夢の中だけで恋をした

サワヤ

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第14章(紗里)ただそれだけなのに

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「……ただいま」

 紗里は玄関の鍵を開けて家の中に入ると、小声でそう言った。時間は既に夜中の1時を過ぎていたから、両親は奥の寝室で寝ているのだろうという配慮からだった。

 玄関の照明は点けずに、紗里は黒のパンプスを脱ぐ。階段を上がり、部屋に入った。紗里が照明のスイッチを入れると、部屋がぱっ、と明るくなる。持っていた小さなショルダーバッグを椅子の背もたれにかけた後、そのままベッドへ仰向けに倒れ込んだ。

 ああ、やっと帰ってこられた。バイト先の飲み会っていうのはどうしてこうも疲れるのだろう。まあ、それはそうか。先輩もいれば年下の子もいて、何より社員の人もいる。

 サークルの飲み会にも先輩後輩はいるけれど、あれは楽しむために集まるだけのものだ。バイト先の飲み会とはまるで意味合いが違う。私も数年後にはどこかの企業に就職して、そうしてやっぱり飲み会があるのだろう。考えるだけで憂鬱な気分になる。その時の私は新入社員1年目。そんな飲み会が楽しいわけがない。疲れないわけがない。

 紗里はようやく心落ち着ける自分の空間に戻ってきたことを噛みしめるように、ゆっくりと両腕を高く上げて、それからその両腕をばたん、と布団に落とした。瞼を閉じて、体重をベッドに沈み込ませた。

 アルコールが残っている。この程度なら明日に響くことはないだろうけれど、このまま眠るには十分すぎるアルコールが私の中に残っている。ベッドに包まれた私の体が、どこまでも沈んでいくような感覚だ。

 まだお風呂に入っていないのに。だめだ、逆らえない。私の体が重くなっていく。ゆっくりと、深く、沈み込む。深く。深く。



 紗里が目を開けると、そこは池のほとりであった。いつものように木漏れ日とトンボが紗里を出迎えていて、紗里は岩に座っていた。

 そしてやはりいつものように、夢の中の出来事、記憶、経験が紗里の脳へと流れ込んだ。それは走馬灯のように紗里の中を駆け巡る。昨日も、一昨日も、その前の日も、さらにその前の日も、全ての夜をずっとこの世界でひとりで過ごしていたこと。夢の中で幸成に告白したこと。森を駆け抜け、幸成と鬼ごっこをしたこと。気の遠くなるような長い間、この世界で幸成を待ち続けていること。

 紗里はあまりの頭痛に頭を抱えた。脳がオーバーヒートしているのだと紗里は思った。

 毎回のことだけれど、どんどんとこの頭痛が酷くなっているような気がする。すぐにおさまるとはいえ、どうにかならないものだろうか。

 次第に紗里の頭痛は小さくなり、やがて消えた。紗里はため息をつく。立ち上がり、両手を上げて体を伸ばした。そして紗里は小さく震える。空気はひんやりと肌寒かった。

 さて、今日も幸成君を待ちましょう。いつもと同じように。幸成君は現れないとわかっていても、私にはそうする他ないのだから。


 紗里は日数を刻んでいた岩を見やったが、線を刻むことはしなかった。

 もういい。刻むことに意味はないから。混乱するこの世界で日数を数える為、なんて幸成君には言ったけれど、実際私はもうこの世界に慣れきってしまった。だから現実の今日が何日だったのかを明確に思い出せる。今日は9月4日だった。そして最初にこの夢の世界に来たのは5月25日の夜。つまりこの夢を見るようになってから3ヶ月と少しということだ。

 最初にこの夢を見た時、私は幸成君に会った。それから私は毎晩この夢を見るようになった。1日の休みもなく、本当に毎晩。けれども幸成君が次に現れたのは3日後で、さらにその次は1週間後、そして1ヶ月後だった。

 そしてもう、幸成君は2ヶ月近くもこの世界に来ていない。もしかすると来ているのかもしれないけれど、少なくとも私は会っていない。


 紗里は右手の人差し指を立てて、トンボがそこにとまるのを待った。20秒程経つと、紗里の指先にトンボが降り立って羽を休めた。

「まーくん、今日は調子が良さそうだね。元気なのはいいけれど、あかくんと喧嘩したらダメだよ」と紗里はトンボに語りかける。

 まーくんと呼ばれたそのトンボは、ぱっ、と再び羽ばたいて紗里の指を離れた。


 紗里は屈んで、手頃な石を拾った。こうして毎回小石を拾っていたら、いつか小石がなくなってしまうのではないだろうか、と紗里は思う。

 紗里はその石を池へと投げ込んだ。水面が小さくはねて、それから波紋が広がっていく。紗里はその波紋が消えるまで、水面をじっと見つめていた。

 私もいつか、あの波紋みたいに消えていくのだろうか。私の考えていることも、私の気持ちも。お姉さんになって、大人の女性になって、それからおばあさんになって、そして私は消える。ううん、そもそも夢の中の記憶はいつだって消えているんだ。朝起きて、夢の中だけの記憶を思い出せた試しがない。起きている時の私にとって、幸成君は顔もまともに思い出せない初恋の人。それ以上でもそれ以下でもないのだから。

 夢の中の私と、起きている時の私。夢の中の私は全ての記憶を持っているけれど、起きている時の私はそうではない。分裂は進んでいる。もはや夢の中の私と、現実の私は別人だ。

 でも。

 別人だからいいのだ。そうやって割り切れたらいいのだけれど、そうはいかない。私は私しかいないのだ。私が、私以外の何者でもないことは事実なのだから。

 だから私は問題を抱えている。現実の私は、彰君に惹かれ始めているのだ。このままでは、近いうちに……。

 一方。夢の中の私にとって、大切なのは幸成君のことだけ。この綺麗な寒い世界で、私を暖めてくれる幸成君。いつか奇跡が起きて現実でもお互いのことを思い出せたなら、私を彼女にしてくれるという幸成君。

 私は恋愛に興味がないだとか自己分析しておきながら、今や随分と気の多い女だ。弘樹君のことだけしか見ていない加奈の方がよっぽど純粋な女の子に思える。


 私は幸成君のことを想う資格があるのだろうか。現実では彰君にうつつを抜かし、寒い夢の中では幸成君を待ち望んでいる。なんて自分勝手な女。なんて醜い。幸成君にも、彰君にも失礼だ。幸成君は(そして彰君も)私のことを特別だと思ってくれているのに、その私がこんな女だなんて。

 起きている時の私は、もしかすると彰君に対するこの気持ちが恋愛感情なのかもしれない、と思っている。違う。そんなものは恋愛感情じゃない。夢の中の私は知っているのに、どうして私は忘れてしまうの。

 何か間違って、私が彰君と付き合ってしまったりしたら。私は幸成君に何と言えばいいのだろう。幸成君は私に幻滅するかもしれない。いや、幸成君は優しいからきっと幻滅しないだろうな。だから私は……。


 だめだ。彰君に惹かれちゃいけない。現実の私、どうか気付いて。どうして自分の気持ちを自分で決められないの。どうして私は勝手に彰君とデートしたりするの。


 神様、お願いです。私に幸成君を想わせてください。私の、私にとってのたったひとつの光を。

 幸成君だけを大切に想っていたい。

 私が願うのは、ただそれだけなのに。
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