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第23章(幸成)煙に巻かれて
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15時を過ぎたキャンパスには、講義を終えた学生達がぞろぞろと歩いていた。その学生の中に、グレーのコートのポケットに手を入れたまま、歩幅を小さくして歩く幸成がいた。2月に入ってからはもう雪が降ることはなかった。けれども大学の周りにはまだ雪の塊があちらこちらに残っている。
ああ。ようやく期末試験も全て終わった。これでもう春休みか。春休みだなんて言ったって、俺には特に何の用事もない。普段よりもコンビニバイトが多少増えるくらいのものだ。大学生の春休みというのは、きっと皆で旅行に行ったりだとか、サークルの合宿に行ったりするのだろう。俺には関係のない話だけれど。
「……おい、おいってば!」
背後からやってきたその聞き覚えのある声に、幸成は立ち止まって振り返った。そこにはベージュのムートンコートを着たなつきがいた。
「……なつきさん。こんにちは」と幸成は言った。
「こんにちは、じゃねえよ。何度も呼んでただろ。シカトしやがって」
「ごめん。少し考えごとをしていて……」
「考えごと? 何のだ」
「春休み、何しようかなって」
「なるほど。幸成はどうせ暇だもんな。また何かしら、私が付き合ってやるよ」そう言うと、なつきは再び歩き出した。幸成もまた、なつきの隣で歩き始める。
「ありがとう。さすがなつきさん」
「あ、でもな……」と言って、なつきは何かを思い出すように宙を見た。
「ん?」
「いや、私さ、育った場所に帰ろうかと思ってさ。差し入れというか、なんというか」
育った場所。普通ならばそれは実家のことだろうが、しかしそういう言い方をするということは、やはりなつきさんには両親がいないのだろう。両親はいるけれどなつきさんにとってはいない、のではなくて、物理的に両親がいないのだ。
「すぐに帰るの?」と幸成は言った。
「いや。3月の頭に少しね。いい場所なんだ。琵琶湖がすぐ近くにあって、それに吸い込まれるように一本の下り坂が続いててさ。夏なんて空も青くて……」
「なつきさん、琵琶湖の近くに住んでいたんだね。えっと、つまり滋賀県?」
「あれ、言ってなかったか」
「うん」
「とにかくその時以外は私もこっちにいるからさ。また連絡してやるよ」
「……なつきさん、知り合ったばかりの時はもう少し女の子らしい言葉づかいだったよね」
「そりゃそうだろ。初めましての人にいきなりこんな話し方するか」
「あ、うん、そうだね」
やがて幸成となつきは自転車置き場に着いた。まだ雪が残っているからか、自転車や原付で大学に来る学生は少なく、故に自転車置き場は閑散としていた。幸成が財布の中に入れていた自転車の鍵を取り出そうとすると、既に自転車に跨っていたなつきが口を開く。
「とりあえず今日は私、バイトあるから。またそのうちな」
「わかった。まだ雪も残っているから気をつけて」
「幸成もな。ああ、それとな……」
「何?」
「前に手を握ってくれてありがとう。幸成は私と同じタイプの人間らしい。だからその時、私はわかっちゃったんだよ。幸成が思うことをさ」
幸成は心臓が大きく跳ね上がるのを感じた。それは焦りでもあり、高揚でもあり、不安でもあった。
俺が思うことがわかった。とはどういうことだ。まさか俺がなつきさんを好きだと思っていることだろうか。いや、いくらなんでも手を握っただけでそんなことがわかるはずが。
「それは……」
そう幸成が質問しようとしたが、なつきは右手をかざしてそれを遮った。
「幸成。いいんだ。私は嬉しく思った。でもな、私は受け入れることができない。それは幸成のことが気に入らないとかではなくて、私自身の問題だから」
「なつきさん自身の問題?」
「そう。私は……」
