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第1話 婚約破棄事件

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 空を渡る風は春を迎えて緩み始めたとは言え、まだまだ冷たい。
 だがその分空気は澄み渡り、天空の大神テテスにも今日の日をよくご覧いただくことができるだろう。
 オリヴィアは窓越しに空に向けていた視線を地に落とす。


 開け放たれた窓から静かな風が吹き込み、微かな花の香りを運んできた。
 王宮の庭園には、雪割りの花や飾り布で華やかに飾られた演壇が設けられている。
 雪割りの花は真っ先に豊穣神サリカの恵みを受け取り、雪の中で春を告げるように咲く花だ。
 これから人生の花盛りを迎える若者を祝うのに相応しい花であろうと、卒業式はこの花で飾るのが常だ。

 壇の前には、すでに多くの人が集っている。



「皆様方、そろそろお時間でございます」

 部屋の外から声がかかり、振り返る。
 オリヴィアと同じ控えの間にいるのは、オリヴィアを含めて二十一人の若者だ。
 王立宮廷学校で共に日々を過ごし、今日の卒業を以って正式に貴族の仲間入りをする、同期卒業生たちである。
 それぞれに意匠を凝らした服装だが、共通する点は、男性なら膝丈のマント、女性なら腰丈のケープという外套。
 成人すると着用を許されるものだ。
 公式な場で正装として扱われる家紋入りの外套はみな真新しく、それを翻す姿はどこか誇らしげだ。

「では行こうか」

 係の者に応えて先頭に立って歩み始めたのは、卒業生の中で最高位を持つ、第一王子たるリオン。婚約者であるオリヴィアは、そのすぐ後ろに続く。

「……」

 不満そうな顔をするのはやめて欲しいものだ。
 一生に一度のめでたい場なのだ。
 オリヴィア自身が不満を向けられることにはもう慣れた。
 虚しいことだが。

 しかし、他の卒業生だっているのだから、せめてもう少し、周囲の目というものに配慮してもらいたい。
 オリヴィアだって、その不満を表に出さないようにしているのだ。


 気遣い、というものができない人なのだ。
 生まれた時にはすでに王族だった。
 現王も、先王も、そうではなかった。

 彼は「生まれながらの王族」の最初の一人だ。
 それも、国王の嫡出の長男として。
 その環境が、彼にそのような性格を与えたのだろうか。

 とは言え、ある意味で王族らしくはあるのだろう。
 彼と貴族の間を埋めて取り持つのが、宰相である父と、王妃となる予定の自分の役割だ。
 そのために育てられ、そのために生きてきて、そのために生きていく。

 今日が、「子供」という、それでもある意味気楽でいられた日々の最後の日なのだった。


 建物から出て、庭園へ。
 壇の前に整列する在校生たちと、その両側に分かれて見守る父兄や親族たち。
 みな、拍手で迎えてくれた。

 祝福の空気に、重くなっていた気持ちが上向いた。
 リオンの機嫌を気にするのはやめよう。
 今日のこの記念すべき日を、精一杯楽しもう。
 少なくとも今日は、その権利があるはずだ。

 在校生の列の前、演壇のすぐ下に、オリヴィア達卒業生が一列に並ぶと、式が始まった。




 アルスター王国の王立宮廷学校は、貴族であれば必ず通うことになる、王宮に併設された学校だ。
 卒業生は、式の終了を以ってアルスター王国貴族の一員として迎えられる。
 「子供時代」の終わりを飾り「大人」になるその姿を、先達である大人達と、天高くに座す天空神テテスに披露する、晴れがましい式典である。


 初々しい正装に身を包んだ二十一人の卒業生が、この日のために設けられた壇の前に並び、これまで指導してきた教授たちの言葉を受けている。
 その後方には、七十人ほどの在学生が並ぶ。
 外套を着けない準正装で並び、卒業生の背にきらきらとした視線を向けていた。


 式は進み、式次第は『王族の御言葉』に至る。
 卒業生の列からリオンが歩み出て、壇上に上がった。

 少年の域を脱し、青年と呼べるようになった年頃だ。
 現国王の長男である。
 次期国王の地位が確実視されており、今日成人した後、近日中に立太子の儀式も行われるだろう。
 その堂々とした足取りは、王族という地位にふさわしい。

「親愛なる卒業生たち、そしてご列席の諸卿。

 本日、諸君が我がアルスター王国の宮廷学校を無事に卒業し、新たな一歩を踏み出すことをここに祝う。
 私は第一王子として、諸君を貴族の列に迎えられることを喜ばしく思う。

