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【第三章「浮き世と憂き世」】
十九 柳橋から猪牙舟で吉原へ
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翌朝――。
柳原土手からほど近い柳橋の舟宿に梅次郎と音八はいた。
「吉原なんて行ってる場合なのかって気がするんだが……」
「そんなこと言っても梅の字。玉糸さんにここ最近あったことを報告しないとダメだろう? あんたは玉糸さんから多額の金銀をもらってるんだから。ちゃんとお話しなよ」
「それを言われると弱ぇわな。俺も情けない身の上だぜ」
なお、今日は小吉が暇らしいので町の巡回を頼んでおいた。
もっとも「梅次郎てめぇ師匠を顎で使うとはなにごとだ。あとでたっぷり奢れよ!」と、すごまれてしまったが。
どうやら昨夜も夜鷹がやられたみたいで気になるのだが、音八を放っておくわけにもいかない。
「わたしも傷は浅いとはいえ、これじゃ三味線は弾きにくいからねぇ。こういうときじゃないとゆっくり羽も伸ばせないのさ」
さすが元くノ一といったところか、修羅場をくぐり抜けた翌日というのに音八は元気そのものだ。
(女ってやつぁ本当に切り替えが早ぇな)
梅次郎は感心しながら猪牙舟に乗る。
文字通り猪の牙に似た形状から、その名がついた。
吉原に通う男たちが愛用する速さに優れた舟だ。
「梅の字、ちょいと手を貸しておくれよ」
「お、おう」
梅次郎の手を握って、音八も舟に乗りこんだ。
「へい、それでは漕ぎだしやす」
船頭が艪を漕いで、日本堤へ向かう。
神田川から大川(現在の隅田川)に入ってしばらくすると、のどかな風景が広がりだす。
対岸には今戸焼の窯の煙が見えた。
なお、今戸には遊女たちが静養する「寮」が多くある。
現代における寮という単語に高級感はないが、江戸時代においては別荘といった意味あいが強い。
ともあれ。
川を上り、梅次郎たちは日本堤の土手で舟を下りた。
そこからしばし歩き、衣文坂で身だしなみを整え、吉原の大門をくぐる。
この門は外から入ることはできても、中からは自由に出ることはできない。
周囲がお歯黒ドブとよばれる堀で囲まれていることもあり、牢獄のようだ。
(まあ、遊女が逃亡するのを防ぐための門であり、堀だもんな……)
苦界と呼ばれるだけのことはある。
男である梅次郎には、日夜男を変えて尽くす苦しみは想像しにくかったが……。
なお、遊女には簪や着物、寝具に至るまで町人暮らしからは考えられないほどの金銀が費やされている。
こんなに豪華絢爛な場所はどこを探してもこの世にふたつとないだろう。
(籠の中の鳥ならぬ籠の中の花魁か)
口ばかり上手て男をやりこめることが生きがいのような玉糸だが、少し可哀そうな気がしてくる。
いくら着飾って豪華な家具に囲まれても、囚人のようなものだ。
「オヤ、梅の字ったらわたしと一緒なのにほかの女のことを考えてるのかい?」
「そんなんじゃねぇやい」
「顔に書いてあるよ。玉糸さんに会えるのが嬉しくて仕方ないってさ」
「ち、違ぇよ。花魁ってのも、まあ、その、大変だなって思っただけさ」
つい、ぶっきらぼうに言ってしまう。
「まあ、大変かもしれないねぇ。梅の字のような手練手管で落ちない男を相手にしてちゃあ」
「俺ぁ客じゃあねぇし剣ひとすじだからいいんだよ。俺に色恋は不要だ」
「フフ、本当のところはどうなんだか。まあ、ちょうどいい機会かもしれないねぇ。三人揃って話す機会ってのもなかなかないからね」
音八はそう言って意味ありげに笑った。
柳原土手からほど近い柳橋の舟宿に梅次郎と音八はいた。
「吉原なんて行ってる場合なのかって気がするんだが……」
「そんなこと言っても梅の字。玉糸さんにここ最近あったことを報告しないとダメだろう? あんたは玉糸さんから多額の金銀をもらってるんだから。ちゃんとお話しなよ」
「それを言われると弱ぇわな。俺も情けない身の上だぜ」
なお、今日は小吉が暇らしいので町の巡回を頼んでおいた。
もっとも「梅次郎てめぇ師匠を顎で使うとはなにごとだ。あとでたっぷり奢れよ!」と、すごまれてしまったが。
どうやら昨夜も夜鷹がやられたみたいで気になるのだが、音八を放っておくわけにもいかない。
「わたしも傷は浅いとはいえ、これじゃ三味線は弾きにくいからねぇ。こういうときじゃないとゆっくり羽も伸ばせないのさ」
さすが元くノ一といったところか、修羅場をくぐり抜けた翌日というのに音八は元気そのものだ。
(女ってやつぁ本当に切り替えが早ぇな)
梅次郎は感心しながら猪牙舟に乗る。
文字通り猪の牙に似た形状から、その名がついた。
吉原に通う男たちが愛用する速さに優れた舟だ。
「梅の字、ちょいと手を貸しておくれよ」
「お、おう」
梅次郎の手を握って、音八も舟に乗りこんだ。
「へい、それでは漕ぎだしやす」
船頭が艪を漕いで、日本堤へ向かう。
神田川から大川(現在の隅田川)に入ってしばらくすると、のどかな風景が広がりだす。
対岸には今戸焼の窯の煙が見えた。
なお、今戸には遊女たちが静養する「寮」が多くある。
現代における寮という単語に高級感はないが、江戸時代においては別荘といった意味あいが強い。
ともあれ。
川を上り、梅次郎たちは日本堤の土手で舟を下りた。
そこからしばし歩き、衣文坂で身だしなみを整え、吉原の大門をくぐる。
この門は外から入ることはできても、中からは自由に出ることはできない。
周囲がお歯黒ドブとよばれる堀で囲まれていることもあり、牢獄のようだ。
(まあ、遊女が逃亡するのを防ぐための門であり、堀だもんな……)
苦界と呼ばれるだけのことはある。
男である梅次郎には、日夜男を変えて尽くす苦しみは想像しにくかったが……。
なお、遊女には簪や着物、寝具に至るまで町人暮らしからは考えられないほどの金銀が費やされている。
こんなに豪華絢爛な場所はどこを探してもこの世にふたつとないだろう。
(籠の中の鳥ならぬ籠の中の花魁か)
口ばかり上手て男をやりこめることが生きがいのような玉糸だが、少し可哀そうな気がしてくる。
いくら着飾って豪華な家具に囲まれても、囚人のようなものだ。
「オヤ、梅の字ったらわたしと一緒なのにほかの女のことを考えてるのかい?」
「そんなんじゃねぇやい」
「顔に書いてあるよ。玉糸さんに会えるのが嬉しくて仕方ないってさ」
「ち、違ぇよ。花魁ってのも、まあ、その、大変だなって思っただけさ」
つい、ぶっきらぼうに言ってしまう。
「まあ、大変かもしれないねぇ。梅の字のような手練手管で落ちない男を相手にしてちゃあ」
「俺ぁ客じゃあねぇし剣ひとすじだからいいんだよ。俺に色恋は不要だ」
「フフ、本当のところはどうなんだか。まあ、ちょうどいい機会かもしれないねぇ。三人揃って話す機会ってのもなかなかないからね」
音八はそう言って意味ありげに笑った。
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