」
そう言うと彼女は小さな封筒を葵に渡し、部屋を出て階段を降りていった。
葵はその封筒を見る。
藍原 葵 様
これだけ書かれている。宛先の住所すら書いていない。どういうことだろう。誰かが私に宛てて、直接郵便受けに入れた、ということになる。
それに、お母さんはどうしてあんなに慌てていたのかな。それにしてもこの字、どこかで……。
葵が封筒を裏返すと、そこには差出人の名前が書かれていた。
葵は目を見開いた。
佐倉 春雄
葵は震える手で、丁寧に封筒を開ける。中には小さな白い便箋が1枚入っていた。
『葵へ
こんなことになってしまって、本当にごめんね。
もう少し葵と一緒にいられると思っていたのだけれど。
こんなこと、言うまでもないことかもしれない。
でも、書いておこうと思う。
俺にとって、葵は全てだった。
葵と一緒にいられて、それだけが本当に幸せだった。
葵とは、きっとすぐに会えると思うから。
だからそれまでは、どうか楽しく、心を動かしてください。
葵らしく、輝いていてください。
この手紙を葵が読んでいる時も、俺は葵のことを愛しています。
いつかまた、会いましょう。』
小さな便箋に、いくつもの水滴が落ちた。
春雄くん。春雄くん。私が間違えるはずもない、これは確かに春雄くんの字だ。
春雄くんが私に書いてくれたんだ。今の私を見かねて。やっぱり春雄くんはいつでも私のことを見てくれている。向こうの世界で手紙を書いて、私のところへ届けてくれたんだ。
ううん、違う。そんなはずない。これは春雄くんが死ぬ前に書いたんだ。どうやったのかはわからないけれど、1ヶ月後にこの手紙が私の元へと届くように。
そうだ。
春雄くんは死んだ。
そして私は生きている。
余命はあと2ヶ月。春雄くんには早く会いたいのだけれど、でも桜は見ておきたいな。桜が咲くまで私の命は持つだろうか。
いや、というより、春雄くんなんかより桜の方が大事だ。だって私、桜見たいもの。
春になって、それでお花見をしたらそっちに行くから。そうしたらまたゆっくりお話しよう。
だから春雄くん、悪いけれどちょっと待っててね。まあ春雄くんは私のことが大好きだから、少しくらい遅れても怒りはしないよね。
葵は手紙をそっと机の上に置いた。それからスウェットを脱ぎ捨てて洋服に着替え、クローゼットからロングコートを引っ張り出す。そのコートを肩にかけるとドアを開け、部屋を出ていった。
春雄くん。また、あとでね。
(了)
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