 まず、諸君に賛辞を送る。
 この学校での厳しい学びを経て、今日の日を迎えることができたことは、諸君の努力の賜物である。
 その努力を称賛する。

 また、ここに至るまで支えてくれた家族や教職員にも感謝の意を表する。
 皆の助けと導きがあってこそ、彼らはここに立つことができた。

 諸君がこれから歩む道は、決して平坦ではないかもしれない。
 貴族としての責務は重く、その責務を果たすには時に困難な選択を迫られることもあろう。
 しかし、この学校で学んだ知識と経験、そして築いた友情を忘れずに進んでほしい。

 王族として、諸君に期待することは、我がアルスター王国の繁栄と発展に貢献することである。
 諸君の成功は、我々全ての誇りとなる。
 信念を持ち、自らの役割を全うしてほしい」

 堂々と話すその姿は、王国に明るい未来を予感させるようだった。

 一度言葉を切ったリオンが、居並ぶ面々に視線を巡らせ、満足そうに頷いた。
 そして表情を改め、再度唇を開く。

「さて、その一環として、ここで告げておかなければならないことがある。
 オリヴィア・レーヴェレット、前へ」

 オリヴィアは虚をつかれた。
 式の予定に無い行動だ。
 この流れで、自分を呼ぶ必要性があっただろうか。

 正直に言って嫌な予感しかしない。
 だが、従わないわけにもいかない。
 オリヴィアは卒業生の列から二歩踏み出し、壇上のリオンを見上げた。


 冷たい視線が返ってくる。
 いつものことだ。いつからだったかは憶えていない。
 だが、気づけばいつも、リオンは冷たくオリヴィアを見下ろしていた。

 もう慣れたものだ。
 慣れなければ、この先の何十年かを考えると、やっていけるものではなかった。




「以前から考えていたことだが、この場で発表する。
 オリヴィア。其方との婚約を、今日この時を以って破棄する」

 理解しがたい言葉が、聞こえた気がした。




「……は?」

 意図せず、貴族令嬢らしからぬ間の抜けた声が漏れた。
 そんなオリヴィアの様子を無視して、リオンは続ける。

「特に秀でたところもなく、できるのは他の貴族に媚びることのみ。
 そのような者を王妃の座につけるわけにはいかぬ。
 王妃に相応しいのは、誰よりも優れ、その能力で国を、貴族を、民を牽引していける者だ。
 其方は王妃の器ではない。
 ゆえに婚約を破棄する。

 以上だ。列に戻れ」

 その言葉には、迷いも躊躇いも無かった。
 オリヴィアに対しても、そして、この祝典の中でそれを言うことにも。

 決めたから伝えた。ただそれだけの「通達」だった。



 会場中がざわめき、オリヴィアの反応を注視する。
 だが、オリヴィアが反応するより早く、動く者がいた。

「リオン殿下に抗議をいたす!」

 大声で宣言すると共に、彼は父兄の列からずんずんと大股で歩み出て、
 オリヴィアより前に立った。

 二十歳くらいの青年貴族だ。
 アルスター王国には珍しい、黒目黒髪にやや彫りの浅い顔立ちは、それだけで彼の出身地を悟らせるものだ。
 その彼が、王子に抗議の声を上げる。会場に緊張が走り、ざわめきが止んだ。


「この場は宮廷学校を卒業した学生達を祝うめでたい場だ!
 その慶事のさなかにこのような不祥事をしでかすとは何事か!
 婚約破棄など、するなら勝手にすれば良いが、それは別に場を設けて当事者だけでするべきことだ!

 このような愚行は卒業生全員の晴れ着に泥をぶちまけるような侮辱である!
 即刻、この場の全員に、特に卒業生に謝罪されたし!」


 堂々と、胸を張って大声で、第一王子たるリオンを糾弾する。

 オリヴィアは彼を知っていた。
 当然である。
 彼は王家にとって最大限の要注意人物。
 未来の王妃として、知らないなどということは許されない相手だ。

 にも関わらず。



「王子に対して何たる無礼か、名を名乗れ!」

 リオンは怒りを込めた誰何の言葉を投げつけた。
 例え顔を覚えていなかったとしても、彼には、この青年のマントが目に入っていないのか。

「これは失礼。私はランフォード子爵アルバートと申します」
「子爵風情が王子を批判するか!何たる無礼か!控えよ!」

 リオンがますます怒りを募らせる。
 対するアルバートはいたって自然体だ。
 リオンの、第一王子の怒りをそよ風のように受け流している。


 オリヴィアはあまりの事態に反応できない。
 『ランフォード子爵』を知らないなどあり得ない。
 だが、リオンはそれを知らないと言い、その通りに振る舞っている。
 ただ、自分の行動を遮る者への不快感で行動しているようにしか見えなかった。