なつきはそこまで言うと、言葉に詰まってしまったようだった。幸成はなつきの言葉をただじっと待つしかなかった。やがてなつきは再び口を開いた。
「いや、だめだ。うまく言えない。でも、必ず話すよ。私が滋賀に戻る前までには」
「……わかった」
「じゃ」
そうしてなつきは幸成から顔を背けると、自転車を漕いで門を出ていった。
幸成はなつきの背中が見えなくなるまで、ただ呆然と立ち尽くしていた。なつきの姿が完全に見えなくなると、幸成はようやくトートバッグを自転車の前かごに置き、それから自転車の鍵を挿した。
なつきさんの言うことは時々、真に迫る。そしてそのうちの半分くらいは、言葉の意味が明瞭ではない。けれども、なつきさんがわざとわかりにくくしているとは思えない。おそらくは自然と抽象的になってしまうのだろう。
今回の要点をまとめると。握手をした時に、なつきさんは俺の思っていることがわかった。そしてなつきさんにとってそれは、ある程度嬉しいものだった。けれどもそれは受け入れられない。何故ならなつきさん側の問題があるから。そしてそれについて、近いうちに話すつもりだ。ということらしい。
だめだ。よくわからない。もしなつきさんが俺の気持ちに気付いているのだとして、それを嬉しいと思ってくれているのはどうにも信じられない。ただし、なつきさんが俺に気をつかってくれたという可能性もある。とすると、なつきさんは遠回しに俺を振ろうとしている、というのが妥当だろう。
そうであれば、なつきさんが言い淀んだことにも納得がいく。なつきさんは優しい人だ。俺の気持ちを拒絶するのは気が引けたのかもしれない。
いやしかし。どうにも少しずれている気がする。なつきさんの言葉のニュアンスはそうではなかった。なつきさんには問題があって、それさえ解決してしまえば……、と言ったように聞こえた。
それは俺の希望的観測だろうか。いや、そもそもなつきさんが俺の気持ちに気付いたかどうかすら確信はできないのだ。あれこれ考えても仕方がないな。
幸成は自転車に跨り、それから漕ぎ出した。スリップに注意しながら、大学を後にするのだった。
その晩、幸成はなかなか寝つけなかった。なつきの言葉が、幸成の頭の中をぐるぐると回り続けていた。
ああ。ようやく期末試験も全て終わった。これでもう春休みか。春休みだなんて言ったって、俺には特に何の用事もない。普段よりもコンビニバイトが多少増えるくらいのものだ。大学生の春休みというのは、きっと皆で旅行に行ったりだとか、サークルの合宿に行ったりするのだろう。俺には関係のない話だけれど。
「……おい、おいってば!」
背後からやってきたその聞き覚えのある声に、幸成は立ち止まって振り返った。そこにはベージュのムートンコートを着たなつきがいた。
「……なつきさん。こんにちは」と幸成は言った。
「こんにちは、じゃねえよ。何度も呼んでただろ。シカトしやがって」
「ごめん。少し考えごとをしていて……」
「考えごと? 何のだ」
「春休み、何しようかなって」
「なるほど。幸成はどうせ暇だもんな。また何かしら、私が付き合ってやるよ」そう言うと、なつきは再び歩き出した。幸成もまた、なつきの隣で歩き始める。
「ありがとう。さすがなつきさん」
「あ、でもな……」と言って、なつきは何かを思い出すように宙を見た。
「ん?」
「いや、私さ、育った場所に帰ろうかと思ってさ。差し入れというか、なんというか」
育った場所。普通ならばそれは実家のことだろうが、しかしそういう言い方をするということは、やはりなつきさんには両親がいないのだろう。両親はいるけれどなつきさんにとってはいない、のではなくて、物理的に両親がいないのだ。
「すぐに帰るの?」と幸成は言った。
「いや。3月の頭に少しね。いい場所なんだ。琵琶湖がすぐ近くにあって、それに吸い込まれるように一本の下り坂が続いててさ。夏なんて空も青くて……」
「なつきさん、琵琶湖の近くに住んでいたんだね。えっと、つまり滋賀県?」