「ほう。当家を知らぬ、と?」
「たかだか子爵風情のことなど、いちいち覚えていられるか!」

 婚約破棄を言い渡された衝撃など、どこかに吹き飛んだ。
 学業に優れた成績を残している一方で、知識に偏りのある王子だとは知っていた。
 だが、これはあまりにも酷い。

 自分をそっちのけにして始まった応酬に、オリヴィアは呆然とする。

「王子たる方のお言葉とは思えませんな。
 臣下の功績を把握し、公平に評価し、賞罰を与えることは、王たる方の何よりの務めでございましょう。
 それなのに、名も知らぬ?
 国王陛下より賜った爵位の持ち主を?
 殿下には王位を継ぐおつもりがおありなのですかな?」
「無礼者!」

 演壇に拳を叩きつけ、リオンは叫ぶ。

「貴様はこれ以上この式に参加することを許さぬ!
 爵位を召し上げられたくなければ、即刻立ち去れ!」
「殿下、お待ちください!
 殿下にそのようなことを仰る権限はございませぬ!
 お取り下げを!」

 さすがにその発言は見過ごせなかった。
 オリヴィアは声を上げる。

 だが、リオンはオリヴィアを睨みつける。

「黙れオリヴィア!
 そなたも不快だ。
 これ以上その顔を見たくはない。
 立ち去るが良い!」

 アルバートと、その背後のオリヴィア。
 二人を指差してリオンは命じた。
 アルバートは肩を竦めて踵を返すと、オリヴィアに手を差し出した。

「何やら、巻き添えにしてしまいましたかね?
 貴家との間には色々ありますが、このような場に置いて行くわけにも参りません」

 苦笑するアルバート。
 リオンに対する敬意も恐れも無さそうだ。
 しかし、オリヴィアに対しては気遣わしげだった。

 オリヴィアはおずおずとその手を取る。
 いまだに半ば呆然としているオリヴィアは、アルバートに引かれて式場を後にした。





 リオンに睨まれながら、渦中の二人が去る。
 だが、事態はこれで終わらなかった。





 卒業生の列の中央に並んでいた女生徒が、無言で壇上の王子に背を向け、二人の後を追うように歩き始めた。
 視線が吸い寄せられる。


 ノーマン辺境伯家の令嬢ソフィア。
 ノーマン織と呼ばれる、異国情緒溢れる織柄の布のケープを揺らし、堂々と歩む。
 今期卒業生の主席を獲得した才媛である。

 その姿には、髪の毛一筋分ほどの迷いも感じられない。
 かと言って重い決意のような物も無い。
 そうするのが当然、と言わんばかりであった。


 そう。
 彼女は主席だ。
 宮廷学校の主席卒業は、専用の勲章を授与されるほどの栄誉である。

 そして主席卒業者には、在校生の送辞に答えて、卒業生代表として答辞を詠む権利が与えられる。
 王族であろうと貴族であろうと、自身の卒業式は一生に一度しか無い。
 その卒業式で、卒業生を代表する。
 この栄誉は、王族すらも押しのけて、主席に与えられるものだった。


 最高の晴れ舞台と言えた。
 





 そこに、父兄席から歩み出た彼女の両親が並ぶ。
 父の方は三人の先頭に立った。
 辺境を守る武人に相応しい逞しい男が、王子に背を向け、堂々と去って行く。
 それは言外に、家としての姿勢を示していた。

 王子の侮辱を、ノーマン辺境伯家は許さぬ、と。



 辺境伯家が動けば、その傘下の派閥の者たちも続く。
 一様にノーマン織の外套を翻して去る一団に、その子女である在校生たちが続いた。


 その動きによる集団心理によるものか。
 オリヴィアの父である宰相レヴェレット侯爵の傘下にある宮廷貴族の派閥が続き、さらには騒動を不快げに見ていた中立派閥の者たちが続く。

 最終的にリオンを除く卒業生全員と、それ以外の出席者の半数ほどが式典の途中で会場から去ってしまったのである。





 残された者たちは、誰もが唖然としてそれを見送るしかなかった。
 数分前からは想像もできない閑散とした場に、ひそやかな囁き声が聞こえ始める。
 整っていた列は、歯抜けと言うには隙間が多過ぎる有様だ。


 気を取り直して式を続けようにも、肝心の卒業生がリオンしかいない。
 式次第では、次に実施されるのは送辞と答辞。
 在学生代表が送辞を送り、卒業生代表が答辞を返す予定だった。
 だが、その両名ともが、この会場から姿を消していた。




 次第にざわめきに支配されていき、誰もが混乱している前で、リオンはあまりにも予想外な事態に、ただ呆然としていた。

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