「あれ、言ってなかったか」
「うん」
「とにかくその時以外は私もこっちにいるからさ。また連絡してやるよ」
「……なつきさん、知り合ったばかりの時はもう少し女の子らしい言葉づかいだったよね」
「そりゃそうだろ。初めましての人にいきなりこんな話し方するか」
「あ、うん、そうだね」
やがて幸成となつきは自転車置き場に着いた。まだ雪が残っているからか、自転車や原付で大学に来る学生は少なく、故に自転車置き場は閑散としていた。幸成が財布の中に入れていた自転車の鍵を取り出そうとすると、既に自転車に跨っていたなつきが口を開く。
「とりあえず今日は私、バイトあるから。またそのうちな」
「わかった。まだ雪も残っているから気をつけて」
「幸成もな。ああ、それとな……」
「何?」
「前に手を握ってくれてありがとう。幸成は私と同じタイプの人間らしい。だからその時、私はわかっちゃったんだよ。幸成が思うことをさ」
幸成は心臓が大きく跳ね上がるのを感じた。それは焦りでもあり、高揚でもあり、不安でもあった。
俺が思うことがわかった。とはどういうことだ。まさか俺がなつきさんを好きだと思っていることだろうか。いや、いくらなんでも手を握っただけでそんなことがわかるはずが。
「それは……」
そう幸成が質問しようとしたが、なつきは右手をかざしてそれを遮った。
「幸成。いいんだ。私は嬉しく思った。でもな、私は受け入れることができない。それは幸成のことが気に入らないとかではなくて、私自身の問題だから」
「なつきさん自身の問題?」
「そう。私は……」
なつきはそこまで言うと、言葉に詰まってしまったようだった。幸成はなつきの言葉をただじっと待つしかなかった。やがてなつきは再び口を開いた。
「いや、だめだ。うまく言えない。でも、必ず話すよ。私が滋賀に戻る前までには」
「……わかった」
「じゃ」
そうしてなつきは幸成から顔を背けると、自転車を漕いで門を出ていった。
幸成はなつきの背中が見えなくなるまで、ただ呆然と立ち尽くしていた。なつきの姿が完全に見えなくなると、幸成はようやくトートバッグを自転車の前かごに置き、それから自転車の鍵を挿した。
なつきさんの言うことは時々、真に迫る。そしてそのうちの半分くらいは、言葉の意味が明瞭ではない。けれども、なつきさんがわざとわかりにくくしているとは思えない。おそらくは自然と抽象的になってしまうのだろう。
今回の要点をまとめると。握手をした時に、なつきさんは俺の思っていることがわかった。そしてなつきさんにとってそれは、ある程度嬉しいものだった。けれどもそれは受け入れられない。何故ならなつきさん側の問題があるから。そしてそれについて、近いうちに話すつもりだ。ということらしい。
だめだ。よくわからない。もしなつきさんが俺の気持ちに気付いているのだとして、それを嬉しいと思ってくれているのはどうにも信じられない。ただし、なつきさんが俺に気をつかってくれたという可能性もある。とすると、なつきさんは遠回しに俺を振ろうとしている、というのが妥当だろう。
そうであれば、なつきさんが言い淀んだことにも納得がいく。なつきさんは優しい人だ。俺の気持ちを拒絶するのは気が引けたのかもしれない。
いやしかし。どうにも少しずれている気がする。なつきさんの言葉のニュアンスはそうではなかった。なつきさんには問題があって、それさえ解決してしまえば……、と言ったように聞こえた。
それは俺の希望的観測だろうか。いや、そもそもなつきさんが俺の気持ちに気付いたかどうかすら確信はできないのだ。あれこれ考えても仕方がないな。
幸成は自転車に跨り、それから漕ぎ出した。スリップに注意しながら、大学を後にするのだった。
その晩、幸成はなかなか寝つけなかった。なつきの言葉が、幸成の頭の中をぐるぐると回り続けていた。
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